第14話


 沢木は黄色い非常灯の明滅に目を開いた。

 両腕は早乙女一也の身体を掴んでいた。ベルトは辛うじて固定フックと繋がっている。自分はどうやらまだ生きているらしい。

 相変わらず部屋の空気は抜け続けており、耳がキーンと鳴っている。

 沢木はそっと辺りを見回し、その惨状に愕然とした。剥がれ飛んだ内装パネルの隙間から配線やカーボンファイバー、ダクトが無数ぶら下がっていた。展望窓の一部が外側に捻じ曲がり厚壊している。歪んだ強化ポリエーテルケトンは蜘蛛の巣が張ったように真っ白くなっていた。0・3Gステージの壁ユニット一枚丸ごとが、吹き飛ばされているのである。

 普通なら確実に死んでるところだ。

 だがその破裂した壁面の大穴に、喫煙ブースのアクリルシートが崩れ、折り重なるように貼り付いているのである。それが辛うじて減圧に歯止めを掛けているのだ。

 万に一つの奇跡だった。

 沢木は目を硬く閉じ、震えるため息を漏らした。

 煙草の神様、もしいるなら感謝します。もう、禁煙だなんて絶対言いません。

 沢木は皮肉な笑みを浮かべた。

 しかし、落ち着いてもいられない。それはもう間違いなく、この部屋そのものが、いつ崩れてもおかしくない状態なのだから。

 沢木は胸ポケットに入った携帯端末を取り出すと緊急シグナルを発信した。そのコードは治安管理局の全区域に、最優先で到着するものだ。続いて沢木は、相棒を呼び出した。


 十分後、0・3Gステージの現場には緊急救助体制が敷かれていた。

 気密隔壁の外側では設備課がフル装備で到着し、内圧のコントロールと隔壁解除の準備に入っていた。

 片隅で、髭面のサングラス男が携帯端末をいじっていた。紺色の制服、金刺繍のエンブレム付きのアポロキャップ。一等治安管理官、久保隆志だった。

「よう、相棒。とんだ災難だな」

 久保は無精髭を掻きながら端末に話し掛けた。

 沢木は固定フックに掴まった格好で、疲れた声を返した。

「全くだ。折角の早引けがこの有様さ」

 久保は乾いた笑い声を上げた。

「バチが当ったんだ。俺に残りの書類、押し付けたろ? アレだな」

「そりぁ、悪うござんした」

 沢木は肩をすくめた。

 久保は口調を改めると、状況を確認した。

「とりあえず、設備課の連中が内圧を下げないよう、空気を送り込んでる。減圧し続けてるからな」

「ああ、山登りしてるみたいさ。耳が痛い」

「そっちの様子はどうだ?」

「監視モニタで見えてんだろ?」

「ウン? まあな。でも、お前の実況の方がリアルだろ?」

 沢木は鼻を鳴らした。

「何だ、そりゃ。………うーんとだな。……部屋はガタガタ。壁に開いた、どでかい穴に偶然、喫煙ブースの崩れたアクリルシートが貼り付いてる。まぐれもまぐれ。でも今にも崩れそうだ」

 天井に着いた半球状の銀色の全方位型CCTVが小さなモータードライブ音を響かせながら、沢木の様子を捉えている。

 久保は扉の向こう側で、広角レンズに歪んだ二人の姿を確かめた。

「そちらのお客さんは、大丈夫かい?」と、久保。

「羽瀬研の患者さん。迷子だよ」

「羽瀬研?」

 久保はそう口にすると怪訝な顔をした。

「羽瀬研って言えばBM療法のところだろ? 見たところ五体満足だが?」

「久保さんよ、今あの病院じゃ、新しい神経療法を開設してんだよ」

「そうなのか?」

「そうなんだ」

 沢木は苛々したらしく、皮肉な冗談が飛び出した。

「さて、十分先は五体満足かどうか。わからんぜ」

「滅多なことは言うもんじゃねえ」

 沢木は声を荒げた。

「じゃ、さっさとサルベージしてくれよ!」

「わかってる、わかってるって。……」

 久保はなだめるように言った。

「じゃあ、こっちも状況を説明させてもらうぞ」

「OK」

 久保は一つ咳払いした。

「扉で隔たれた二つの部屋は今、大体気圧差がないように保ってる」

「ああ」

「隔壁に少し問題があるんだ。ドアエンジンのリニアモーターが不調だ。部屋の厚壊でフレームが歪んじまってるんだな。それで開閉器を外付けして強引にこじ開けるんだが、その衝撃で外壁が崩壊するかもしれん」

