第20話


 二〇二二年・四月一四日木曜。

 傾斜路を下りに差し掛かった折、X型のシンメトリーの病棟が目に入った。ミース・ファン・デル・ローエを彷彿させる、洗練された機能主義的な様式である。淡いベージュのタイルが、花の終わった新緑の桜並木に映えた。

 路面に残る薄桃色の花弁が小気味よく、ラジアルタイヤのトレッドに舞い上がっては消えていく。

 沢木亨二は機動警邏車を走らせ、初瀬研へ赴いた。


 中央のエントランスを潜り、バッジを見せて受付を済ませると、沢木は指示された通り、北西棟の特別エリアへ向かった。閉鎖病棟に入ってすぐに、外光の降り注ぐサンルーフを見かけた。中庭に繋がるホールというのは、どうやらここのことらしい。

 開け放たれたフランス窓を抜け、ポーチに降り立つ。芝生の力強い弾力は、厚い靴底を通しても伝わってきた。

 沢木は辺りを見回し、たちどころにたずね人を見つけた。

 小さな噴水池の畔に二人の姿はあった。眩い日差しの中、中腰で覗き込んでいるのは、葵 洋子BM療法士だった。見慣れたブルーの看護着姿。波紋の反射を受け、水面に指を走らせているのは、自閉症スペクトラム患者、早乙女一也である。

 沢木は遠巻きに声を掛けた。

「何か珍しいものでも?」

 はっとした様子で葵が顔を上げた。早乙女は興味すらないらしく、じっと水面を見詰めたままだ。葵は眉をひそめ、記憶を辿っていた。

「あ、……沢木、さん?」

 葵はどうやら沢木の顔を覚えていたらしい。微笑みを浮かべ近付いて来た。沢木は軽く右手を上げると挨拶に代えた。そのままゆっくりと下し、眩い波紋を遮る。

「覚えててくれましたか。感激ですね」と、沢木。

 葵は少しはにかむように身体を揺すると、後ろ手に腕を組んで小首を傾げた。

「看護婦は名前には強いんですよ」

「あー、なるほど。やっぱり仕事柄ですか? そうかもしれないな」

 沢木はアポロキャップを脱いだ。少し汗ばんだ前髪を搔き上げる。ピアスが揺れ、陽光にきらりと輝いた。葵は改めて確認したが、やはり茶髪のロングヘア捜査官とは、少々変わり種だった。加えて、なかなかの美男子でもある。

覗き込む仕草に興味本位が見え隠れしながら、葵は沢木にたずねた。

「あなたもそうじゃないですか?」

「何です?」

「記憶力。捜査官なんでしょ?」

 沢木はいきなり破顔一笑した。

「自分は駄目ですね。端末のアドレスだって満足に覚えられないんだから。……でもあなたの名前はしっかり覚えましたよ、病院でね。美人は……」

 沢木は人差し指を立てるとウインクした。

「脳に焼き付くんです、葵 洋子さん」

 沢木の軽口に葵は表情を引き攣らせると小さく咳払いした。

「からかわないでください。……私、そういうの苦手ですから」

 葵の様子に沢木は顔を曇らせた。

「これは失礼。割と真面目な方なんですな、あなた」

 葵は薄く瞼を閉じると口を尖らせた。

「割と、じゃありません。同僚には、……堅物、とか言われてますけど」

 沢木はにやにやしながら、

「そりぁ、言い過ぎでしょう?」

 そう言って沢木はぴんときた。

「同僚ってのは、この間のピンク眼鏡の女の子ですか?」

 葵は静かに同意した。

「ええ。笠原美紀さん」

「そんな名前でしたかね?」

 葵はぎろりと、きつい視線で沢木をにらんだ。

「美人の名前には強いんじゃありませんでした?」

 沢木は眉を持ち上げると、悪びれもせず小さく肩をすくめた。

「私もタイプはありますからね」

「……」

 返答に困る投げ掛けである。沢木は少々意地悪を楽しみ出していた。葵は言葉を呑んで答えず、はぐらかすように早乙女一也に近付いた。

「ねえ一也くん、この人のこと、覚えてる?」

 葵が肩にそっと触れると、ようやく気付いたのか、少年は池の波紋を受ける右頬をこちらに向けた。沢木は指をひらひらさせた。

「よう、少年」

 早乙女はしばらくの間、沢木の顔を見詰めると眼をすがめた。葵がすかさずフォローした。 「彼、あの事故のことはあまり覚えてないんですよ。限定的記憶喪失ってわかります?」

