第15話


 君は病院で目を覚ました。

 初瀬研のCCUに運び込まれるのは初めてだった。

 身体にどこも痛いところはなかったが、医者たちは代わる代わるやって来て、君にfMRIを使った全身の断層チェックを行った。自分の身体が輪切りにされ、常磁性ガドリニウムによって造影された蠢く臓腑を眺めるのは、奇妙な体験だった。

 実際のところ、三十番シャフト0・3Gステージからの脱出のあらましを、君はほとんど記憶していなかった。

 エピソード想起における病理不全、限定的記憶喪失である。

 繋がらない記憶の断片が、湧き上がっては消えて行く。

 印象にあるのは、切り裂くような風の音と、煙草臭い大きな背中。

 金刺繍のアポロキャップ。

 その箇所に意識を向けると、理由も無く胸が苦しくなった。

 大きな音や黄色い発光が、雷鳴のように脳裏を貫くのだ。君は目を閉じ、その不快な動悸を閉め出そうとした。

 何か、他のことを考えよう。

 その恐ろしい出来事の、少し前を。

 ぴったりとした白のタートルセーター。

 プラチナブロンドの巻き毛。

 氷のようなアイスグレイの瞳。

 ラファエロの描いた、幼子イエス。


 沢木亨二は、あてがわれた病室のベッドで半身を起こしたまま、雑誌をめくっていた。自分が婦人雑誌に惹かれることなどないのを承知でやっている。暇つぶしにと思って始めたのだが、早くも断念しそうだ。

 沢木は頭の後ろに両腕を組むと、天井を眺めた。

 昨晩の0・3Gステージからの救出の後、沢木は早乙女一也とともに羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所に送り込まれた。大事をとっての検査入院という奴だ。

 確かに体中、無数の引っかき傷と打撲があったが、命に関わるものはない。そんなことは自分が一番承知していたが、医者という輩はただそれだけでは納得しないらしい。半ば強制的に収監されたのだ。全く、困った連中である。

 沢木はお世辞にも仕事熱心とは言えない性分だが、じっとしているのは何にもまして苦痛だった。早くここを出なくては。

 一番の問題は、煙草が吸えないという、この環境にあった。

「おっと、案外大人しくしてるじゃねえか」

 聞き覚えのある声に沢木は顔を上げた。病室の入口に、無精髭のサングラス男を見付けた。いつもの紺の制服姿。同僚の久保隆志である。

「おう、相棒」

 沢木は、ほっとした表情で言葉を返した。久保はまだ警邏途中のようだった。アポロキャップを脱ぎ、坊主頭の汗を拭う。近くにあった丸椅子を引き寄せると、足を組んで座った。

「寝巻き姿が似合ってるねえ」

「そうか?」

 久保は沢木の手にした雑誌を横からめくると、突っ込みを入れた。

「何だ、お前が、婦人雑誌なんて柄か?」

 沢木は曖昧にうなずき、答えた。

「他にすることなくてさ」

「笑える記事は?」

 沢木は首を捻ると表紙を指差し、見出しを読み上げた。

「宇宙で男を負け組にしない方法、だと」

「野心家女房の戯言か?」

 沢木は肩をすくめた。

「さあね」

「読んだんじゃねーの?」

「いやいやいや。興味なくて」

 久保は沢木のおとぼけに眉を吊り上げると、まんじりと様子を伺った。それから含み笑いを浮かべる。

「全身傷だらけだな、全く。痛々しいぜ」

 沢木は鼻を鳴らした。

「治療がオーバーなんだよ」

 沢木は包帯の隙間から腕を掻いた。久保が告げた。

「外じゃお前さん、随分お株が上がってるみたいだぜ。まるで英雄扱いだ。身を呈して少年を助けたナイスガイの治安管理官。……そういや、顔だけは無傷だな。テレビ向きのハンサムマスクは死守したってわけだ」

