第17話


 事故から一週間、君は絵筆を取らなかった。

 代わりに君が行ったこと、それは画用キャンバスの下地作りだ。

 絵を描くことと、下地を作ることは似て非なるものである。しかし、いずれも君の内なる安静には重要な行為だった。


(見えたのは、金髪の巻き毛の少年)


 君は木枠を取り出し、木槌と貼り器、ステンレスタックスを用意する。

 サイズはF15。

 正確を期するならば麻布を膠貼りするのが適切なのだが、何分高価な材料ゆえ、この宇宙ステーションでは調達が難しかった。君は市販の油性地キャンバスを裏返しにあてがい、貼り器を使ってタックス留めを始める。

 生地の裏面の折傷を、ライターで炙って焼き潰した。

 下地材の白色塗料は手製のもので、膠水(膠1対水8)に対して、2容量の白亜、量比35%のスタンドオイルを混入したエマルジョン下地である。

 この方法は以前、美大出身の作業療法士から油彩画の手ほどきを受けた時のそのままを再現している。君はそれ以外の方法を知らないが、それに準拠し、寸分違わずにトレースした。検討の必要などあり得ない。

 それをすることが君にとって最善であり、何より心地良いからだ。

 予定された計画がつつがなく進行するのはいいことだ。


(天使の微笑みを浮かべる、美しい少年)


 君はその行為に安堵し、笑みを浮かべる。



 葵 洋子は早乙女一也の姿を探し、二階の作業療法室2号を訪れた。

 床の上にしゃがみこみ、一心に刷毛を走らせる早乙女の姿が見えた。灰色の生地が貼り込まれた、およそ五十センチ四方のキャンバスだった。調理用のホーロー引きボウル一杯に溶かれた白色の絵の具を、刷毛に滲みこませては丹念に塗り込んでいく。

 不快な臭気が葵の鼻腔を突いた。

 動物の遺体のような腐敗臭が、テレピンオイルの臭いに入り混じって部屋に立ち込めている。葵は顔をしかめた。

 彼女は壁のコントロールパネルに近付くと換気扇のスイッチを入れた。

「ひどい臭いね、一也君。一体何なの?」

 早乙女は口元に薄く笑みを湛えたまま、葵を振り返った。鼻の頭に白い絵の具がこびり付いている。

「これは、にかわの臭いです」

「臭いわよ。動物の死骸みたい」

 早乙女は小さくうなずくと同意を示した。

「ほぼ正解ですね。膠はウサギの革と骨から抽出したゼラチンです」

 葵は鼻の頭に皺を寄せると、顔の前で手を振った。

「うへっ。なんか残酷。……芸術の道は情け容赦なしだ」

 早乙女はしばし言葉を呑み、首を傾げた。

「さあ、僕にはわからない。……でもこれが油絵には一番望ましい、エマルジョン下地なんです」

「そう、でも、とっても臭い」

「そうですね、とっても臭い」

 鸚鵡返しに繰り返すと二人は顔を見合わせ、小さく笑った。

「今度から換気扇を回しなさい。別に害はなさそうだけど」

「はい」

 早乙女は素直にそう答えると、再び下地作りに集中した。作業に専念する早乙女は、恐ろしく無口である。葵は手持ち無沙汰になって、手近にあった腰掛を引き寄せた。

 葵は早乙女の横顔を見詰めた。

 あれから一週間が経つが、早乙女は検査を拒んでいた。(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)である。

 早乙女は治療室のある特別棟の三階奥に、近付くことさえしなかった。大崎泰明医師からは矢の催促が届いていた。

 地上では例の検査装置、通称(アベックシート)に外付けされるサブユニットが完成したらしい。シナプス機構の活動電位ネットワークに変わり、メカニカルなフィードバックによってニューロンを連携するシステムである。後は情動によるミラーニューロン群の活性連携パターンの構築を急ぐばかりなのだ。

 しかしここで早乙女に無理強いすることは、良い結果に繋がらないように思えた。殊に情動に関するリサーチは慎重を期さねばならない。

 事故の直後、早乙女はfMRIを使った全身の断層チェックを受けたが、特に問題はなかった。心理テストも良好。ショックによる多少の混乱はあるにせよ、早乙女一也の心身は極めて良好であると言えた。

 つまり今の彼の態度は、単なる気分の問題であると見て相違ない。いわゆる、気まぐれ、なのだ。

「ねえ……」

 葵はキャンバス作りにいそしむ早乙女に、そっと声を掛けた。

「ここのところ随分空いちゃったけど、……またあたしと(映画)、観てみない?」

 早乙女はハンサムな横顔でちらりと振り向くと、黒髪を揺らして無言のまま首を横に振った。

 やんわりとした否定。葵は落胆のため息を吐いた。

「もうあんな検査、うんざりなのね」

 早乙女はその言葉を否定した。

「そんなこと、ないです」

「じゃあ、どうして? ひょっとして、あたしのことがうんざり?」

「それも違います。……でも、今はちょっと」

 葵は眉間に皺を寄せた。

「どういうことか、話して欲しいな」

 早乙女は鼻の頭に付いた絵の具を掻いた。

「全てが正常化して、元通りになったら、僕もそうします」

「え?」

「今は、違うから」

「何が?」

「色々と」


 確かにあの事故は、大騒動だった。三十番シャフトの圧壊事故。助かったこと自体、奇跡のような話である。

 加えてこの一週間はテレビ局の取材や、その他諸々で院内が慌しかったのも事実だ。変化を嫌う自閉症スペクトラム患者には辛い一週間だったかもしれない。

 葵はふと早乙女を救った、あの治安管理官のことを思い出した。彼は自分が挨拶に行った翌朝には初瀬研から退院したらしい。

 一応、お礼は言ったけれど。何か形のあるものでも贈った方がいいのかしら? 

