第11話
【映像テストA群286c】
カウント。3、2、1、スタート。
葵は陽射しの中、十九世紀風の白いコテージを前にした。
(木漏れ日の揺れる中庭にズーム・イン)
人の声が聞こえる。
バトミントンに興じる、これまたコテージと同じくらい古臭い服装の四、五人の男女だった。外国映画のようだが日本語で吹き替えられていた。
「エミリオとはどこで?」
「サンピエトロ寺院。大聖堂を見学中に出会ったわ」
「バチカンでナンパかい?」
ナンパ? 格好には随分不釣合いなセリフ。どんな時代設定なのだろう。
「システィナ礼拝堂を観たくて」
「マリア像の前で出会ったんだ。私は天使かと思ったがね」
「彼はイタリア芸術の権威よ」
「アンジェラをシスティナ礼拝堂に案内して、ミケランジェロの天井画を説明した」
「天地創造」
「ラファエロが一目見て、気絶した天井よ」
「腹でも減ってたのかい?」
フェイドアウト。
葵 洋子と早乙女一也はアクティビティ・ホールで休憩していた。
葵はレモンティ、早乙女はコーラを飲んだ。
フランス窓から見える芝生の上を、いつぞやの灰色猫が通り過ぎた。日差しに目を細め、だるそうに伸びをする。噴水池を横切ると、そのまま茂みの木陰に消えた。
「いつかの猫だわね」
葵は、誰とはなしに呟いた。
早乙女は無言のままコーラの瓶を傾けた。
「ねえ、あれから餌ってあげたの?」
「え? 何ですか?」
早乙女は、ぼんやり聞き返した。
「猫の話。以前、猫に餌あげたよね。猫カリカリ」
早乙女はようやく理解してうなずいた。
「はい。あの日、洋子さんとあげて、それから二度ほど」
「それからは来てないのね」
「はい」
葵はレモンティを啜った。
「どこかで貰ってんだろうな。痩せてないし、随分でかくなってる」
早乙女は上の空のまま、コーラの瓶を弄んでいた。しばらくして、早乙女が唐突に話題を切り出した。
「サンピエトロ寺院」
今度は葵が首を傾げる番だった。
「え? 何? さっきの映画?」
「はい」
「どうかしたの?」
早乙女は真剣な表情で葵を見詰めると、言った。
「サンピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築です。創建は四世紀。現在の聖堂は二代目にあたり、一六二六年に完成しました。ピエタの礼拝堂にミケランジェロがあります」
葵は関心なさそうにうなずいた。
「へえ。そうなんだ」
「一四九九年制作。ピエタとは慈悲を意味し、聖母子像の一種。磔刑に処されたイエス・キリストの亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフにしています」
丸暗記した書物の情報が早乙女の口を突いて出る。言葉は止めどなく続いた。
「システィナ礼拝堂はサンピエトロ大聖堂に隣接し、バチカン宮殿内に建てられた礼拝堂です。シクストゥス四世の甥にあたるユリウス二世は一五〇六年、ミケランジェロに天井画の制作を命じました。一五〇八年に制作開始、一五一二年完成。創世記の九場面、天地創造、楽園追放、大洪水などが祭壇から後陣にかけて配列されています。この天井画を制作途中に覗き見たラファエロにも強い影響を与え、彼が当時描いていたバチカン宮殿、署名の間の壁画「アテナイの学堂」にもそれが伺える、ということです」
湯水のように溢れた言葉が、はたと止んだ。
葵が覗き込むと、早乙女は眉間に皺を寄せ爪を噛む仕草に入った。
「しかし、ラファエロがおなかを空かせて倒れた、という記述はありません。本当でしょうか?」
葵は早乙女の遠回りな疑問にようやく追い付き、そして吹き出した。
彼女の様子に、早乙女は不安げな表情をした。ひとしきり笑って落ち着いた葵が、ようやく口を開いた。
「一也君、これはね、……ギャグなのよ」
「ギャグ?」
「お笑い。意味はわかるよね?」
「はい」
「つまり……」
と、言い掛けて口をつぐむ。葵は笑いを説明するほど不毛なものはないと思ったが、この際、仕方がない。とりあえず続けてみた。
「つまりね。あの会話は、ある程度知識のある人に向けた狙いを持っているの。だから……これは少し鼻に付く笑いよね。スノッブな笑い。大前提は、ラファエロがミケランジェロから影響を受けたってことを知ってること」
早乙女はうなずいた。
「僕は、知っています」 葵も相槌を打った。
「そうね。……あの映画の会話のサンピエトロ寺院でナンパした、というところから、彼女にミケランジェロの天井画を説明した、までは前振りなわけ」
「はい」
「そこで、ラファエロが一目見て気絶した天井よ、と話題を振る」
「はい」
「ラファエロがミケランジェロを尊敬してたってのは前提でしょ。気絶したってのいうのは、感激した、の誇張表現なわけ。そこで、その知識に欠ける人物がコメントを発すると、腹でも減ってたのかい? とくる」
「はい?」
「これはね、……ボケなの」
早乙女はきょとんとしている。
しばしの沈黙。
葵は間が持たなくなって、咳払いした。
「感激で気絶する、が、腹が減って気絶、という風に話題が陳腐化しているわけね。これがボケ。関西の漫才だとそこで、なんでやねん、が入ってくるんだけど。その辺が外国映画なのかな、あえて突っ込まず、それを観客に任せている」
早乙女は再び爪を噛み始めた。自分の中の、引用の引き出しを探っているらしい。
それから静かに口を開いた。
「ボケ役というのは、そのとぼける行為によって笑いを誘導……」
葵は目を伏せると片手を挙げ、早乙女の言葉を制した。それから深いため息を吐く。
「一也君。笑いはね、理屈じゃないの。理屈を解説した時点で、その笑いは死んじゃう。わかる?」
「はい……」
ちっとも、わかっていなかった。
葵は肩をすくめた。
「ま、そのうちわかるわよ。この治療が成功すれば、ね」
「はい……」
早乙女はまだ神妙な顔で、眉間に皺を寄せている。
葵はその様子が、妙に可笑しかった。
「一也君は、ボケの方ね」と、葵。
早乙女は真顔で反論した。
「洋子さん、僕は今日までの人生で、ボケたことなど一度もありませんので」
葵は素早く左手で早乙女の胸を叩いた。
「なんでやねん」
「……?」
葵は目を伏せると、澄まし顔でレモンティを含んだ。
「今のは、……なかなかいいボケだったわよ」
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