第7話


「ねえ、洋子」

 笠原美紀BM療法士は、猫撫で声で葵 洋子に近付いた。

「何、美紀ちゃん?」

「私さあ、今日暇でさ」

 意味ありげに告げる笠原に、葵はカルテを整理しながら呟いた。

「どうして? 何かあったっけ?」

「魚住さんと北村さん昨日退院したから、ちょっと手が空いてちゃって」

「そう。それで?」

「後で一也君とこ、……一緒に行ってもいいかなぁーって?」

 葵は手を止めると、ははんと目を細めた。

「何だ何だ、今度は若い子にちょっかい? 彼、患者さんだよ。ロシア旅行の君はどうしたのよ?」

 笠原はピンクのスポークフレームの奥で、ほくそ笑んだ。

「まあ、それはそれ。ティーンエイジャーの生態にも興味あるでしょ」

「……生態って、何?」

 葵は正直、この天然系娘に手を焼いている。笠原は葵を指差し、口を尖らせた。

「洋子、ずるいよ。王子の独り占めは。我々は出会いの機会均等を要求する!」

 葵は眉をひそめ言い返した。

「独り占めじゃないでしょ。あたしはね、担当なの」

 笠原は突然態度を翻し、今度は小柄な身体を摺り寄せて来た。

「えー、いいじゃん、いいじゃん。ねえねえ」

「あー、もう。うっとうしい。……わかったよ、わかったから」

 葵は首を振り、うんざりしたため息を吐いた。

「でも仕事だからね、遊ばないよ」

「やったー!」

 笠原は両手を上げ、子供のように万歳した。


 午前中、ナースステーションでこうしたやりとりがあり、午後から笠原美紀が葵 洋子と連れ立って検査室に付いて来た。

 笠原が特別棟へやってくることは少ない。笠原の担当は、主病棟の脊髄損傷患者のブレインゲートによるリハビリである。いわゆる脳センサー・インターフェイスだ。

 彼女は(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)プロジェクトには選抜されなかった。葵は、プロテーゼ・センサー・インターフェイスに強い笠原が選抜されなかったことが少し腑に落ちなかったが、(平均的健常者の平均的心理反応)という基準を考えると、うなずける気もした。

 笠原の考える男女間の社会的モラルは、少々難りだ。

「これなのね。(アベックシート)って?」

 笠原は足元のケーブルを注意深く避けながら、システムを見上げた。葵は、あからさまに胡散臭そうな表情で呟いた。

「そうよ。いくらプロトタイプとは言ってもねえ。……黒は悪趣味よね」

 しかし笠原は聞く耳を持たぬ様子で、きらきらと目を輝かせている。

「何か、強そうだな」

 葵は平板な声でたしなめた。

「あー、もしもーし。これ、戦わないから、ね」

「ああ、そうだね」

 笠原は身をかがめてシートのハーネスに触り、

「ここに並んで座るわけだ」

 葵は、そうだと答えた。

「このヘッドマウントディスプレイを被ってね、バーチャル映画を一緒に観るわけよ。その時のあたしと一也君の脳内活動をfMRIで記録して、それを比較することで活性パターンが何処なのか探ろうって検査らしいわ」

 笠原は興奮に色めいた。

「なんか、マッドサイエンティストっぽいじゃん。……こうさあ、雷みたいの、バチバチしたりしない?」

「……しない、しない」

 少しふざけていた笠原は小さくため息を吐き、納得した様子でうなずいた。

「私もやってみたかったな、一也君と。でも(平均的健常者の平均的心理反応)ってのがネックよね。私、いいコちゃんじゃないから。洋子は良かったね。一番乗りで」

 葵は笠原の心ない言葉に、うなだれた。

「あたしはどうせ、普通ですからね」

 慌てて笠原が訂正する。

「あれあれ? 私は褒めてんだよ、洋子」

「ありがと」


 早乙女一也は、午後一時三十分きっかりに現れた。

「失礼、します……」

 作務衣に似た紐合わせの検査着で現れた早乙女は、入口を潜った途端、二人の若い乙女に出迎えられ、少々面食らったらしい。線の細い端正な顔立ちが引き攣っている。早乙女は葵の顔をあらため、答えを求めた。