 沢木は苦笑いした。

「ポリエーテルケトンの袋を被ってたんでね。もちろん牽引スパイクの狙いを付けるためさ。……これが不幸中の幸いって奴」

 久保は小さくうなずき、話を続けた。

「霧島局長、何か表彰状みたいなの出すって話だったぜ」

「俺にか?」

「そうそう」

 沢木は口元を歪め、呟いた。

「今から頼んで、金一封にしてもらうかな?」

 久保が首を横に振った。

「それは当てにしねえ方がいい。……でもまあ、テレビ局からは出るだろ? 何たってスーパーヒーロー様だからな。今も病院の周り、報道の車が目白押しなんだぜ。俺なんか裏から入れてもらったくらいさ。退院したら即、取材攻めだな」

「やれやれ。一時のブームですかね?」

 顔をしかめる沢木を久保は笑った。

「だったら尚更だろ。出ない手はねえ」

 沢木は、にんまりとほくそ笑んだ。

「それもそうだな。カモン、臨時収入」

 二人は乾いた笑い声を上げた。

 久保は何気なく、沢木の寝台周りを見回した。

 インテリアはライムグリーンとゴールドメタル、それにウッドが調和した品のいいコーディネイトだった。張り出し窓には、しゃれたレースのカーテンが下がっていて採光もいい。明るく健康的な一人部屋は、病室というには少々設備が豪華過ぎだ。

「すげーなあ、この病院。何かリゾートホテルみたいじゃねえか」

 と、久保が正直なところを述べた。沢木も同意した。

「だろ? 中庭とか見たか?」

「中庭まであんのかよ?」

 沢木は大げさに両手を広げて見せ、

「ふかふかの芝生に、ステンドクラス付きの東屋だ。小さな噴水池まである。車椅子で運ばれる途中だったけど、ピアノ・バーも見掛けたな」

「なんとまあ。お前さんも、ちょっとしたセレブ気分だな」

 沢木は否定するように顔の前で手を振った。

「よしてくれ。性に合わんよ」

「そうだな。俺たちゃ、能無し甲斐性なしブラザースだからな」

「その調子」

 二人のくだらないやり取りが廊下に木霊した矢先、背後で声がした。

  女の声だった。

 振り返ってみると薄水色の看護着を着た若い女が二人、入口に立っている。

「あの、すいません。沢木亨二さん……ですね?」

 背の高い方が、緊張した声音でたずねた。

「はい、私ですが……」

 沢木はそう答えながら、すぐにわかった。 あの少年が言っていた美人BM療法士ってのは、恐らく、彼女たちのことだろう。すらりとした長身モデル風と、セクシー可愛子ちゃんタイプのセットである。随分待たされた感はあったが、とりあえず納得である。

 紛れもなく、真正の器量良しだ。

 沢木は不躾な視線でじっくり眺め、残念そうにため息を吐いた。ナースなら下はスカートを期待したのだが、無粋なパンツ姿に気持ちがしぼむ。形のいい素敵なふくらはぎは、お預けだ。

 そこで沢木はふと考えた。

 笠原という女はどっちだろう? 少年を迎えにくるはずだった女は? 身の丈の大小はあれど、魅力という点では甲乙付け難い。

 二人の女は入口で躊躇していたが、背の高い方が先に口を開いた。

「あの、昨日は、早乙女一也君を助けていただいて、ありがとうございました」

 そう言うと深々と頭を下げた。釣られたように小柄なお下げ髪も頭を下げる。

 慣れないリアクションに一瞬言葉に詰まったが、沢木は努めて明るい声色で、快活に答えた。

「まあまあまあ、そんな、頭を下げられるようなことでは。……僕ら、仕事ですから」

 沢木はそこで、横にいた久保に話を振った。

「この男は私の同僚で、久保といいます。昨日の現場で回収の指揮を取ってくれたのは、こいつなんです」

 久保はサングラスを降ろすと、にっこり微笑んだ。沢木と久保は、二人の美人療法士と代わる代わる握手をした。

「それで……」

 一同が落ち着いたところで沢木が質問した。

「どっちが笠原さん、なんですか?」

 沢木が交互に二人を見比べるていると、小柄なお下げ眼鏡の方が気まずそうに小さく右手を挙げた。

「私です。私が彼を見失っちゃいまして。……ほんとうにごめんなさい」

 沢木は笑顔を崩さずうなずいた。

「なるほど、あなたでしたか。彼のGPSリングの受信先で確認出来たんで、あなたが追い付くまで待ってようと相談したんです。そこでぼんやり待ってたら、あんな事に。……昨日は全くツイてない」