 沢木は深いため息を吐いた。

「最悪」

 久保も静かに同意した。

「まず、そこにある装備から確認しよう」

「……了解」

 久保はトラックパッドを使って全方位型CCTVをぐるぐる回転させた。左手には設備課から受け取った青焼きがある。

「いいか、お前さんのいる位置から前方右斜め前の壁面に、オレンジ色の枠線の入ったパネルが見えるか?」

 沢木は黄色いの明滅の中、目を凝らした。林のように束になり、ぶら下がったコードの先に辛うじてラインが見えた。

「ああ、見えた」

「その中に緊急用D6装備があるはずだ」

「よっしゃ、ンじゃ近付くか」

 沢木は両腕に抱えた、早乙女一也を揺さぶった。

「おい、起きてくれ。そろそろお目覚めの時間だ」

 気を失っていた早乙女が身じろぎした。沢木の煙草臭い両腕に抱きかかえられていることに気付き、突如振りほどこうと暴れだした。

 自閉症スペクトラム患者は、身体の接触を嫌う。

 しかし沢木は腕力にものを言わせ、強引に早乙女をねじ伏せた。そして耳元で静かに囁いた。

「おっと、兄ちゃん。悪りいけど大人しくしてくんな。……周り、見えるか?」

 沢木の言葉に早乙女が恐る恐る周囲を伺った。そして沢木の顔を見詰める。沢木は静かにうなずいた。

「お前は馬鹿じゃない。そうだろ?」

 早乙女は無言でうなずいた。

「俺たちは事故に遭った。だがこうして奇跡的に助かってる」

「はい……」

「しかし、まだ後一歩のところだ。完全に助かるには、お前の協力が必要だ。わかるか?」

「わかり、ました」

 早乙女は少し震えていたが、しっかりした表情だった。沢木はそれが嬉しかった。沢木は微笑むと早乙女に耳打ちした。

「あそこにオレンジ色の四角形が見えるだろ?」

 沢木は指差した。早乙女は目を凝らし、確認した。

「はい」

「あそこの中に、俺たち二人が助かるための道具があるんだ。それを今から取りに行くぞ」

 早乙女はじっと沢木の顔を見詰め、言った。

「ほんとに、助かりますか?」

 沢木は強く、首を顎に引き付けた。

「絶対だ。絶対俺が助けてやる」

「わかりました」

「よし……」

 沢木はベルトを固定フックから外し、早乙女の身体を離すと手を繋いだ。

「この部屋は今、非常に不安定だ。だから、そろっと行こう。いいか?」

 早乙女は無言で同意する。

 二人は両足を広げ、磁力シューズをオンにすると、浮き上がる身体を何とか抑えて、コードの林の下を匍匐前進で進んだ。目標は約五メートル先の緊急用D6装備である。掴まる障害の毛羽立ちが手足に食い込んで痛んだ。ショートの火花があちらこちらではぜている。溶けたコードの嫌な臭いが立ち込めていた。

 ぶら下がる障害を掻き分け掻き分け、ようやく二人は辿り着いた。

「よっし、着いたぜ」

 手足は既に真っ黒に汚れていた。

 沢木は額の汗を拭い、パネルを確認した。一メートルほどのオレンジのラインに (非常用)の文字。透明プラスティックのシールドの先に赤いスイッチが見える。沢木は緊急ボタンを押し割った。プシュッと気密解除の音がして扉が開く。

 中身を見た瞬間、沢木が落胆の声を上げた。

「おいおい、これでどうしろってんだ?」

 久保が焦った声で問うた。

「何だ? 簡易気密服と牽引装備があるはずだぞ」

「スーツなんてどこにもない。入れるスペースはあるけどな」

 久保が唸った。

「設備課の連中……」

 沢木はため息を吐いた。

「職務怠慢。近所に誰かいるか?」

「ああ? ……ああ」

「俺の代わりに、ぶん殴っといてくれ」

 重い沈黙が流れた。沢木の吸い込む浅い息の音が聞こえる。

「さて」と、沢木。

「よし」と、久保。

「装備を確認しよう」

 沢木は未整備の緊急用D6装備を確認した。

 緊急医療セット、それに大型のフレックスカフ(樹脂製の梱包資材のような固定具だ)、ロープ、布製ガムテープ、強化ポリエーテルケトンの透明な袋二十枚入りが一箱。そして牽引スパイク一丁。

