第8話
その巨大な吹き抜けは、遠い出入口に星明かりを配していた。
クジラに飲み込まれたピノキオの、腹からの眺め。例えるなら、その表現が似つかわしい。鉄とカーボンファイバーで構成された道内は、生物学的複雑さを内包していた。
(月の王冠)のハブポートは、多層型ウイングを持つ、無重量宇宙港である。0G空間なので上下の関係ない立体構造形式を採用している。回転重力を獲得するトーラス居住区から垂直に繋がるシャフトに、放射状にぐるりと一周する配列でウイングが連なっている。各々のシャフト入口に税関があり、シャフトは居住区と共に回転しているので、制止しているハブポートのウイングとは、十分間に一回転のペースで位置関係が巡っている。なのでタイミングを外すと、自分の目的のシャフトと出会うまでしばらく待たなくてはならなかった。
広い館内はニュートラル・グレイで統一され、少し押さえた照明設定だ。所々に、有機ELの案内版が光っている。
シャフトの接近を告げる館内アナウンスが三つの言語で木霊した。ロシア、中国、そして日本語である。
「まもなく日本エリア三十二番シャフトが到着します。ご利用の方はボーディング・ブリッジにご搭乗くださいませ」
無論、沢木亨二が聞き取ったのは日本語のアナウンスのみである。
本日、非番の沢木は二十番ウイングのDデッキ、(セルゲイのダイナー)で、一杯やり始めたところだった。時間はまだ早い、午前中ではあったが。
ハブポートのウイング内では、関税が掛からない。沢木は居住区で手の出ない高価で美味い酒は、ウイングの屋台で頂くことにしていた。
(セルゲイのダイナー)はその名の通り、ロシア人店主セルゲイの経営する居酒屋である。ここの目玉は、日本酒、焼酎、鮨で、下手な和食割烹なんぞで、べらぼうな金額を払うより、ぐっと品が良かった。元々、北方領土の蟹の密漁で財を成した店主らしく、日本通。食の目利きもなかなかのものである。
沢木は店の窓から横目でシャフト方向を見やった。
人々の生活を支える数多くの日用品がハンガー・トランスポータに積み替えられ、カーゴエレベーターの内側、別レーンに運ばれて行くのが見える。
やがて三十二番シャフトが接近すると、利用客を乗せたボーディング・ブリッジが上昇し、シャフトを捕捉追尾しながら接合した。その様子は何処か昆虫の交尾のようないかがわしい動きを思わせ、コミカルに見える。
重たい、金属の擦れ合う音が腹に響く。
ウイングデッキには、強化ポリエーテルケトンの舷窓が嵌っていて、入港してくるスペースシャトルが鑑賞出来た。
丁度今、日航インターナショナルのスマートな旅客シャトルが入ったところだった。機体にリニューアルされた(JAL鶴丸)のロゴタイプがマーキングされている。滑るように接岸する機体から、きらびやかな警戒指示灯のフレアーが降り注いだ。
沢木はカウンター席でぼんやり突き出しを突付いていると、目の前に熊のようなスラブ系白色人種が現れて、何事かまくし立てた。店主、セルゲイである。
沢木にロシア語なんぞ一言だってわかるはずがない。沢木はカウンターのメニュー横にあるバベル(多言語自動翻訳機)をオンにした。
モニタの表示は次の通りだ。
(お客さん、とてもいい日本酒が入荷したのですが、いかがですか?)
何とも丁重な訳文が笑える。今のセルゲイの様子では、絶対にそんなニュアンスではなかったが。沢木はたずねた。
「銘柄は? 何が入ったんだい?」
沢木の言葉も、格調高く翻訳されたに違いない。
セルゲイはカウンターの奥からボトルを取り出した。桐の木箱に納まっており、何やら呪文のような筆文字が記された紙包みにくるまっている。大男は訛りのある日本語でこう言った。
「カシワザカリ」
灰色の瞳の髭面の大男は、にんまりと微笑んだ。バベルを見るとURLが記されている。沢木はクリックしてみた。
片山酒造株式会社 柏盛(十五年熟成)
マイナス五度に保たれた冷凍コンテナに原酒を十五年寝かせた最高傑作!
