第6話
早乙女一也、十七歳を羽瀬研で引き取ることが決まったのは、去年の夏を過ぎた頃だった。
それまでは地上の、立川心身障害児総合センターに入所していたのである。両親は九年前の都心部を襲った、いわゆる(神の槍)事件で死去している。都内の十一の区画を巻き込んだ都市災害の被害は大きく、主要な高度医療施設など、多くを失った。
精神保健福祉を必要とする患者たちには、手痛い打撃である。
この事件で任意後見人の多くが亡くなり、後見人制度が支援法そのものから浮き上がってしまった。
そこで持ち上がったのが、政府の行政計画としての高度福祉基準措置である。これは国が最終的な財産管理を含む、後見手続を行うことを意味している。行く当てのなくなった心身障害者たちが次々と、日本国内の大型医療収容施設へと引き取られていった。(月の王冠)の羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所も、その施設の一環として選ばれている。
立川から回って来た、早乙女一也の看護サマリーによると、
(軽度の知能障害、言語習得が不十分なため、学習に障害あり。五つの基本ケア、起きる・食べる・排泄・清潔・アクティビティは自律)
という評価であった。
そもそも看護サマリーは、記入者の私見によるところが多く、公正な判断を期するならば、やはり自身の目を通じて再検証すべきである。実際に葵 洋子が、昨年十二月に予備観察を行ったところ、知能障害、言語習得の問題はみられないと判断した。
自閉症スペクトラムの中では、アスペルガー症候群とカナー症候群のボーダー、という診断である。多くの自閉症者がそうであるように、ブローカ野とウェルニッケ野の未発達が見られ、視覚の優位性が顕著であった。
早乙女は趣味と称して油絵を描いたが、その腕前は古典技法の達人であり、フォトリアリスティックなまでの写術志向だった。反面、言葉の聞き取りは、水準を少し下回った。
早乙女の特徴的傾向は多くの点で、広汎性発達障害の特徴を示している。対人相互反応の質的障害、意思伝達の著しい異常、またはその発達の障害、活動と興味の範囲の著しい限局性、ということになるが、平たく言うと以下の通りである。
顔色が読めない。
接触を嫌う。
視線を合わせない。
最小限の言葉で話そうとする。
大きな音が嫌い。
急な予定変更が苦手。
食事や、行動のパターン化。
等々だ。葵は自閉症者の看護は初めてだったが、早乙女を見る限り、内気な変わり者、という程度の印象であった。
早乙女は立川で長い間、ソーシャルトレーニングを続けて来たらしく、基本的な生活において意思疎通で困るケースはなかった。だがそれは彼が社会的反応として教え込まれたことであり、それが理解とは繋がっていない。
人間は仕込まれた動物ではない。
理解と自己判断。
この基本的な認識こそ、ヒトが人たるゆえんなのである。葵は、ここ初瀬研で行われる(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)がその突破口となることを祈っていた。
「一也君、頭はきつくない?」
葵はヘッドマウントディスプレイを、早乙女の頭に固定しながらたずねた。
早乙女は少し身じろぎすると微笑んで、
「大丈夫です」
と、答えた。
特別棟の三階奥に、吹き抜け構造になった間取りの治療室があった。天井が高く、患者の不安を煽ることから、他の治療には不向きだった部屋である。
脳の活性エリア記録作業は、ここで行われた。
地上の某有力医療機関から搬入された、最新の体験記録型fMRI装置は、関係者からは(アベックシート)と呼ばれていた。古い映画館の最後尾にあった、カップル席になぞらえてのあだ名である。縦三メートル、横二・五メートルのでか物で、いかにもプロトタイプという黒っぽいデザイン。葵の目には、どうにも悪趣味が過ぎると映った。
処刑台のような物々しさである。
(まるで、電気椅子?)