「こんにちは。一也君」

 葵は、はっきりとした言葉使いで呼びかけた。

 早乙女は、そわそわした両手をどこにやっていいかわからず、体側に滑らせた。きっと手のひらは、じっとりと汗ばんでいるに違いない。視線は二人のどちらともぶつからない、空中に固定されていた。

 葵は横にいた笠原を前に押し出すと紹介した。

「一也君、彼女は笠原美紀さん。私と同じBM療法士よ。今日は一緒に検査に参加します。いいかしら?」

 早乙女は、ろくに笠原の顔も見ずにうつむくと、小さくうなずいた。紹介が終わるや否や、笠原はさっと前に踏み出し、最高の笑顔で笑い掛けた。

 まるで陽が差したような輝きだった。

「あなたが早乙女一也君? 噂通りのハンサム君だねえ。……私は、笠原美紀、美紀ちゃんって呼んでね」

 笠原は右手を差し出すと、葵にたずねた。

「握手は? 大丈夫かな?」

「いや、どうかなあ。初めての人には……」

 と、言い終わらぬうちに、早乙女は笠原の手を握った。しかも、少々頬を赤らめながらである。

 葵は言葉を失った。ふつふつと嫉妬の炎が沸き立つのを感じつつ、肩をすくめた。

「おっと、いきなり笠原オーラ全開ですか」

 王子、早乙女一也もまた、世の男供と同様であったわけだ。笠原フェロモン、向かうところ敵なし、である。

 葵の胸中は、たちどころに察知され、笠原に流された。

「洋子、ひがんじゃ駄目だよー。あんたの王子を取ったりしないってば」

「……」

 笠原は手際よく早乙女を誘導すると、天窓から光が届く丸テーブルに着かせた。それから、ぶすっとしている葵に近付き、袖を引っ張る。

「それで? 洋子、何するの?」

 葵は笠原に険しい視線を送りながら答えた。

「心理テスト。これよ」

 葵は笠原にクリップボードに留めたフローチャートを見せた。笠原はぱらぱらとめくり、すぐに理解したようだった。

「ああ、これ、(サリーとアン課題)ね。知ってるよ」

「そう」

「ねえ、じゃあ、これ(洋子と美紀課題)ってことにしてさ、お芝居にしようか」

 葵は面食らったように笠原を止めた。

「ちょっと待ってよ、どうするつもり?」

「これを一也君に、見せればいいんでしょ?」

「そうだけど……」

「だったら、ドラマ仕立てがいいじゃない。社会的関係性の理解は、ドラマが一番なんだから」  

 笠原の積極性に押されてか、葵は言われるままに簡単な準備を始めていた。早乙女は丸テーブルに着いたまま、ぼんやりと二人の様子を眺めている。

 笠原はボールを片手に、早乙女の前に立った。

「一也君、今日は洋子さんと一緒にあなたにテストをするわ」

「はい」

「このテストは、お芝居になってるから、今から私達がやるお芝居を見て答えてね。いい?」

「わかりました」

 早乙女は微笑したまま、何が起こるかと待ち構えている。葵は少し心配になって、笠原に耳打ちした。

「美紀、彼、急な変更には、なかなか付いて来れないのよ」

 笠原は葵の肩を軽く叩いた。

「心配ないって。映画観るのと大して違わないよ。例え、わかんなくても、もう一度やればいいんだから」

「そうだけど……」

 心配そうな葵に相対して笠原は楽観的だった。

「だって楽しい方がいいじゃない? ……じゃ始めるよ。一也君、見ててね」

 早乙女は心持ち身を乗り出したようだった。

 すると笠原は、フローチャートを無視して勝手に話を作ってしゃべり始めた。

「洋子と美紀は友達です。二人は親友で、いつもいつも一緒に遊んでます」

 笠原は突然、葵の手を取り、ダンスを踊り始めた。

 音楽は笠原の鼻歌である。

「ちょっと、……何?」

 葵は声を殺して笠原にたずねる。

「いいから、いいから」

 笠原の奇妙な歌。どうせ何か、あてずっぽうの替え歌だろう。


くるくるまわる、オレンジの観覧車。

下を見て帰りたくなっても、もう戻れないかもね。

わたしたち、友達。 素敵な女の子。

洋子と美紀、素敵なお友達。

離れられない、お友達。 …………


 笠原は少し息を切らせながら続けた。

「洋子と美紀は、ボール遊びも大好き」

 パールピンクのラテックスのボールを取り出すと、笠原がドリブルを始める。

「ほら行くよ、洋子」