 それだけだった。

 沢木は久保に説明した。

「さて、どうしたもんかな?」

 久保は腕組みした。

「気密服なしの宇宙遊泳、ってわけにはいかないが、この部屋が圧力崩壊するとして……」

「決め付けんなよ」と、沢木。

「まあ、最悪の想定でだ。何秒間か時間差があるだろ? その隙に開いた扉に向かって牽引スパイクを打ち込むってのは、どうよ?」

 久保の提案に沢木は呆れた声を上げた。

「そりゃ、一か八かって話じゃないの?」

「お前にゃ、サーフィンで鍛えた運動神経ってのがあるだろうが」

「俺は丘サーファーだ」

「じゃいい機会だ。見掛け倒しじゃねえところをバチッと頼むぜ」

「おいおい……」

 沢木は不服そうに黙っていたが、すぐに気を取り直した。僅かでも望みがあれば、やる。これはサバイバルの鉄則である。

 沢木は口笛を吹きながら、クロームシルバーのピストル型牽引スパイクを手にした。先端部にはガトリング砲のように束になった四つの銃身が覗いている。合成樹脂製の黒いグリップがぴたりと手に収まった。まるで子供の玩具のようである。

 沢木は別添えされたカートリッジケースから、スパイク実包を取り出した。十二ゲージのプラスティック製ケースと金属リムで構成された見掛けはショットシェルそのものだが、一体成型のカップワッズの中にチタン合金製のスパイクヘッドと百メートル強のカーボンファイバーが巻き込まれている。無煙火薬の爆発力によって発射し、ターゲットに着弾した後、スパイクヘッドが開き固定される。その後、モーターリールによってカーボンファイバーを巻き上げることで二点間の距離を牽引するのである。

 空気抵抗や力学的減衰要因のない宇宙空間で命を繋ぐ、重要な道具だった。沢木はマガジンを引き出し、六発装填した。

「久保さんよ、あんたがいる扉は? どっちだ?」

「0・3GA-102」

「よし」

 沢木は装備を抱えると、ゆっくりと通路左右の左手の扉へと移動した。扉から少し離れた場所に、崩落した天井の一部が斜めに飛び出している。

「障害物あり、だな。真正面は狙えない」と、沢木。 久保が答えを返してきた。

「標的に使えるハニカム構造のボードを準備したぞ。これならスパイクがしっかり噛み付くし、五メートル四方ある。子供でも外さねえよ」

 沢木は床の固定フックのある位置まで下がった。

 早乙女をゆっくりと立たせると、沢木は自分の背中に負ぶさるよう指示した。

「ごめんな、ちょっとの間の辛抱だ。我慢してくれ」

 沢木は大型フレックスカフを自分の腹から早乙女の腰の位置に回し、きつく縛り上げた。それからロープをカフに通し、固定フックを潜らせて、もやい結びにする。

 早乙女の身体の震えが沢木に伝わって来た。顔が真っ青だった。

「心配するな。何とかなるって」

「……はい」

 沢木はまるで自分に言い聞かせるように言った。

 沢木は牽引スパイクのグリップに、ギブスのような肘当てを取り付けた。これでスパイクを取り落とすリスクはなくなる。

 沢木は空いた方の手で紙箱から、強化ポリエーテルケトンの透明な袋を二枚引き抜いた。そして一枚を早乙女に手渡した。

「仕上げに、こいつを被って」

 不審そうな早乙女の表情に、沢木はアポロキャップを脱ぎ、自分が手本となって被って見せた。 「真空中で人体が爆発したり、フリーズドライになるってのは迷信だ。十秒くらいどうってことない。でも風が強いと目が開けられないからな。こいつは用心のためさ」