ところ構わず大小のケーブルが横たわり、足の踏み場もなかった。頭部を覆う業務用ヘアドライヤーのようなカップがスキャニング装置で、強磁場を発生させる超伝導電磁石を内蔵していた。背後に装備されたサーバが、体感映像を創り出すメディア部になっており、(アベックシート)は、それらを統合する検査システムだった。
早乙女は、正面から向かって左側の被験席に着座していた。検査着に着替えた早乙女には、十二誘導心電図の記録法で電極が装着されている。四肢誘導は赤黄黒緑、胸部誘導は赤黄緑茶黒紫の順で貼り付ける。
いわゆる(アケミちゃん国試)の語呂合わせ。葵は、ふと懐かしい看護資格の試験を思い出していた。
早乙女は葵にたずねた。
「今日はどんな映画、ですか?」
葵は微笑んだまま、シートのハーネスをロックした。
「さあね。私も知らないのよ。選ぶのはこの機械で、勝手に選んで私たちに見せるから」
早乙女は葵に身を任せたまま、薄くまぶたを伏せ聞いた。
「洋子さん、楽しみですか?」
葵は小さくうなずいた。
「そうね。あたしも楽しみ」
葵は(アベックシート)の右側に周り、オペレーションピットに座った。ハーネスを付け、コンソールに手を伸ばすと、スリープボタンを解除する。サーバが息を吹き返し、ウィンドウズ系の立ち上げジングルが鳴った。
(一つ昔のOSね)
葵はそんな事を考えながらモニタを読み、キーボードで各種設定を打ち込んで行った。
記録装置の自動制御をクリック。最大記録限界は十五分である。それを過ぎれば自動的にシステムログアウトする設定だった。
(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)の神経細胞群活性連携の仮説は次の通りだ。
自閉症という疾病は、社会や他者とのコミュニケーション能力の発達が遅滞する、先天性の脳機能障害・認知障害である。
人が人と対話するという現象は、単に言葉による通達が相互にやりとりされているだけではない。その言語の示す内容を踏まえ、対峙する相手の表情、音声、動作など、様々なランゲージを状況として捉え、経験によって蓄積された過去の記憶を想起し、比較検討する行いが、対話の本質である。
我々の脳は、これだけの要素を一瞬のうちに、もしくは同時進行で処理している。この働きによって、言語でやりとりされる情報の何倍も複雑な、相手の気性やフィーリングといった、心の機微まで捉えることが可能なのである。
この生理機能を土台に、我々は(他者の行動を推察する)という能力を獲得しているのだ。
人の考えを推察するとは、どういうことか?
それは思いやりであり、いたわりであり、愛情、疑い、憎しみとも関係している。発達障害を抱える人間には、こうした人の心の複雑さが難解なのである。他者が自分とは違う見解を持つ、という想念。この観念を支える脳機能がある。
それがミラーニューロンである。
自らが行動する時と、その行動と同じ行動を他の個体が行っているのを観察している時の両方で、活動電位を発生させる神経細胞だ。この細胞がネットワークを作り、いくつかのパターン毎に活性化のユニットを形作っている。
喜びの活性、悲しみの活性、……それぞれに応じたミラーニューロン群の活性ネットワークを、ナトリウムイオンチャンネルで活動電位が駆け巡ること。それこそが人の情動の基なのではないか。
この仮説を世界中の様々な研究機関が、我先にと答えを求め、日々研鑽を積んでいるのである。現在ではシナプス機構のレセプターチャンネルを繋ぐ、グルタミン酸の研究が主流となっている。
しかし、ここ羽瀬研では、一番の専門分野であるバイオ・ハイブリッド・システム義体の、実際には存在しない失った手足を動かせると感じる脳の特徴的機能を利用した、筋電性システムの触感フィードバックの応用技術でアプローチする方法を模索している。
シナプスに届いた化学信号を樹上突起がシナプス電位に変換しても、その電位が小さいと細胞体で保留され、軸索に繋がる活動電位にエンコードしない。ここでネットワークは途切れてしまう。
これが認知障害の元凶と見ている我々は、受け取った刺激をコンピュータで仲介して、フィードバックシステムで信号コントロールし、断続的にニューロンに活動電位を与える仕組みを考案したのである。
ナトリウムイオンチャンネルの一〇〇〇分の一秒の伝導を、機械システムで補おうというのだ。
この治療法研究のレクチャーを受けた時、葵は一人感激して泣いた。
皆はそんな彼女を笑ったが、葵は、そこに医療者の本分を見ていたのである。(可哀そう)は、医者の語るべき言葉ではない。無責任で、お粗末な共感表現だ。ひょっとすると、感情すらこもっていないかもしれない。
医療者ならば、答えるべくはこうである。
(ご心配なく。私が直してみせます)
天の定め、などない。それを決めるのは、医療者が手を尽くしてからの話である。医者と患者の利害というものは、古くから一致したものだ。最新の技術を使って施術したい医者と、死にたくない患者。この間に医学倫理などという綺麗事は存在しない。