「何、何?」

 笠原がへたくそなドリブルで突っ込んでくると、葵はつい反射的にガードしていた。笠原は小柄で運動神経も葵には及ばないので、あっという間にボールは葵の手へ。

「ああ、捕られゃった」と、笠原。

「ふん、当たり前じゃない」と、葵。

 笠原は笑いながら話を続けた。

「洋子は喉が渇いたので、ジュースを取りに行こうと考えました」

 葵はボールを用具入れの引き出しに仕舞うと、早乙女に手を振り、治療室を出て行った。早乙女は何事かと、成り行きに注目している。

 葵が出て行ったのを見計らって、笠原はこそこそと用具入れに近付き、引き出しに仕舞ったボールを取り出した。笠原は早乙女にウインクすると、ボールを(アベックシート)の束になったケーブルの影に隠した。

 それから、外にいる葵に声を掛けた。

「もう、入って来ていいよ」

 葵は扉の影から顔を覗かせると、早乙女の顔を見てにっこり微笑んだ。

 笠原はテーブルに近付き、早乙女の前に立ちはだかった。人差し指を一本立てると、笠原は問うた。

「さて一也君、ここで問題です。部屋に戻ってきた洋子はボールを探します。……最初に探すのは何処かな?」

 早乙女は戸惑った表情で、葵と笠原の顔を交互に見やった。

 爪を噛む仕草をし、眉をひそめると、長い睫毛が影を作る。まるで明治文学に出てくる書生さんのようではないか。笠原は早乙女の様子に、ご満悦である。

 笠原がロマンを噛み締めた数分間、早乙女はじっくり考えて答えを出した。

「ボールは、……あの機械の、ケーブルの後ろにあります」

 葵は早乙女の答えを静かに吟味した。残念ながら、早乙女の答えは間違いだった。

 正解は(用具入れの引き出し)である。

 この(サリーとアン課題)は、標準誤信課題と言われるもので、(自分はある事実を知っているが、それを知らない他者はどう考えるか?)を問う問題である。

 健常者であれば、四、五歳程度で理解できる内容だが、(心の理論)の発達が遅れている自閉症スペクトラム患者には、(自分とは違う見解を持つ他者)を想定することが難しいために、自分の知っている事実をそのまま答えてしまう。葵が部屋から出て行った間に、笠原はボールの位置を変えた。そのことは葵には未知の出来事であるはずである。だが早乙女自身はそれを目にしている。自身の得た情報と、葵の状況を比較検討して答えを導く。その作業が彼には難しいのである。

 つまり、早乙女一也は、まだ向こう側の人間である、ということだ。

 笠原は微笑んだままうなずき、そして言った。

「そうだね。私が隠しちゃったものね」


 今日は火曜日なので、夕方四時より散歩に出掛けた。

 早乙女一也の一番のお気に入りは(月の王冠)を繋ぐシャフトで、高速エレベーターを使って様々な重力ステージに立ち寄り、公共施設を利用して遊ぶことだった。散歩に興味があると言うよりも、これはどらかというと単なる乗り物好きなのでは、と葵は考えていた。まあ、男の子らしいと言えばそうだ。健全な成長である。

 羽瀬研から最も近いシャフトが三十番で、七百メートルほどの距離にあった。葵は早乙女を後ろに乗せ、マウンテンバイクを漕いだ。笠原は不満を漏らしながらも、何とか付いて来れた。

 シャフトの高速エレベーターは時速三百キロの加速度で、片道二十分で中心のハブポートを往復できる。

 笠原は0・6Gステージに付いた辺りで早々にぐったりしており、葵と早乙女が低重力バトミントンに興じている間、動けずに青い顔をしていた。

 0・3Gから0Gステージの間には、ステーションでも数少ない、外を見渡せる小窓が点在していた。放射線対策を施した、展望回廊である。三人で散策して月や地球、それに宇宙を眺めて過ごした。

「洋子も旅行とか行けばいいのに。ロシアも中国も、このシャフトの向こう側なんだよ」

 笠原は自販機で買ったゼリードリンクを搾り出しながら、先日のアバンチュールのおのろけをたっぷり聞かせてくれた。

 彼女の背後には細く仕切られた強化ポリエーテルケトンの窓があり、八割方照らされた月が浮かんで見えた。低重力区画なので、オフホワイトの回廊には上下左右に対衝撃パッドが取り付けられ、至るところに固定フックが顔を覗かせている。