 沢木は肩をすくめた。

 すると今度は背の高い女が、関を切ったように話し出した。

「元々、早乙女君の担当は私なんです。昨日は他所で応援要請があったものだから、私がいなくなってしまって。それで笠原さんに夕方のシフトを頼んだんです。もし、あなたがいなかったらと思うと……」

「いやいや、そんな……」

 沢木は否定するように手を振り、軽い調子で流そうとしたが、背の高い女は額を押さえ、震えるようなため息を吐いた。

「考えただけで恐ろしいわ。気密漏れの事故だなんて」

 沢木は言葉を呑み込むと無言でうなずいた。そうそうあってはならない事故である。

 沢木は咳払いすると、久保の方を向いた。

「なあ、原因は何だったんだっけ?」

 久保はサングラスをいじりながら答えた。

「まだ現場検証が終わってないから、断言は出来ないけど、交換パージのプログラム誤作動じゃないかって。……設備課の連中の話ではね」

 背の高い女がたずねた。

「交換パージって、何ですか?」

 久保は小さくうなずくと、身振り手振りを交えながら概要を説明した。

「つまり、……つまりですね。宇宙ステーションってのは複雑なシステムが寄せ集められて出来上がってる。船外活動でメンテナンスするのが難しいんですよ。だから部分的にユニットを切り離して入れ替えをする。そうした方法をとっているんです。本来は取り替えユニットが確定すると、それ以外の気密を確保してパージが行われるんですが、今回、保守コンピュータの3D-CADナビゲーターに誤作動があったらしい。……あってはならんことですがね。設備課の方でバグの特定を急いでいます」

 沢木は久保が話し終えるのを見計らうと、揉み手を開いた。

「だ、そうです」

「みんな無事で何より」

 と、久保が締めくくる。男二人はにんまり作り笑いを浮かべた。女たちは恐縮した様子で何度も何度も頭を下げ、ひとしきり礼を口にした。

 久保が思い付きで話を切り出した。

「お二人はBM療法士なんですか?」

「ええ」

「あの少年、早乙女 一也君でしたっけ? ここの検索資料に目を通したんですけど、彼はどこも問題ないですよね。自閉症スペクトラム患者である以外は」

「そうです」

  背の高い女が同意した。久保は続けた。

「ここは重度外傷に対するシステム義体による治療を目的とした病院だ。……と言う事は、噂に聞いたあれは、本当なんですかね? 新手の神経療法の研究を始めたというのは?」

 背の高い女は静かにうなずくと、言葉を選ぶように呟いた。

「(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)です。彼はその一号被験者なんです」

「なるほど。彼は重要な資料でもあるわけですな」

 久保の言葉には微かな皮肉が込められていた。女は、さっと表情を強張らせた。

「彼はモルモットではありません。人道的な治療が私たちの目的です」

「おっと、これは失礼。言葉が悪かったな。深い意味はないんですよ。謝ります」

 と、久保。

「いいえ。別に」

 沢木は様子を伺い、話題を逸らそうと口を挟んだ。

「BM療法士って、結構ハードな現場でしょう? 特に宇宙だと出番が多い仕事ですよね。この間も月の鉱山で事故があって、私、L4高度専門医療センターにカプセル搬送したんですよ。……酷い有様で」

