第10話
君が夕食後に作業療法室2号に来ることは、病院関係者の誰もが知るルーティン・ワークだ。
(テレピンオイルの臭い)
君は不安や苛立ちを抱えた時、知らずと絵筆を取った。
物書きが慰みにタイプを打って、そのキーボードの音に心安らぐように。
作業療法室2号は、さほど広くもなく、採光も悪かった。
しかし君が訪れるのはいつも陽が翳った夕食後のことであり、自分の手元を照らす蛍光灯の明るさが一定であること以外望んでいない。
君はいつも、見ることを済ませてからキャンバスに向かった。
(白いキャンバス)
(下描きの終わったキャンバス)
(下描きが終わり、全体を赤く塗りつぶしたキャンバス)
作業は段階的で、絵の具の乾燥時間が必要となるため、いくつかの違う行程が並べられている。
今日の君は、下描きの終わったセピア色のグリザイユの一枚を取り出した。
しばらく眺めた後、ペーパーパレットにチャイニーズレッド、カドミウムレッド、パーマネントイエロー・ライトを搾り出す。
赤色の二色はホルベイン社製、橙味を帯びた黄色はクサカベ社製の油絵の具である。君の好みはクサカベ社のやや固めの練り具合で、中間色のデリケートなバリエーションも気に入っていた。
しかしながらチャイニーズレッドと、カドミウムレッドに関してのみ、ホルベイン社の代替となるものが見付からない。
多分に嗜好によるものだが、それが君の抱える病いの特徴的傾向とも言えた。
(パレットに広がる赤のグラデーション)
溶き油をたっぷりと含ませ、透き通った赤い絵の具を、扇筆を使って丹念に塗りこんでいく。
セピアの下描きが薄いセロファンの被膜を被るように、赤く染まる。チャイニーズレッドの深い血のような赤さに、パーマネントイエロー・ライトの雫が滑り落ち、ゆっくりと、押しのけるように溶け合う。
夕暮れに似た薔薇色の滲みの下から浮かび上がる図柄は、十区に繋がる環境河川を見下ろすステーションの景色だ。
正方形に近い黄金比を持つF型キャンバスを縦に据え、その上下の中心を消失点に置いている。 (空)と(大地)が等分に分割された人工環境。
グランドとして君がキャンパスに赤色を選ぶのは、色彩の持つ波長の問題だ。
我々は青白い光によって照らし出される光景を真っ先に見詰め、その後、暗がりから返ってくる赤みを、ゆっくりと味わう。
(光は冷たく、闇は温かい)
それもまたパターン。
君は記憶をパターン化し、絵画へと翻訳する。
グランドはレッド。
ハイライトはチタニウムホワイト。
ダークシャドウは、ウルトラマリン、バーントアンバー、そして少量のサップグリーン。 空気を描く色もあった。
お気に入りは、ヴァイオレットグレイNo・1と、ミストグリーンだ。
塗り重ねられる青い光源の色調の背後に、微かに漂う情熱の闇。
所々に覗いた絵筆のムラから、はっとするような赤色の輝きが閃き、画面の輝度が高まる。
君の思う絵画。
それは選び抜かれた色彩が、適所に塗り込められた美しいモザイク。
その集合が時として、ある事象に酷似して見える。
絵とは、そうしたものだ。
君は常に、キャンバスを縦長に据える。
それは、絵画とドラマを区別するためだ。
縦長の長方形は、窓。
横長の長方形は、舞台である。
窓は静止した風景を切り取る装置で、舞台は何か物語を動かすための枠組みだから。
ドラマは、テレビや映画の方がいい。
絵画にドラマは必要ない。
夜八時を回っていた。
葵 洋子は担当患者のチェックに、病棟に足を運んだ。準夜勤へ申し送りを済ませてから、少しばかり残業した。地上のプロジェクト担当医、大崎 泰明医師への提出書類が手間取ってしまったためだ。
各病室を巡り、それから早乙女一也のところへ向かった。
この時間、彼は病室ではなく、二階の作業療法室2号にいた。これは元々、彼の看護サマリーにも書かれていたことで毎日の日課となっていた。つまり夜は、早乙女一也の個人的な趣味の時間なのである。
部屋の戸口を開けると、テレピンオイルのツンとくる松脂臭がした。嫌な臭い。最初はそう思ったのだが、次第に慣れた。今ではこの臭いを嗅ぐと、葵は何故だか腹がすいた。理由は良くわからないが。