 しかし葵は早乙女の保護者ではないので、それは少々おかしなことに思えた。病院としての対応は十分だろう。

 名前は何と言ったか? 沢木、そう、確か沢木だったと思う。一等治安管理官。

 テレビや新聞でも随分取り上げられて、どうやら表彰までされたらしい。ちょっとしたヒーローだ。

 私の出る幕じゃないわね。

 良く日に焼けたサーファー風の二枚目だった。茶髪のロングヘアに涙滴型のピアス。正直言って、遊び人の風体だ。生真面目な葵には、無意識に拒絶が芽生えるタイプである。しかし時折、何故だかあの男の声音が蘇ってくるのだ。

(そんなしかめっ面はやめて。美人が台無しになる)

 初対面の若い女に、臆面もなく言ってのける、そのふてぶてしい態度が嫌だった。

 何よ、あんな男。人をからかって。

 口から飛び出すのは、軽口と出任せばかり。いつもそんな風な男なのだろう。しかしお世辞でも、美人と言われて悪い気がしないのは女の性である。自分もそんな馬鹿女の一人と言うわけである。笠原美紀のこと、言えた柄ではなかった。


 その時、扉に小さなノックが聞こえた。

「はい……」

 葵は顔を上げ、立ち上がった。

 扉がそろりと開き、お下げ髪の眼鏡が覗いた。笠原である。

「ああ、……美紀ちゃんか」

 葵の顔が曇った。笠原も引き攣った表情だ。事故の一件からどうも気まずい。くだらないことで言い合いになり、そのまままになっていた。

「ねえ、洋子。ちょっとお邪魔してもいいかな?」

 葵は視線を泳がせると一つ咳払いした。

「別に。構わないわよ」

 笠原は小さなかわいい紙包みを持っていた。手には三人分の缶コーヒーが。

「患者さんの家族から差し入れなの。美味しそうなクッキーだから、おっそ分け」

「あら、そう? ありがと」

 そこで笠原は空気に異常を感じたのか、鼻をひくつかせ怪訝な顔をした。

「何か変な臭い。何これ? ネズミでも死んでる?」

 葵は苦笑いすると、床の上の早乙女一也を指差した。

「一也君よ。膠だって」

 笠原は鼻をつまんだ。

「臭過ぎ」

「さっきまで、もっと酷かったのよ。換気扇を回してこの程度」

 笠原はテーブルに荷物を置くと、足早に窓に近付き全開にした。それから両手を腰に当て、早乙女を振り返った。

「一也君。ほらほら。そんなことばっかやってると、オタクになっちゃうぞ。何オタクだ? 芸術オタク? ……あれ、何か、ありがたい感じだなあ。まあ、何でもいいや。ちょっと手を休めて。お茶にしよう」


 三人は黙ったまま、笠原の差し入れたお菓子とコーヒーを頂いた。シナモンの利いたドライフルーツ入りの手作りクッキーは、優しい家庭の味がした。

 笠原はコーヒー缶をテーブルに置くと、猫撫で声を出した。

「洋子、この間は御免ね。何か私、ぷちっと切れちゃったみたいで」

 葵は目を伏せ、缶をもてあそんだ。

「あたしもしつこかったからね。あたしの方こそ御免なさい。かあっとなっちゃって。前後不覚ってやつかな?」

 笠原は眼を細めると腕組みした。

「洋子は一也君のことになると、いつも前後不覚だから」

 葵は照れ笑いを浮かべた。

「そんなこと、ないわよ」

「あるある」と、笠原。

「ともかく。悪かったわ、あたしの態度。親しき仲にも礼儀ありだわね」

「私も。謝る」

 葵は内心ほっとしながら、両手を上げると言った。

「さあ、もうこの話は終わり。後腐れはなしよ」

 そこで笠原は下から見上げるような視線で呟いた。

「しかし、洋子もことわざが出るようになっちゃ、そこそこお姉さんだわね」

 葵は人差し指で笠原の額を小突いた。

「ほらほらまた。礼儀はどうした?」

 笠原はぺろりと舌を出した。笠原は頬杖を突いてクッキーを齧りながら、別の話題を切り出した。

「それはそうと、この間のお二人さん」

「えっ、誰のこと?」

「治安管理官よ、一也君の命の恩人」

 葵は胸中を読まれたようで、どぎまぎした。

「……ああ、はいはい」

「ちゃんとお礼しなきゃね」

「そうなのよ。あたしもどうしたもんかなと考えてたところでさ」

 笠原は、にこにこしながら人差し指を立てた。

「合コン」

「は?」

「しようよ。二人とも、なかなかのナイスガイだったと思わない?」

 笠原の様子に葵がため息を吐く。

「何で、そうなるかな?」

「タイプじゃなかった、洋子?」

「わかんないよ。大体、連絡先なんて、わかんないじゃない」

 笠原は悪戯っぽく微笑んだ。

「大丈夫。そこは私が押さえといたから」

「何を押さえてるんだか……」

 呆れ顔で葵が首を振った。

 二人のやりとりとを代わる代わる眺めていた早乙女が、珍しく声を立てて笑った。その甲高い声に女二人は、驚いて振り返った。早乙女は微笑んだまま、口を押さえていた。

「受けちゃいましたかね、一也君?」と、笠原。

 早乙女は笠原にうなずき、そして葵に視線を向けた。

「正常化したようですね。洋子さん、今日から検査を始めましょう」

 葵は戸惑った表情のまま、うなずいた。

「え? ああ、そう? それは、……良かった」

「何の話?」

 笠原が肘で突いて詮索する。

「うん、まあ、検査のことでさ……」


 早乙女の心配事は、それで解消されたらしい。

 全てが正常化した。

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