【十五年熟成 柏盛】
年間五本限定! 720ml 五万円で販売しております。
だそうな。一本、三百六十ユーロくらいである。十五年熟成とは、飲んでみたい気もするが。沢木はセルゲイにたずねた。
「一杯だったら、幾らになる?」
セルゲイは聞き取れないロシア語で早口に答えた。沢木はバベルを眺めた。
(百五十ユーロ)
720mlで五万円となると、一杯220mlと考えて約三分の一。約一万七千円となる。しかし百五十ユーロとなると、二万円そこそこだ。これは随分な、ぼり様である。いずれにしても高すぎる代物だった。沢木は自分の顔の前で手を煽ぐに振り、
「俺は久保田でいいよ」
久保田なら萬寿、一升瓶でも、ネットオークションで八千五百円ほどだ。六十ユーロ前後である。酒は身の丈に合った楽しみ方がいい。
セルゲイは口をへの字に曲げて、残念そうに引き下がった。
沢木が吸引ボトルから久保田を啜っていると、見知りの顔が戸口に現れた。
コカ・コーラのネオンサインが男の顔を赤く照らした。スイングドアを押し、颯爽と滑り入る。
「おっと真っ昼間から、無重量アルコール摂取かい。いいご身分だな。……しかも、健康に悪い」
仕立てのいいスーツ姿の若い男だった。磁力靴で巧みに歩き、沢木の座るバーカウンターに近付いた。
髪は短く刈られ、ジャケットの裾が浮き上がらない無重量仕立ての高級スーツ。イタリアン台場の折り返しが、高品質を物語っている。宇宙生活に慣れ親しんだ、そんな雰囲気の官僚的な男である。
男は第一月面基地治安管理局次官、西脇 明だった。沢木は男の顔を見上げたまま、イクラの軍艦を頬張った。
「次官殿が、このような場所にいらっしゃるとは」
西脇は沢木を見降ろし口元を曲げると、皮肉な笑みを浮かべた。
「相変わらずみたいだな、沢木。嫌味も辛口か?」
沢木は吸引ボトルを振って見せ、
「すっきりした喉越しなら、これだな」
二人は笑い、握手を交わした。
西脇 明は警察学校の同期だったが、彼は無事に卒業していた。順調過ぎるステップアップを踏んでいるらしい。月基地と(月の王冠)の合同会議などで、ちょくちょく顔は見掛けたが、お互い違う立場で臨む席上である。話をするなど数年振りだろうか。
沢木は少し酔いの回った目で西脇を見上げた。
「久しぶり、西脇。いいスーツだな。出世の方も順風満帆?」
西脇は沢木の横に座ると、ビールを注文した。
「ま、俺はちゃんと卒業したってだけだがな。キャリアじゃないが、今や次官だ。地上勤務だとそうはいかんからな。……月面に来ると昇るのが早いんだそうだ。何たって、重力が小さい」
月面官僚のジョーク。沢木は乾いた声で笑った。
やがてセルゲイが西脇のビールを持ってくる。
「再会に」
二人は吸引ボトルをぶつける。ぶよぶよとしたビニールの嫌な感触がしただけだった。西脇はしばし黙ってボトルを吸引し、銘柄を改めた。それからおもむろに沢木に言った。
「お前も、(王冠)に来て随分になるだろ?」
「かれこれ三年かな」
「地上にいた頃よりは、羽振りも良くなったか?」
沢木は曖昧にうなずいた。
「まあ、そうだな。明日の食いぶちに困ることはなくなったぜ。それが公務員のいいところだな。……お前、子供は?」
「三つになる。娘だ。沢木は?」
沢木は照れくさそうに両手を広げて見せた。
「俺は、……相変わらずさ」
西脇は沢木の様子をまんじりと観察した。
「紫外線も射さないステーションで、その日焼け。ロン毛の茶髪に、ピアスと来たもんだ」
西脇は右手を伸ばし、沢木のアクアマリンのピアスを弾いた。
「やめろって。……」