 そういって早乙女の頭にも袋を被せた。ポリエーテルケトンの透明度は硝子並みであった。これならば視界が遮られることもあるまい。首周りを絞って、外れないようにガムテープで止めた。二人で顔を見合わせると鼻が潰れ、間抜けな強盗みたいに見えた。沢木はなんだか馬鹿らしくなって来て、笑った。

「こっちは準備OKだ。この阿呆面のまま窒息しないうちに、とっととやろう」

「了解した」

 沢木は立ち位置から気密隔壁を狙った。約七メートルの位置である。少し斜交いだったが、崩落天井の向こうに十分扉が見通せた。

 久保が最終の段取りを説明した。

「隔壁を開いた瞬間に、タイミング良く牽引スパイクを打ち込んでくれ」

「タイミング良く……ねえ。気安く言ってくれる。こっちは子供連れで、おまけに少々酔っぱらってると来たもんだ」

 久保は鼻で笑った。

「お前なら大丈夫さ」

「任せとけ」

 沢木は扉に向かって牽引スパイクを構えた。

「いつでもいいぜ」と、沢木。

「カウントは? どうする?」

 久保がたずねた。沢木は首を捻り、

「3、2、1、ドン、かな」

「ドンで、開くだな?」

 沢木は同意した。

「そいつで行こう」

 久保が遠くで設備課に合図するのが聞こえた。

 沢木は大きく息を吸い込んだ。

「3」

「2」

「1」

「ドン」

 ドアエンジンの壊れた隔壁が、開閉器で強引にこじ開けられた。部屋全体が鯨の遠吠えのような軋みを立てる。梁が折れるくぐもった衝撃。沢木はトリガーに指を掛け、その瞬間を待った。

 突如、何かがはじける音がして、隔壁が左右に開いた。沢木は反射的にトリガーを引き絞った。火薬の爆発音と共にカーボンファイバーが尾を引き、スパイクがハニカム構造の標的に見事突き刺さる。

 意外にも、辺りは静かだった。

「あれ?」

 沢木が拍子抜けした途端、図ったように部屋全体が崩壊した。

 床を踏み抜くような勢いだ。

 背後で喫煙ブースのアクリルシートが宇宙空間へ吸い出された。床と天井が急激に潰され接近する。垂れ下がっていた天井は、ねじ切れ、危険なスピードで沢木の鼻先を通り過ぎた。

 沢木は素早く、もやい結びを解いた。固定フックから浮き上がる沢木と早乙女。外側へ流れ出そうとする強烈な空気圧の中、二人の身体が木の葉のように舞い踊った。轟音が轟き、外部シールドが弾ける。暗黒の宇宙空間へ金色の破片が散り散りに舞い飛んだ。大きく開いた足元には星明かりが覗いている。

 沢木は牽引スパイクのリバースボタンを押し、懸命にモーターリールを回転させた。じりじりとカーボンファイバーが巻き取られ、少しずつ二人の身体が引き上げられていく。隔壁の向こうの赤い非常灯が見えてきた。宇宙帽を被った職員がテザーに繋がれ、受け取りネットを構えている。

 後二メートル。

 その時、沢木は信じられない光景を目の当たりにした。スパイクヘッドが標的ボードから外れたのである。

 一連の瞬間が、コマ送りのように流れた。

 ゆっくりと落下していく、二人の身体。胃がひっくり返りそうな嫌な悪寒。

(嘘だろ?)

 次の瞬間、早乙女の悲鳴が沢木を現実へ引き戻した。

「冗談じゃ、ねえ!」

 沢木は一動作でワイヤーカートリッジを排莢し、スパイク実包を再装填した。

 第二弾発射。甲高い金属音がして気密隔壁の固いフレームに弾かれる。

 外した。

 素早く再装填する。

 第三弾発射。

 命中!

 沢木は咄嗟に身体を捻ると、連発式に並んだ銃身を回転させ第四弾を発射した。三弾は標的ボードに、四弾は覗き込んだ作業員のヘルメットを掠めて、背後の対衝撃パッドに深々と突き刺さる。

 V字型に張られたカーボンケーブルの先に、二人の姿が揺れていた。それはまるで、蜘蛛の糸に捕われた哀れな獲物のようであった。

「沢木!」

 久保が大声で叫んだ。一同が固唾を飲んだその時、沢木の力ない声音が、微かに久保のヘルメットに届いていた。

「おーい、誰か、……何とかしてくれ……」

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