 沢木は頭を振った。

「正直いたたまれなかったですね」

 背の高い女は視線を上げた。

「あなたが搬送を? 私はあの時、応援に入ってたんですよ」

「そうですか。案外、世間は狭いな」と、沢木。

「高々、六百二十キロの宇宙ステーションですからね」久保が相槌を打った。

「ハードな現場に、白衣の天使か……」

 沢木は左の眉を持ち上げると、にやりと笑った。

「それにしてもお二人とも美人だな。患者には天国だね」

 久保がたしなめた。

「沢木の奴、この病院に入ってから、鼻の下が伸びっぱなしなんです。そのうち成形外科の世話になりそうだ」

 そこで小柄なお下げ髪の女、笠原がにこにこしながら話題に入って来た。

「そういうお二人もナイスガイ、じゃないですか。治安管理局も男前揃いなんですね」

 久保はにやにやしながら沢木を小突いた。

「まあ、こいつはそうですよ。実際あの状況下でも、このハンサムマスクを死守したんですからね」

「あー、ほんとだ。顔には絆創膏一つないですね」と、笠原。

 すかさず沢木が切り返した。

「おいおい、聞こえが悪いでしょうが?」

 笠原はたちまちフェロモンモードに入り、軽口を叩いて愛想を振り撒いた。

「沢木さんはサーファー系だし、久保さんはそう、……渋いダンディ系かしらね?」

 そういって楽しそうに三人が談笑した。

 しかし、笑わなかったのは、背の高い女である。顔を引き攣らせ、たまりかねたように言葉を絞り出した。

「美紀ちゃんさ……」

 般若のように吊り上がった眼が、上から笠原を見下ろしている。

「少しは反省してる? あなたのせいでこんな大変なことになってるんでしょう! 見境なく男に尻尾振るの、辞めたら?」

 あからさまに棘のある言葉。一瞬で場の空気が凍った。

 沢木と久保が息を詰める。言葉が空中で霧散するのがわかった。

 怒鳴られた笠原はしゅんと小さくなると思いきや、意外にも逆切れした。一呼吸置いて、小さな身体から一気に怒声を吐き出した。

「何だよ、がたがたうるさいなあ! ちゃんと謝ったでしょうが。まだ何か気に入らないわけ? はあ? あんた何様? あたしの小姑? 先輩風吹かせんの、辞めてよね! 柄じゃないだろ?」

 笠原はピンクのスポークフレームの眼鏡越しに下から睨み上げると、怒りも顕わに部屋から出て行った。

 気まずい沈黙。

 男二人は、顔を見合わせた。沢木は後ろ手に頭を支え、口笛を鳴らした。背の高い女はショックも露わな表情で、唇を震わせながら二人に詫びた。

「ごめんなさい……お見苦しいところを」

 沢木はおざなりに、なだめる言葉を吐いた。

「まあ、そう……熱くならないで」

 久保は一つ咳払いすると腕組みした。

「ものは考えようですよ。あの場合、笠原さんが早乙女君とはぐれたせいで沢木に出会ったとも言える。もし二人が一緒のところに沢木が出くわしたとしても、気にも留めずに通り過ぎたでしょうな。逆に、たまたま三人が揃ったところであの事故が起こったとして、沢木が助けられたのはどちらか一方です。これはまあその……」

 久保はちらりと沢木の方を見やり、

「極めて稀な、全員が助かるというラッキーな札だったんですよ」

 背の高い女は久保の暗いサングラスを見詰め、うなずいた。

「そうですよね。……言われてみれば」

 沢木は機転を利かようと、明るい声で茶化した。

「そんなしかめっ面はやめて。美人が台無しになる」

 沢木は内緒話でもするように頬に手を添えると、女に耳打ちした。

「ここだけの話、美人だと言ったのはあなたの方でね。さっきの人、笠原さんでしたっけ? 彼女には……内緒にしといてください」

 女は眉間に皺を寄せたまま沢木を見返し、それから、ちょっとだけ嬉しそうな顔をした。への字の口元がちょっとだけ持ち上がる。

 沢木はその表情を見逃さなかった。

「やっぱり思った通り。あなた、笑った方がずっといい。笑って笑って。……そうだ、お名前、まだでしたね?」

 女は可愛い咳払いを一つすると、改まった声音で答えた。

「葵です。葵 洋子と言います」

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