葵は静かに戸口を開け、部屋の中に入ってから二度ノックをした。
早乙女は一度振り返り葵を確認すると、にこりと笑った。そして再びキャンバスに向かう。彼女は側にあった背もたれのない腰掛を引き寄せ座った。
作業療法室2号は物置として使われていたので、現在も半分はパーテーションで仕切られ、様々な機材が置かれている。残された空間をどうにか遣り繰りして、早乙女のアトリエにしていた。
地上の立川心身障害児総合センターから持って来た絵は一枚もなかった。早乙女は自分の描いた作品に何の愛着もないらしい。持って来たのは絵の道具箱と筆、各種画用オイル。(危険性があるということで、画用ナイフは持たせていなかった)それまでは画架を使わずに制作していたようで、イーゼルと作業キャビネットは羽瀬研から彼へプレゼントした。最初は戸惑っていたようだが慣れれば便利らしく、喜んで使ってくれている。
この三ヶ月ほどで仕上げられた十枚ほどの油絵が壁際に並べてあった。いずれも目を見張る完成度だ。早乙女の関心は現在、この(月の王冠)の人工環境にあるらしい。
初めて描いた一枚は10号ほどの小品で、羽瀬研の外観を描いた。冬の木立の向こうに、X型の病棟がシンメトリーに描かれている。木々の枝の一本一本、病棟の窓一つ一つが完全再現されている。淡いベージュ色のタイルが細かい面相筆で克明に描写されている。
葵は絵についてはほとんど見識がなかったが、早乙女の作品の特異性は良くわかった。何より特筆すべきは、驚くべきその再現性である。形はもとより、色彩の持つリアリティにも目を見張るものがあった。
彼が作品を描くのは、常にこの部屋の中に限られている。つまり目測することも、写真による資料も使っていない。早乙女が頼るのは自分の記憶のみである。記憶の中に映る映像をそのままキャンバスへトレースしている。
大崎医師によると、自閉症スペクトラム患者の一部に、こうした完全記憶能力が見られるらしい。(直感像)と呼ばれる一つの記憶の形式なのだそうだ。(サヴァン症候群)などが良い例だろう。数的観念や映像記憶など、常人の範疇を著しく越えた能力を有している。
一枚目の絵が仕上がった折、作品は医学的見地から詳細に検分された。早乙女がそれを見たであろう立ち位置は、羽瀬研の前を通る道路を隔てた傾斜路の中ほどであった。どうやらここにやって来た初日、車を止めて十分ほど休憩した時に眺めたらしい。その場所から早乙女の背丈を考慮し、カメラ撮影をしたところ、絵との差異はほとんど見られなかった。まるで測量図のようにぴたりと一致したのである。
人間の目は、左右の目の配置による位相差を利用したステレオ整合により、距離や立体感という情報を獲得している。なので、こうした一致はある意味矛盾していると言えた。
その後、早乙女の視線誘導を検査したところ、彼が物を詳細に見ようとする時、右目を閉じることがわかった。彼はカメラのように、一眼で世界を捉えていたのである。これは心理学的にも興味深い事例であった。
十五分ほど経って、早乙女が絵筆を置いた。
葵は制作中の早乙女には、あまり声を掛けなかった。掛けたところでどの道、反応がないのである。早乙女は前掛けで手を拭きながら薄っすら微笑んだ。
「洋子さん、……どうしましたか?」
葵は腰掛から立ち上がった。
「今日は残業しちゃった。書類仕事とか色々。それで帰る前に一也君に挨拶しよっかなとか思って」
早乙女は唇に手をやり、束の間言葉を探した。
「そうですか。お疲れ様でした」
無難な返答。またしてもソーシャルトレーニングの賜物である。
葵は肩をすくめると、少し寂しげな笑顔を浮かべた。
「今度は何を描いてるの?」
早乙女はイーゼルに乗せたキャンバスを葵に見せた。全体が赤い色彩で塗りつぶされていたが、透けた下絵から図柄は理解出来た。
三十番シャフトに向かう途中の公園から見える光景だった。火、木曜の散歩の折、良く立ち寄る場所である。キャンバスの上下、丁度真半分の位置に水平線が引かれ、十区に繋がる環境河川が窪地のようなカーブを描いて、曖昧な空気散乱の霞へ吸い込まれている。