 沢木は口をへの字に歪めると、うなずいた。

「ええ、わかりますよ。ショックによる一時的な記憶の混濁でしょう?」

「そうなんです」

 今度は葵が沢木の態度から察する番だった。

「もしかして、一也君に用事でした?」

 沢木は広げた両手を揉み手の形に合わせると苦笑いした。

「上司の命令でしてね。この間の一件、……実は調査を始めたんです」

「まあ、何か不信な点でも?」

 そう葵が言ったところで、早乙女が小さな声を上げた。

「大きな背中……」

 沢木と葵が振り返った。早乙女は言葉を繋げた。

「煙草の臭い」

 沢木は身をかがめると、早乙女に挨拶した。

「覚えててくれたかい?」

「はい」

「身体は、もう大丈夫か?」

「はい。……あなたは命の恩人です、沢木亨二さん」

 早乙女は機械的にそう答え、沢木にぺこりと頭を下げた。そして早乙女は再び視線を池に戻した。沢木は眉をひそめると苦笑いした。

「随分なご挨拶だね。彼、感情が乏しいんですか。これが病気の特徴?」

 葵は静かに同意した。

「自閉症スぺクトラムは、社会や他者とのコミュニケーション能力の発達が遅滞する、発達障害の一種です。先天性の脳機能障害、いわゆる認知障害ですね」

 沢木は考え込むように顎を擦った。

「ま、必要なだけの言葉はしゃべってますけどね」

「彼が口にする慣用句は、社会生活で必要とされる受け答えをトレーニングによって身に付けたものです。彼は長い期間、ソーシャルトレーニングを受けて来ましたから」

「訓練の賜物ですか。彼の中では正しい理解を?」

「理屈の上では、そう言えます。そこに感情が一致しているかと言われれば、……ご覧の通りです」

 沢木は納得した。

「なるほど。大変な病気だな。この病気、長いこと不治の病いだったんですよね、極、最近までは?」

 葵は値踏みするような視線を沢木に向けた。

「今だってそうですよ。……沢木さん、ちょっといいですか?」

「はい?」

「この間、病室でも同僚の方がその話をされてましたけど、どこかで何か聞かれました?」

「何です?」

「初瀬研の研究内容についてです」

 沢木はうつむくと頭を掻いた。

「我々治安管理局はこのステーション内で行われる全ての事業について、検証出来る立場にあります。いかなる出来事も治安と密接に関係しているので」

「つまり機密情報にも入り込めると?」

 詰め寄る葵に、沢木は決まりの悪い含み笑いを浮かべた。

「このステーションに限って、秘密は存在しないんですよ」


 午前十一時半を過ぎたので、葵は沢木を職員用のフードコートへ連れて行った。そこで早乙女一也とは別行動になった。彼の食事は患者専用のブースで用意されているためだ。葵によると、それが自然なことなのだそうだ。時間も場所も全てが決まった通りに繰り返すことが重要らしい。一週間、一日三食のメニューも各自細かく決められている。沢木はそれを聞いて、管理主導型の刑務手順のような不快な冷酷さを感じたが、それはどうやら病院の方針とは関係のないことだった。患者側からの要望なのである。

 職員用フードコートはちょっとしたショッピングモールに併設されているのと、同程度の規模を持ち、有名ファースト・フード店も軒を連ねている。一般的知見では、あまり健康志向とは言えない食事が、細かいカロリー、成分表示を添えてメニュー表現されていた。原材料はどれもナチュラルフードと言って遜色ない。