早乙女一也の、聖人のような笑顔から、健常者の言葉がこぼれる。なんと素敵な想像だろう。この療法の確立で、どれほどの家族が喜びを掴むだろう。
葵は多少危険でも、やる価値のある冒険だと思った。助からない命も大勢見てきた。だがここには希望の光がある。
消せない、大事な灯火が。
「さて」
そう呟いて、葵はヘッドマウントディスプレイを被った。鉄仮面のような細いスリットが、一気に視界を狭める。葵は隣の席の早乙女に声を掛けた。
「一也君、今日で何回目だっけ?」
「え?」
戸惑いの返事だ。質問が悪かったか? 葵は、もう一度言い直した。
「これからやるこのテスト、何回目だっけ?」
「二十三回目です」
早乙女の数的記憶は抜群だった。今度は早乙女が葵にたずねて来た。
「洋子さん」
「何?」
「このテスト、僕は何点ですか?」
葵は仮面の奥で微笑んだ。
「これはね、点数が付かないテストなのよ。正解も間違いもないの」
早乙女は首を傾げた。
「僕は、……良くわからない」
「いつも通り見てくれたらいいのよ。それだけ」
「はい」
葵はディスプレイのプリズムレンズの視界に、今日の日付を確認した。二〇二二年、二月七日月曜。午後二時一二分。
「それじゃ、行くわよ」
葵はエンタ・キーを押した。
【映像テストB群306a】
カウント。3、2、1、スタート。
突然、軽い衝撃と共に、葵は空間の中にいた。
リニアPCMの7・1チャンネルサラウンドが、空気感を拾っている。
(音がない、という音)
ディスプレイのプリズムレンズが働き、急に視界が広がって空間を捉えた。
(葵は、部屋の中央に立っている)
ぐるりと辺りを見回すと、自分の頭の高さから見通す、三次元の視界が矛盾なく繋がっていた。
コンピュータによる画像演算処理。だが現実との区別は、ほぼ見分けが付かない。
とてもリアルだ。
気味が悪いのは、自分自身が見えないことだった。この空間で自分は視点という存在であり、実体はなかった。
(葵は部屋を検分する)
アメリカ的なフローリング作りでモダン。中流の少し上、という豊かさだろうか。
黄色味を帯びた温かい光。
キッチンの赤いレンジ。
壁には、デビット・ハミルトンのバレリーナの写真。
声が聞こえた。隣の部屋、男性の声。
(恐る恐る、葵は壁を回り込む)
強制的に視界が限定される。
(画面が切り取られ、ズーム・イン)
(赤いポロシャツの若い男のミディアムショット)
男はテーブルに付き、何やら記録装置に語り掛けている。断片的な言葉から、政治的な意味合いが聞き取れた。
(画面の外で呼び鈴が鳴り、男は苛立たしげに立ち上がる)
フレームは固定され、葵は身動きがとれない。
画面の外で言葉が交わされる。
葵は、その玄関へと繋がる廊下を、回り込みたい衝動に駆られた。だが、フレームはバランスの良いレイアウトのまま固定され、どうすることも出来なかった。これが現実でなく、シミュレーションであることを実感させる瞬間である。
実際回り込んだところで、データが欠落した暗闇が見えるだけだろう。遠くの背景が、単なる壁紙に他ならないのと同じように。
(芝居が始まる)
「突然、どうしたんです?」
「お邪魔だったかしら?」
「いえ、ただ何も聞いていなかったもので」
「あの娘はどこ?」
「今、買い物に出ているんですよ。すぐに戻りますけどね。飲み物でも?」
「紅茶を頂ける? いいかしら?」
フレームに入って来たのは初老の女だった。
「ええ、喜んで」
男は葵の目の前を横切り、キッチンに立った。
(女のクローズアップにカットが切り替わる)
控えめな色調のオリーブグリーンのドレスを着た裕福そうな女。六十がらみの、しかし姿勢の良い、凛とした容貌である。
「素敵な花いけを見つけたのよ。玄関に」
「ほう」
男は気のない調子だ。
「あなたは贅沢と思うでしょうけど、絶対にそんなことないわ。これだけの品は滅多に出ないから」
女は抹茶の緑色をした、小振りな花器を取り出した。
「見事でしょ? 織部なの。気に入るといいけど。ここの玄関のイメージにぴったりだわ」
男は皮肉な笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「玄関にはもう花瓶が置いてありますよ、お義母さん」
「でもクロスを張り替えると、あれではね」
「どうして張り替えるんです?」
女は視線をそらせ、心持ち声を張った。
「そのことについては十分に話し合ったわ」
男はため息を吐く。
「家の模様替えは、タダじゃ出来ないんですよ、お義母さん」
「あなたも承知したはずよ」
「話し合いなんてしてない。いつも、あなたの一方的な命令だ」
(お湯の沸くポットの音が聞こえる)
フェイドアウト。
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