絵の具は赤だけでなく、簡単にハイライトを入れ、全体の様子見を始めたところらしい。(空)からの光に、環境河川の
近付くと絵の具の筆跡がはっきり見えるのだが、少し目を細めると写真のように陰影がまとまった。
葵は感心したようにうなずき、
「あそこの公園かあ。自転車で一緒に出掛ける?」
「はい」
「一也君、凄いね。写真みたい」
「そうですか。ありがとうございます」
葵は腕を組んでたずねた。
「これ、夕焼け?」
早乙女は首を横に振った。
「昼間の景色ですよ。赤いのは下塗りです」
「赤の上から青く描くの?」
「そうです」
早乙女は恥ずかしそうに指をそわそわさせると、葵に少しばかり自分の知識を披露した。
「色には補色という考え方があって、色相環の反対に位置する色を下地に塗ると、発色が良くなります。例えば赤の補色はグリーン、青の補色はイエローという風に」
葵は、大きくうなずいた。
「へえ、そうなんだ。一也君、詳しいね」
「……昔、作業療法士の人に習いました」
「地上で?」
「はい」
葵はしばし考えると言った。
「じゃあ、つまりこの絵は緑色になるのね?」
早乙女は決まり悪そうにもじもじした。どうやら違うらしい。
葵はたずねた。
「違うの?」
「違います」
「じゃ、どうなるの?」
「普通の昼間の色に」
「あら、そう? ……ルール通りじゃないのね」
「はい。ルール通りじゃない、です」
葵は早乙女の様子から察した。そして言葉を添えてやる。
「それは、あなたが決めたルールなのかしら?」
「はい」
「良かったら教えて欲しいな」
早乙女は頬を赤らめ、俯いたまましゃべった。
「太陽の光は青っぽいものなんです。光にはそれぞれ速さがあって、青い光は赤い光より速い」
光の波長の話だと葵はすぐに理解した。
「僕たちが目にする形のある世界は青い光で照らされています。その光の下では色や形が全部明快で、わかりやすい」
そこで早乙女は自分の絵の暗がりを指さした。
「赤い光は青い光より遅い。だからいつも影の中に潜んでいます。影は色がわからないし、形もはっきりしない。でも温かい」
葵は早乙女の考える概念をようやく理解出来た。彼は光の波長差を速さだと捉えているらしい。波長の短い青は速い、波長の長い赤は遅い。それを絵の具の塗り重ねる階層構成とダブらせているようだ。
しかし、これは科学的には間違いである。
光の色による速度差は、真空中ではなし、物質中で異なる、が正解である。
しかも波長の短いものほど振動数が高く、屈折率が大きくなるため、速度は遅くなるはずだ。
つまり物質中では、青の方が遅いのである。
しかしながら早乙女のこの発想(もしくは勘違い)は、光のドップラー効果のイメージに由来するものだろうか。光速に限りなく近い速度で移動する宇宙船の窓から外が見えたなら、宇宙船の前方の星は青く、後方の星は赤く見えるという、あれだ。
青は近付き、赤は遠ざかって行く。
青方偏移と赤方偏移。
だから赤色が背後にあり、その上に青が上書きされるというイメージ。
「なるほど。でも色彩の速度については、一度調べてみた方が良さそうね」
早乙女は、しょんぼりと肩を落とした。
「間違ってますか?」
「答えは自分で調べて、一也君。インターネットで、プリズムと光の屈折、よ」
「はい……」
葵は早乙女が黙り込んでしまったので、元気付ける言葉を探した。
「でも一也君の考えは面白いよ。何を読んだの? 特殊相対性理論、光のドップラー効果、その辺りかしら?」
早乙女は、ぱっと表情を輝かせた。
「はい、そうなんです」
「青方偏移と赤方偏移。何だかSFだわね」
「図書館で、……少し興味があって読みました」
葵は冗談めかして言った。
「もし、あなたが亜光速で移動しているなら、あなたの前に青い光、後ろに赤い光が尾を引くはずよ。……証明は出来ないけど」
「そうですよね。そうだと嬉しい」
葵は戸口に向かいながら早乙女に言った。
「あなたの感受性は、亜光速ね。……それと暗闇が温かいっていうのは、気に入った」
葵は無名の天才画家に、お休みの挨拶をした。
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