 沢木はカレーライス、葵はサンドイッチを注文した。

 カレー一杯で2ユーロ。これは破格の安さである。何らかの助成金が投入されていることは間違いないだろう。


「目撃情報?」

 葵は付け合わせのパセリをフォークで突つきながら、鸚鵡返しにたずねた。

「そう。早乙女一也君は、私以外の唯一の現場目撃者なんです」

 沢木はそう言うと福神漬をスプーンに掬った。

「恐らく私の到着する数分前から、彼はあの場所にいたはずです。私がそこで見たことは私が証言出来るが、その前は……」

 沢木は言葉を切り、眉間に皺を寄せた。

「彼が何か見ているかもしれません」

 葵は反論した。

「でも彼はあの事故のことをあまり覚えていませんし……」

「わかってますよ、限定的記憶喪失でしょ?」

「ええ」

「でも、私が聞きたいのは事故のことじゃない。その前の話なんです」

 葵は沈黙したまま考え込んだ。

「彼の病状は非常にデリケートで、……それに特殊な研究対象の被験者でもあるんです。だから迂闊なことは出来ませんの」

 沢木はスプーンを置くと腕組みした。

「それは医療者の患者に対する守秘義務か何かですか? それとも愛情?」

 沢木の言葉は微かに非難の色を帯びていた。

「ジュネーブ宣言には、もちろん順守してます。でもそれとこれとは関係ないわ。私はただ、彼の現在の状況について話しただけです」

 葵の言葉が頑なになったので、沢木は困った顔をした。

「勘違いしないでくださいね。私は何もあなたを困らせようとしてるわけじゃない。捜査の一環として早乙女君に少し話を聞きたいと思ってるだけでしてね」

 沢木の口調が急に猫撫で声になったので、葵はうつむいてしまった。

「ご免なさい。私、言い方が良くないですね。……どうもこういうやりとりに慣れてなくて」

 沢木は指を組み合わせると穏やかに呟いた。

「慣れてる人がいたら、多分そいつは悪党ですよ」

 沢木は口の端を曲げると笑って見せた。それから小さく両手を広げ言った。

「どうも我々は皆さんを不安にさせるらしい。治安管理官なのにね。この制服のせいかもしれないな」

 葵は急に取り繕うような上滑りな受け答えをした。

「いいえ、そんなことないですよ。威厳があって立派だと思います」

 沢木は、ふと思いついて話題を変えた。

「そういえばお互い制服商売ですよね。私は警官、あなたは白衣の天使」

 葵は上目遣いに微笑むと沢木に言った。

「今時分、白衣の天使だなんて誰も言いませんよ。BM療法士は3K職業の代表ですから」

「我々も似たり寄ったりです。……しかし、社会的イメージは対極だな。片や権威と恐怖の象徴、もう一方は癒しと慈しみ、かな?」

「そう言って貰えたら嬉しいですけど」

「私はそう思ってますよ。……あなた、仕事に誇りを持たれているんですね」

 葵は即答した。

「ええ、勿論」

 そこで言葉を切り、後を小声で繋いだ。

「そうありたいと思っています」

 沢木は葵の様子を伺い、小さくうなずいた。

「色々と大変そうな職場だし、仕事も忙しい。それでもあなたは輝いて見えますよ、葵さん」

「え?」

「やっぱり心掛けですかね?」

 葵は上目使いに沢木を見詰めた。

「あなたは、自分の仕事に誇りを?」

 沢木は鼻を鳴らし、渋い顔で首を振った。

「買いかぶらないでくださいね。私は、あなたのようじゃないですよ。何というか、……志が低くてね。仕事はいつも、労役だと思ってますよ。今も上司から仰せ遣ったこの任務が重荷でしょうがないくらいで」