 窓の手すりに、早乙女が身体が浮き上がらないよう注意深く掴まっている。どうやら、喉の渇きはそっちのけらしい。食い入るように宇宙空間に見入っている。

「だってパスポートとか、高いじゃん」と、葵が言った。

 女二人は固定フックで揺れながら、旅行談議中である。

「そりゃまあ、そうよね。連合ステーションって言うのに、変なところで国境があるから」

 と、笠原は首を捻る。

「ナショナリズムの壁って奴でしょ?」

「何、それ?」

「国家主義、または民族主義ね。たまには辞書とか引いてみなよ、美紀ちゃん」

「いいの、私は。お馬鹿キャラは男に受けがいいのよ」

 葵は曖昧にうなずいた。

 葵は沈黙すると一気にアイソトニック・ゼリードリンクを吸い込み、それからしみじみと寂しげにため息を吐いた。

「あたしだってさ、旅行とか、行きたいけど、……一人で行ってもつまんないじゃない」

 笠原は急に優しい表情になって、葵の空中を漂う美しい黒髪を束ね、三つ編みにした。

「洋子、いけてると思うけどな」

「どうかしら」

「綺麗だよ。……何か猫みたいで」

 葵は笠原をしげしげと見詰め、言った。

「美紀ちゃんは、犬みたいだ」

 笠原は心外とばかりに胸に手を当てた。

「私、そんなにいつも尻尾、振ってるかな?」

「ううん、そういうことじゃなくて。多分、アピールが上手なんだと思う」

 笠原は葵の髪をいじりながら微笑んだ。

「洋子って、男の人、苦手でしょ?」

「え、そうかな? そんなこと……ないよ」

 動揺する葵の様子が、笠原を一層喜ばせる。

「今の感じをね、殿方の前でさらっと出すのよ。そしたらイチコロよ」

 葵は顔をしかめる。

「そんなの、……あたしには無理、無理」

 そこで笠原は早乙女に声を掛けた。

「ねえ、一也君。こっちおいでよ」

 早乙女は展望窓から向き直ると、壁面を蹴って二人の方へ流れた。葵と笠原は上手に早乙女の身体を捕まえると、二人の間に座らせた。

 笠原は唐突に早乙女の鼻先に顔を近付け、じっくり観察した。早乙女の身体が逃げ出しそうになるのをぐっと押さえ付けると、言った。

「しかし、一也君」

「はい……」

「君は、ほんとうにハンサム君だねえ。あなたが今みたいじゃなかったら、世の中の女の子たちはメロメロだよ」

「……」

 葵が笠原をたしなめる。

「美紀ちゃん、やめなさいよ……」

 しかし笠原は葵を遮り、続けた。

「ねえ、意味はわかるんでしょ? そう言われてどう思うの?」

 早乙女は視線を泳がせ、身体をふらふらさせた。

「僕は、……良く、わからない」

 笠原は尚も食い下がった。

「じゃあ、もう一つ質問。君はこの人、葵 洋子さんをどう思う?」

 葵は早乙女と視線がぶつかった。自分の顔が、微かに火照るのがわかる。早乙女の鳶色の瞳がじっと自分を見詰めていた。澄んだ綺麗な瞳……。視線を落として彼の唇を見詰めると、微かに震える顎が目に入った。葵はその瞬間、不埒にもその唇の感触を想像してしまった。

「僕は、……」

 早乙女は機械的に口を開いた。

「洋子さんは、……素敵な人です」

 それは、ソーシャルトレーニングから引き出した答えだった。

 当たり前で、通り一遍の言葉。葵は少しがっかりしながらも、ほっとしていた。笠原はこれ以上いじめても仕方ないと考えたのか、早乙女から手を離した。そして言った。

「ま、私は安心したけどね。一也君が、ここで気の利いたセリフでも言ったら、どうしようかと思ったわよ」

 葵は笠原に軽く突っ込みを入れた。

「どうにかするつもりだった?」

 笠原はそれには答えず、葵に片方の眉を吊り上げて見せた。

「洋子、気を付けて。彼、天然ジゴロかもよ」


 三人の見守る中、月はゆっくりと展望窓を横切り、視界から消えた。

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