第23話
(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)の第二段階は、早乙女一也に劇的な変化をもたらした。
通称(ティアラシステム)の初号起動試験は、早乙女一也に大きな戸惑いを与えたが、活性連携の糸口としては上場のものだった。出力調整の整っていないデフォルトでの接続が、早乙女の脳に未知なる負荷を与えたらしい。きっかけを得たミラーニューロン群は直ちに新しい順応を示し、脳内で活性連携のパターン構築を始めた。fMRIによる血流造影にも変化が表れている。フィードバック装置によるインパルス発信が効果を上げたのだ。
(アベックシート)はこの段階でも大いに役に立った。治療の記録は元より、制御されたバーチャルシュミレーションは、ミラーニューロン群活性連携の段階的な関連付けに最適だったのだ。葵たちはサーバに保存された映画のフッテージにランダムアクセスする設定をシステムから除外した。狙い通りの内容を(ティアラシステム)に繋がった二人に視聴させることで、誘導者の脳内活動を目的別に患者へ送り込むことが出来る。
この一週間で早乙女一也は、(友情の基礎概念)と(ライバル心)を理解した。
中でも葵が一番の進歩だと感じたのは、早乙女が吉本興業の演芸を観て笑ったことだった。葵の活性ネットワークの表現形に釣られたのだとしても、それは大いなる進歩である。
彼にもギャグが理解できたのである。
早乙女の心の底から笑った、楽しそうな笑顔が忘れられない。
治療室の丸テーブルに着いた早乙女は、にやにやしながら独り言を呟いていた。
「怒るで、しかし! 正味な話、……いらんこと言わんでええがなー、……ふふふっ」
葵は一息入れるための紅茶セットをテーブルに置くと、早乙女の肩に軽く触れた。
そこで一言つっこみ。
「なんでやねん」
葵が含み笑いを浮かべると、早乙女は照れくさそうに肩をすくめた。
「吉本新喜劇は気に入った?」と、葵。
「はい。……言葉が速くてわからないところもあるけど、語感が面白いし、タイミングが可笑しいです」
早乙女の答えに葵は満足そうにうなずいた。
「ベタな関西弁だからね。あたしもあんまり早いのは聞き取れないのよ、独特だから。あの巻き舌の高速トークのお姉さんとか、ね」
早乙女は大きくうなずいた。
「ああ、それそれ。僕もわかりません」
そこで早乙女は頭を振り、思い出し笑いする。葵は言った。
「でも面白いでしょ?」
「ええ。そうですね」
「いい傾向。ギャグはね、そういう風に楽しむものなのよ。…… 何、入れる?」
葵は紅茶を指差した。
「ミルクと砂糖を」
「じゃ、あたしはレモン」
早乙女は葵の仕草を見詰めながら口を挟んだ。
「レモンは紅茶の渋みを強調します。香りも消えるし」
「でも口がさっぱりするでしょ。あたしは好き」
二人はそれぞれの味覚に合わせた趣向の紅茶を満足げに啜った。
しばらくして早乙女が口を開いた。
「洋子さん」
「なあに?」
「新しい治療から七日経ちますけど」
「そうね」
「僕、どうですか?」
「うん?」
「何か変わって来てますか?」
葵は紅茶のカップを下ろすと指を組み合わせた。
「一也君、自分ではどうなのよ? 影響は感じてる?」
早乙女は、ふうとため息を吐いた。
「影響ですか。そうですね。治療受ける度に頭の中を掻き回されるような、……それは感じてますよ。でもその後、実際どうなのか自分ではわからないんです」
葵は優しい目で早乙女を見詰めた。
「影響は確実に現れているわよ。それもいい方向に」
「そうですか?」
そこで葵は眉をしかめ、早乙女に言った。
「でも頭の中を掻き回されるようなって。……あたしの中って、そんな凄い?」
早乙女は黙ったまま二度、首を縦に振った。
葵は眉を吊り上げると言った。