 葵は残念そうに目を伏せた。

「そうですか」

 二人の間に一時の沈黙が流れた。

「あれ? 何の話でしたっけ?」

 沢木が目玉を回してみせると、葵が笑った。

「早乙女一也君へ目撃情報の質問、でしょ?」

 沢木は唇を噛んで人差し指を振った。

「そうそう。……そうでした。危うく本題を忘れるところだ」

 沢木は咳払いして軌道修正した。

「まあ、そんなわけで、私としては早乙女君への質問を了承して頂きたい。どうでしょう?」

 沢木は自分の両膝に手を置き、頭を下げた。

「あなたや早乙女君には絶対に迷惑掛けませんので、この通り」

 葵は頭を下げた沢木をじっと見詰めたまま、しばらくの間沈黙した。一分ほど間を置き、気持ちの整理が付いたのか、葵は言葉を発した。

「わかりました。沢木さん。あなたは命の恩人だし。あんまりつれないことも出来ませんよね」   沢木が顔を輝かせて葵の方を見る。

「ほんとですか?」

 葵は微笑みを浮かべ、うなずいた。

「ただし、私も同席しますよ。時間制限も私が決めます。それでよろしい?」

「構いません。どのみち長くは掛りません」

 葵は眉をひそめると沢木に問うた。

「でもどうして彼が何か見てると?」

 沢木は顎に手を添え言った。

「単なる勘ですがね。犯人の習性ですよ。一度は現場を下見に来るもんです」

「ミステリの定番みたいですね」

 葵はトレイを持つとテーブルを立った。

「では早速」

 沢木は、きょとんとして葵を見上げた。そして同時にこう思った。すらりとした、いい女である。

「今から、ですか?」と、沢木。

「ええ。そうしましょう」

 沢木も慌てて席を立った。

「そうですか。わかりました。……行きましよう」

 葵は、そこで含み笑いを漏らした。

「もし一也君が何かを見てたとしたら、有力な証拠になりますよ」

「どうしてです?」

「彼には、特別な才能が」


 葵は、沢木と早乙女を連れ、二階の作業療法室2号を訪れた。

 扉を開けると、狭い物置部屋のような空間が開けた。独特の植物性の匂いが沢木の鼻をくすぐる。

「うん? 何か懐かしい匂いだな。田舎の薪置場を思い出す」

 葵は先に立って部屋に入り、突き当りにある唯一の窓のカーテンを開けた。暗がりに差し込む外光が、舞い踊る埃をきらきらと輝かせた。

「これはテレピンオイルの臭いです」と、葵。

「テレピン?」

「そう。松脂から精製して作る画用オイル」

「ああ、なるほど。ここで誰か絵を描いてるわけですか?」

 葵は入口の傍らでじっとしている早乙女を指差した。

「ここは彼のアトリエです」

 沢木は早乙女を一瞥すると、部屋の様子を観察した。パーテーションで仕切られた僅かのスペースに、イーゼルと作業キャビネットが設置されていた。背後にカバーを被った病室機材。壁際にはキャンバスが十数枚立て掛けてあった。

「随分と狭いですね」と、沢木。

 葵はうなずき、早乙女に声を掛けた。

「一也君、沢木さんにあなたの絵を見せてあげたら?」

 早乙女は戸口を背に突っ立っていたが、二人の視線を受け恐る恐る前に出た。

「僕の絵が、観たいですか?」

 長身の早乙女は沢木に視線を合わせず、もじもじしている。沢木は快活に答えた。

「ああ、是非。観たいね」

 早乙女は眼を上げ、珍しく嬉しそうに微笑んだ。

 イーゼルに掛けられた埃除けの覆いを外すと、仕上げに近付いた風景画が現れた。小振りな一〇号ほどのキャンバスには、三十番シャフトに向かう途中の公園から見える光景が描かれていた。環境河川に落ちる陽の漣が、正確な時刻さえ想像させた。恐らくは午後二時辺り、季節は三月上旬といったところだろう。

「ほう、これは凄いな」

 思わず感嘆の声を上げ、沢木が顔を近付ける。

 意外にも近付いてみると、筆致は驚くほどはっきりとした大きなストロークだった。しかし、ほんの一メートルも離れると、その毛羽立った動きは材質感へと還元された。なんとも奇妙な体験である。沢木は眼を瞬いた。

「すぐ近くの公園からの眺めなんですよ。ご存じ?」

 葵の言葉に沢木はうなずいた。

「わかります。私も行ったことがことがある。この川は十区に繋がる環境河川だ。確か六号かな?」

「そうです」

 と、早乙女がはにかみながら小声で答えた。河川に沿って赤いレンガ色の舗装路が、どこまでも続いていく。窪地のような大地の曲線に赤とブルーのストライプが走り、曖昧な空気散乱の霞へ薄れて消えた。沢木はもう一度、青黒い河川に光る漣を見た。正確な色分析が錯覚を生み出し、塗り込まれた単なる絵の具の羅列を、眩しいと感じてしまう。沢木は無意識に目を細めていた。