沢木がくすぐったそうに笑った。西脇が聞いた。
「相変わらず、遊んでるのかい?」
「そうでもない。……いや、あんまり変わらんかな」
と、沢木が苦笑いする。
沢木は耳を掻きながら、話題を変えようと西脇にたずねた。
「今日は何用だ? お前が(月の王冠)に来るなんて珍しいだろ?」
西脇はごくりとビールを飲み下した。喉元に残る不快な泡が胃袋に収まるのを待ち、答えた。 「会議だよ。お宅のボスとね」
「霧島局長か?」
西脇は静かにうなずいた。しばしの沈黙の後、鼻息を漏らすと、さりげなく切り出した。
「月の周回軌道で変な動き、だ」
沢木は表情を変えると右手を上げ、西脇を制した。
「ちょっと待て。俺が聞いても大丈夫な内容か?」
西脇はにやりと笑った。
「お前は、信用出来る人間だろ?」
沢木は渋々首を縦に振った。
「……ああ、まあね」
西脇はビールをちびちび啜りながら、呟いた。
「それに、それほど高い機密ってのでもない」
西脇はカウンターに付着した水滴を指でなぞり、小さな円を描いた。
「月の極軌道上、高度百キロの地点には、投入されたいろんな人工衛星が回ってる」
「そうだな」
「既に死んでるものもあれば、まだ現役で、基地との重要なネットワークになっているものもあるんだ」
「なるほど」
西脇は辺りを伺い、少し声を落とした。
「三日前、……二十一日のことだが、月面から高度百キロ地点に対してテレメトリ・コマンド・レンジング系の通信がやりとりされた」
沢木は眉間に皺を寄せた。
「何だい? テレメトリ、何ちゃらってのは?」
「衛星の姿勢制御、搭載機器の起動に関する信号だよ」
沢木も酔いが冷めて来た。西脇の方へ身を乗り出すと、顔を近付けた。
「そりゃ、ちょっと気になるな」
「だろ?」
「発信源は?」
「月の表側で二箇所。まだはっきりしてない。信号の内容も暗号化されていて、今はその解析中というところだ」
沢木は首を傾げ、問うた。
「因みに、高度百キロ地点には何が飛んでるんだ? 当局の予想は?」
西脇は腕組みした。
「旧合衆国の人工衛星。全方位支配政策の忘れ形見とか」
沢木は目を丸くした。
「ミサイル防衛システム? それって条約違反だろ?」
西脇は眉を吊り上げ、同意を示した。
「(宇宙条約)と(月協定)の両方にね。まあ、そういう国だったわけだけど。こうなると、(USSPACECOM)米国宇宙軍構想は進行してたってことだな」
沢木は久保田をぐっと飲み干した。
「今更、誰が利用しようってんだ? 国連北米暫定駐留軍からは、何か通達はないのかい?」
「目下確認中とのことだ。……まあ、取り越し苦労の単なる送受信エラー、なんてことかもしれんがな」
「だがテロの可能性も、……否定は出来んか」
二人は無言で鮨をつまんだ。ウニは表面が乾いて味が落ちていた。
西脇は肩をすくめた。
「あの国が無くなって何年になる?」
「九年かな」
「それでも尚、肩入れしようって奴らがいるんだ。人気あるよねえ」
そう言って西脇は、中トロを頬張った。
沢木は無精髭の伸びた顎を擦りながら言った。
「自由社会の象徴だったわけだから。幾らでも大義名分は作れるさ」
「自由を目指す軍事国家、だろ?」と、西脇。
「そうか。言えてる」
沢木は西脇の肩を叩いた。
「会議、頑張ってな」
「ああ。わかったらまた知らせる」
沢木は迷惑そうな顔をした。
「別に。俺は聞きたくねえよ」
沢木は飲み干した吸引ボトルを持ち上げると、言った。
「世界平和に」
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