「なんか心外だな。あたしは至って穏やかなつもりなんですけど」
「僕にはどれも、初めての経験ですから」
「そうね。ま、それはそうかも」
そこで葵は言葉を切った。
「でも、あなたは確実に変わって来てる。……正味な話」
そう言って葵は、にんまり笑った。早乙女はオチに気付くと嬉しそうな声を上げた。
「葵さん、それ、面白いです」
「一也君がそんな風に声を上げて笑うなんて、二週間前なら考えられないことよ。あたしは逆に感動しちゃったわ」
葵は肩をすくめた。
「僕、お笑いの意味がわかって幸せです」
早乙女は黙って紅茶を飲んでいたが、思い立ったようにもう一度口を開いた。
「あ、そうだ、もう一つだけ」
葵は面白そうに含み笑いを浮かべた。
「何それ? テレビドラマの刑事さん?」
「え? 何です?」
葵は否定するように右手をひらひらと振った。
「いいのよ、気にしないで」
「はあ……」
「で?」
早乙女はカップを置き、葵の方に身を乗り出した。
「昨日、観た映画なんですけど」
「ああ、あれね。珍しく丸ごと一本観たのに、ちょっと辛気くさい話だったわね。主演の男の子はハンサムだったけど」
「ええ。そうですね。……あの物語」
「はいはい?」
「あの物語は……兄弟の競争心がテーマなんですか?」
葵は思案するように唇を叩き、それから答えた。
「それも一つの要素かしらね。でも、どちらかと言うと、父親の過去への確執が息子たちの人生にも影を落とすっていう、こっちが本題かしら?」
「父親は自分の奥さんを嫌っていて、息子たちから母親の存在を隠していました」
「ええ」
「双子の兄弟の兄は父親に似た。でも弟は嫌っている奥さんに似た。それが父親は気に入らなかった」
「そうよ。その通り」
早乙女は難しい顔をした。
「何故、奥さんと似ていると弟が嫌いなのですか? 基本的に人間は独立した存在です。母親と息子と言っても結局は別の個体だ」
葵は腕を組んだ。
「そうねえ。皆があなたのように考えたら家庭はもっと円満でしょうね。……私の考えはこうよ。あの父親は少し世間知らずで、清教徒的な生き方を良しとしているの。話の中でははっきり描かれていないけど誰かが過去に、幼い頃の父親に、そういった影響を与えた先祖がいるのかもしれない」
「清教徒的って何ですか?」
「キリスト教って知ってるよね?」
「はい」
「この話の場合はキリスト教ね。つまり人生をより良く、正しく、清らかに過ごすための指針を宗教的教義にゆだねて生きる人たちのことよ」
「人生を歩むための哲学ですね?」
「そう」
「それで?」
葵は話を戻した。
「それで、……そうね。彼は、……あ、父親の事ね。あの父親は妻と結婚したとき、その考えを妻に押し付けたのよ。自分の考えを絶対視するために、その正しい生活を妻も送るべきだと考えた。ところが妻はそういうタイプじゃない。映画の中でも言ってたじゃない。(私は命令されるのが大嫌い)ってね」
早乙女は考え込んだ。
「その教義は間違っているのですか? 正しい教義なのでは?」
「もちろん正しいわよ。でも選択するのは人間だから」
「ソーシャルトレーニングみたいですね」
「そうね。それが正しいことは社会的に認められた事実。でもそれが無くても生きる事に困りはしないわ。社会的に正しい、という見方には、ある程度の柔軟性があるものなのよ」
「現実の社会は少しいい加減なのですか?」
葵は曖昧にうなずいた。
「全てが厳格に規定されると、多くの可能性や偶然が渦巻いている実社会にそぐわなくなってしまう。大勢の人間がいて、あなたの言うように基本、個人は千差万別の違いをもっている。たった一つのマニュアルでは解決できないわ」
「揺らぎですね」
葵は人差し指を立てると表情を輝かせた。
「そう。いい言葉ね」
早乙女はそこで疑問を口にした。