「妙だな。細かく描き込まれたわけじゃないのに凄くリアルだ」

 早乙女は壁際に並んだキャンバスを一枚一枚、表に向けながら答えた。

「これはオランダ絵画に倣った手法で、厚みのある絵の具の層に薄い滲みをグレーズすることで絡み合い、画面に複雑な陰影を落とします。それが材質感になるんです」

「オランダ絵画?」

 眉根を寄せる沢木に葵がアドバイスした。

「レンブラント、ハルス、それにフェルメール、その辺りだったかしら?」

「フェルメールは聞いたことがありますね。……そうだ、地上で一度、観たことがある」

 沢木が何気なくそう呟くと、早乙女が食い付いてきた。

「ほんとですか? 何を観ました?」

「うーんと、そうだな」

 沢木は頭を掻きながら記憶を辿った。

「昔、付き合った女が芸術かぶれでね。あちこちで行列に並ばされて。……上野の西洋美術館だったかな。確かミルクを注いでる肥ったおばさんの絵だった」

「牛乳を注ぐ女」

 早乙女は目を輝かせた。

「どうでした?」

「そうだな。俺は絵のことは良くわからないけどリアルだったよ。まるで写真のようだった。色も奇麗だったなあ。特に青と黄色が印象に残ってる」

 早乙女は想像を巡らせ、納得した様子で満足な笑みを浮かべた。

「フェルメールは素晴らしいです」と、早乙女。

 沢木は並べられた作品を、一枚ずつ丁寧に鑑賞した。どれもこの病院に移ってからの作品らしい。風景画が大半を占めていた。題材は(月の王冠)のトーラス居住区で目にした様々なものだった。特徴は弓型に曲がった窪地のような大地である。

 手法は様々で、先ほど話に出たオランダ絵画の技法もさることながら、更に古典的な面相筆のハッチングを積み重ねた、テンペラのような質感を持つ細密画もあった。建物のタイル一枚一枚、木々の梢の一本一本が詳細に描写されている。

 こうしたジャンルは現代の絵画芸術の中でも、脈々と受け継がれているリアリズムの系譜と聞く。早乙女の腕前は、その筋の展示会に持っていっても十分に通用するものだと沢木は思った。画商が付けば一万ユーロ単位の商品になろう。勿論、今は可能性の段階だが、早乙女一也という少年、この弱々しい存在は、自分よりも遙かに大きな生活手段を持っているのである。沢木は明らかな格差を噛み締めながら、皮肉な笑みを浮かべた。

 絵の中には、人物画も数枚含まれていた。一枚は四十代半ばの男女の肖像である。もう一枚は二十代後半の青年だった。

「これは?」

 沢木は振り返って早乙女を見た。

「僕の両親」

 早乙女はそう答え、それから青年の像を指した。

「辰巳 治さん。僕の絵の先生です」

 葵が補足した。

「彼に絵の手ほどきをした作業療法士の方です」

「地上で?」

「ええ、立川心身障害児総合センターにいた頃の話」

「ご両親は?」

 葵は首を横に振った。

「九年前の事件で亡くなっています」

「(神の槍)事件ですか?」

 葵は静かにうなずいた。沢木は早乙女の表情を盗み見たが、能面のように微動だにしなかった。沢木は重々しくうなずいた。

 立川付近の絵も見つかった。地上の絵は、すぐにわかる。大地が平らだからだ。地面が空の向こう側に回り込んだりはしない。モノレール駅から遠くを眺めた景観だった。駅名が克明に描き込まれていた。立飛、と読めた。