「ではなぜ父親は唯一の厳格なマニュアルを求めているんでしょう? 奥さんと上手くいかなかったマニュアルで、良く似た弟とやって行けるはずないです。理屈が通らないでしょう?」
「そういう考え方を原理主義と言うのよ。たった一つの生き方しかないと自分に言い聞かせて生きて行くの」
「どうして?」
葵は少しためらった。
「自分がどうしたいか、考えがないからよ。考えたくないの。だからそういう人は、人様が考えた哲学を代用にして答えが出たことにしている」
早乙女は爪を噛み、しばし考え込んだ。
「まるで僕らみたいだ」
葵はじっと早乙女を見詰めた。
「あなたは違うでしょ。それを今考えているんだから」
「僕は考えていますか?」
「もちろんよ。あなたは自分で判断出来る人間だわ」
葵は黙って早乙女のカップに紅茶のお替りを注いだ。
対流するミルクの白雲が沸き立ち、エントロピーに従って拡散していく。紅茶の中の景色は、早乙女に夕暮れ時の東の空を思わせた。
「今の話をまとめると、この父親は愛すべき人物ではないと思われるのですが」
「ああ、そうね。でも最後には弟くんの良さがわかるわけだし、映画的にはハッピーエンドよ」 葵がそう結論付けると、早乙女はまたもや難しい顔をした。
「僕があの映画をそのまま観ても、理解は出来なかったでしょう。僕は(ティアラ)の仕掛けで洋子さんの気持ちを通して観ている」
「そうね」
「不思議なのは、あなたがそれほど、あの父親を嫌ってはいないことです。僕にはそれがはっきりわかった」
葵は曖昧な笑みを浮かべた。
「私もね、小さい頃この映画を観たとき、そう思ったわ。あの父親が嫌だった。でもね、父親が弟を嫌うあの態度は、彼の存在によって自分の過ちを再確認させられるからだと思うわ。妻との失敗を引きずりながらも、どうする事も出来ない。根の深い解決出来ない矛盾を息子に向ける不甲斐なさ。それを彼は噛み締めているんだと思うわ」
「ウーン……」
納得出来ないという顔の早乙女に、葵は付け加えた。
「それにね、どうしてあの父親が弟の大豆で儲けたお金を受け取れないか、わかる?」
「何でしたか? 忘れてしまいました」
「あの時代は戦争勃発の直前なの。お父さんは町で徴兵委員をやっているのよ。つまりあのお父さんのサイン一つで、いろんな家庭の子供たちが戦地に送られて行くわけ。もう帰って来ないかもしれない。弟はその戦争景気に便乗して大豆の先物で、がっぽり儲けちゃう。あのとっぽいお父さんの事業の損失を補填するほどにね。だからそういったお金だから、余計に貰うわけにはいかないのよ。……あの人なりに苦しい立場なの」
「だから洋子さんは、同情的なんですね」
早乙女はようやく納得した様子だった。
そこで葵は少しおどけた口調で続けた。
「あの映画で何より嫌なやつは、あいつよ」
「お兄さん?」
「ピンポーン。あんな生けすかない男、誰が好きになるってのよ? あの彼女、変わり者だわね」
「でも最後には弟が好きになりますよ」
「最初になびく時点でおかしいでしょ? あり得ないし。そう考えると、あの女も嫌だわね」
早乙女は大きくうなずいた。
「洋子さんの考えは痛いほどわかりましたよ」
「あら、痛かった? ……ごめんね」
二人は顔を見合わせ笑った。葵は早乙女にたずねた。
「一也君は、どこが面白かった? 辛気臭い話だけど、何かあるでしょ?」
早乙女は顎をさすりながら呟いた。
「そうですね。……強いて選ぶなら、お父さんがレタスの事業を考え付くのが、マストドンの冷凍遺体の発掘にアイデアを得ているというところですかね?」
葵は怪訝な表情をした。
「マストドン? そんなこと言ってた?」
「ええ。始まってすぐの辺りで。でも、洋子さんは興味なさそうでしたよ」
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