 早乙女一也の絵は、いずれをとっても驚くべき描写力で、現実の一瞬が切り取られているようだった。

「凄いな、早乙女君。恐れ入ったよ」

 早乙女は嬉しそうに微笑み、うつむいた。

 沢木は葵を振り返ると、たずねた。

「しかし(月の王冠)の景色は、わかりますが、立川の風景やご両親は、どうしたんです? 以前の作品なんですか? それとも写真か何かで?」

 葵は沢木の顔を見詰めると意味深な含み笑いを浮かべた。どうやらその問いを待っていた、という顔である。

「やっぱり、そう思うでしょ? ……ここにある絵は、全てここで描かれたものなんですよ」

 そこで葵は早乙女に近付いた。

「一也君は目で見て、それを写し取るわけじゃないんです」

「と、言うと?」

「つまり彼が作品を描くのは常にこの部屋の中に限られています。目測することも、写真を使うこともありません。彼は自分の頭の中にある記憶を元に描いているんです」

 沢木は良く理解出来ないという表情を浮かべた。葵は続けた。

「一也君は記憶の中に映る映像を客観して、キャンバスにトレースすることが出来ます。自閉症スペクトラムの患者の一部に、こうした完全記憶能力と呼ばれる才能が見られます。(サヴァン症候群)という言葉をご存じ?」

「いや」

「イディオ・サヴァン、(白痴の天才)。J・ランドン・ダウンによる命名に由来しているこの症状は、脳損傷患者、あるいは知的障害者の二千人に一人の割合でいると言われています。一度本を読んだだけで、それを最後まで記憶したり、それを逆さに暗唱したり。カレンダー計算や巨大な桁数の暗算能力。譜面がわからないにも関わらず、初めて聴いた曲をピアノで完全演奏できるとか。(サヴァン症候群)には直感像という記憶の形式が深く関わっているとされています。……一也君の場合は映像記憶能力」

「一度見たものを、完全に覚えてられると?」と、沢木。

「少し違うかしら? 本当は誰もが、同じように映像を目にしているんです。彼の場合は、それをもう一度記憶から取り出し、客観的に眺められるという特殊能力なんです」

「そりゃ凄いな」

 葵はうなずいた。

「自閉症スペクトラム患者は、言語に関わる脳の領野に未発達な人が多いんです。主にブローカ野とウェルニッケ野。そもそも彼らは、視覚優位に傾いたベクトルなんです」

 葵はそこで言葉を切り、唇をなめた。

「ものを見る、あるいは記憶するという行為は、言葉の影響を強く受けています。私たちが物を見る時、例えば、そう。……部屋に入って来たら、テーブルの上にリンゴがあったとする。瞬時に私たちはそれが何かを理解出来ますよね。見慣れた部屋の見慣れたテーブルにリンゴがある。当たり前でしょ?」

「そうですね」

「私たちが視覚で捉えた最初の像は、カメラの画像のように全ての画素が同時に表示したはずなんです。でも我々の脳はそれをそのままでは理解していない。一枚の色付きの絵として入ってきた像から、私たちはまずリンゴを見つける。その瞬間、記憶の中にあるリンゴの情報が整合され、赤くて丸い甘酸っぱい果物、という言語情報に翻訳されている」

「……なるほど」

「言葉に置き換えられると、映像からリンゴは切り取られる。それ以上映像として理解する必要性がないから。理解は、現象としての映像から言葉の事象へ、切り離されることなんです。テーブルも、壁も、床も。見慣れているとすればなおさら。たちどころに言葉の事象に変換される。私たちは分節化することで世界を認識するこのプロセスを、(ラング)と呼んでいます」

「となると言語野の未発達な自閉症スペクトラム患者は、その分節化のプロセスがうまく機能していないということですか?」

「そうです」

「それゆえに最初に目に飛び込んだ映像全体を把握している、と?」

「そうなりますね。私たちはそうした記憶を(直感像)と呼んでいます」

 沢木は納得した様子で、顎を擦りながら呟いた。

「しかし、それはそれで十分な才能と言えるな」

 沢木は少し思案した後、おもむろに言葉を返した。

「でも、そうだな。……その理屈だと知識の習得や理解は、まず視覚ありき、になりはしませんか? 生まれつきの視覚障害者は、どうなるんです?」

 葵は小さくうなずいた。

「あなたの意見はごもっともです。実際的にみて、そうした視覚障害者にそのような実例は当て嵌まりません。……まだはっきりとは解明されていないプロセスですが、脳は自らの機能を現状の最適点に、代替や拡張することで安定させようとする特性をもっていると考えられています。事故で脳に損傷を受けた患者が、その後のリハビリで失われた能力を少しずつ取り戻していくプロセス。ご存じでしょ?」

「ええ、まあ」

「この施設で行われている療法も、そこに着目したものと言えます。脳は歯車やボルトで出来た、機械ではありません。とても融通の効く、しなやかな存在です。つまり視覚という感覚が優位であれば、それを中心に据えたシステムに。そうでない場合は、別の感覚野がリードを取る。そういう仕組みなのでは、と考えています」

 沢木は納得した様子で首を振った。

「サヴァン症の天才的な能力も、何かの代替えかもしれないと。そういうことですね?」

 葵は眼を伏せ、首を横に振った。

「天才的というのは、どうですかね。……サヴァン症例の患者は、驚異的に正確な記憶力を持ちながらも、個々の記憶からその重要性を抽出して、一般的な知覚や記憶に築き上げることが上手く出来ないんです。それが最大の障害とも言えますね」

沢木はそこで話を打ち切るように手を打ち鳴らすと、微笑んだ。

「ともかく、あなたの話をまとめると、早乙女一也君の記憶は抜群で、それを表現する腕前もある、と。そういうことですね?」

 葵は早乙女の顔色をちらりと伺った。変化はない。葵は黙ったまま沢木を見詰めていた。

 沢木は一つ咳払いすると、葵に断った。

「彼に質問しても?」

「どうぞ」

 沢木は早乙女一也に近付いた。すらりと華奢な、か細い早乙女。それに頭一つ大きい沢木が並んだ。

「早乙女君。そう呼んでいいかな?」

「はい」

「私の質問に幾つか答えてくれないか」

「はい」

「嫌かもしれないが、私が聞きたいのはあの事故のことだ」

「あまり、……覚えていません」

「事故のことは置いといて、その少し前というのかな」

「前?」

「私と君が最初に会ったところは、わかる?」

「緑色の喫煙室、煙草の自動販売機」

「そうだ。0・3Gステージの展望回廊だ」

「わかります」

「私と出会うまでに誰かに会わなかったかい? 誰か、変わった人とか?」

 そこで早乙女は眼を伏せ、考え込んだ。長い沈黙。差し込む日差しが膝頭を温める間、それは続いた。早乙女が重い口を開いた。

「金髪の、……少年」

「何だって?」

 早乙女は沢木の顔をじっと見詰めた。

「僕と同じくらいの、少年に会いました。金髪の」

「十六、七かい?」

「はい」

「外国人、それともヘアカラーだったかい?」

 早乙女は首を傾げた。

「わかりません。でも姿はよく覚えています。丸顔の童顔、色白で、氷のような灰色の瞳。プラチナブロンドの巻き毛はラファエロの絵のようで」

「美しかった?」

 早乙女はうなずいた。

「幼子イエス、みたいでした。観葉植物の側から現われて、僕に笑い掛けました。それで、ゼロGエリアに向かって歩いて行きました」

「なるほど」

 沢木は顎に手を添え、そして考え込んだ。葵が横から沢木の顔を覗き込んだ。

「どうかしら? 少年ですよ」

「まだ何ともね。でも最初の手掛かりではある」

 沢木は早乙女の不安そうな顔を一瞥すると、作り笑いを浮かべた。そして早乙女に一つ提案を出した。

「君はその少年のこと、細かく覚えているんだろ?」

「はい」

「ここにある絵のように、正確に描けるかい、彼のこと?」

「多分」

早乙女はそこで言葉を切り、沢木を見上げた。

「彼は、誰ですか?」

 沢木は早乙女の肩を軽く叩くと首を振った。

「それはまだわからないよ。君の絵が手掛かりになるんだ。私のために描いてくれるかな、早乙女君?」

 早乙女は上目使いに沢木を見詰め、小さくうなずいた。

「はい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る