第4話


 翌朝、葵 洋子は職場へ出勤した。

 今朝は各医療施設からの応援要請がないので、普通の時間に、普通に出勤した。十区の藤見坂下、羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所に向かう。葵の本来の活動拠点、ホームグラウンドである。

 自宅のある大島平から二区画ほどなので、葵は自転車で通勤していた。

 (月の王冠)の随所に見られる環境河川(それはステーション内部の、余剰水蒸気を結露させ、コントロールするためのもの)は、両岸が親水公園となっていて眺めがいいし、おまけに路面の敷き詰め材が競技場並みだった。スーパーXの安定した接地感は実に、サイクリングに適しているのである。

 淡いイエローのパーカーにスパッツ姿の葵が、軽快にマウンテンバイクのペダルを踏み込む。  

 季節は二月。

 だが、やや高めに設定された大気温度で、桜並木の蕾が膨らみ始めている。(空)を仰ぐと、興ざめするホログラム映像が見えた。偽物の青空だ。

 今朝の天気は、週間予定通りの快晴だった。

 ここではどんなに陽に当っても、日焼けの心配はなかった。紫外線による悪影響を、注意深く取り除いた光照射が設定されているので、女性の大敵であるメラニン色素との戦いは、ここ(月の王冠)には存在しない。

 コントロールされた人工環境の中、地上との一番の違いは、空中を飛びまわる生き物がいないことだろう。昆虫や小鳥は、空調設備を脅かす危険な存在である。例えフィルターの目詰まりであっても、大事に至る可能性はある。

 スポーツは好きだがアウトドア派でない葵にとって、それはかえって好都合だった。虫は好きじゃない。

 私たちは、クリーンに整備された、絵本の中の住人なのだ。

 葵は、そんな風に考えていた。

 木々が風を切って背後に遠のき、彼女の艶のある黒髪がはためいた。

 水の煌きにマウンテンバイクのスポークが複雑な陰影を描いて行く。

 葵がどんなに坂を下っても、遠く空気散乱に霞む彼方、上向きに傾斜する大地が(空)へと吸い込まれる様は変わらない。それは、ここがスタンフォード・トーラス型宇宙ステーションであることの証だった。


「お早う、諸君!」

 葵 洋子は薄水色のユニフォームに着替え、持ち前の明るい挨拶で、ナースステーションを潜った。あらこちらで、まばらに挨拶が上がる。

 時計を見ると、午前七時三十五分。深夜勤からの申し送りのカンファレンスまで、まだ一時間近くあった。幸先の良い滑り出しだ。

「洋子が朝から空元気だあ」

 近付いて来たのは、同僚の笠原美紀である。彼女も葵と同じく、BM療法士だった。ピンクのスポークフレーム眼鏡を掛けたお下げ髪の可愛娘ちゃんで、今年で二十五歳になる。葵の三つ下の後輩である。

 患者の皆さん、特に若い男性陣には、必要以上の人気があった。

「お早う、美紀」

 葵は最大級の笑顔を見せた。だが笠原は、葵の目の下の隈を見逃さない。

「洋子が元気な日は、しんどかった翌日よね?」

 葵の表情がゆっくりと萎えて行く。それから照れ笑いを浮かべ、肩をすくめた。

「……それを言うなよ、美紀ちゃん」

「やっぱり。ニュースで観たよ、月の事故。昨日のサポート、大変だったんだあ?」

 葵は鼻の頭に皺を寄せ、首を振った。

「もう最悪よ。終わったの十二時過ぎでさ、立ちっぱなしで膝ガクガク。助かったのはたったの九人よ」

「うへー」

 笠原は振り返り、主任BM療法士に声を掛けた。

「吉田先輩も一緒だったんですか?」 

 少し年長の大柄な女が答えた。

「そうよ。東もいたけど」

「東さんは?」

「代休。……だってさ」

 笠原が顔をしかめた。

「何それ? 男は情けないわねー」

「言えてる」

 女たちの乾いた笑い声が立った。

 葵はコンピュータを開いて担当患者のカルテを揃えながら笠原に逆襲した。

「ところで? 三日間の有給を素敵な王子様と過ごした笠原さんの、めくるめくアバンチュールはどうだったの? ……さあさあ、詳細に白状せよ」

 皆の意味ありげな笑いが広がる。

 笠原は照れくさそうにお下げ髪をいじり、ぺろりと舌を出した。

「いやぁー、それがさー。こんな時に不謹慎だと思うんだけど、ほんと、ロシアは楽しかったよー」

 そこで誰かが声を掛けた。

「コーヒー飲む人?」

「はーい」


 午前八時三十分、申し送りのカンファレンスが始まる。

 三交替制のチームナーシングを繋ぐケアの連携で、深夜勤から日勤へ、患者の容態が順次報告される。

 午前九時からの全体回診。続いて各科回診。医師と看護師との間で、患者の自立度や反応を確認する。それらのデータから今後の治療方針が決められるのだ。

 これが終わると各自受け持ち患者のベッドサイドへ行き、医師の指示、輸液や呼吸器の状態を確認。その後は清拭と環境整備、保清の介助。

 ここまでは一般ナースと同様のルーティンである。


 十時に一旦ナースステーションに戻ると、葵は専用のパソコンを立ち上げ、IP回線を使ったビデオパケットに接続した。

 地上の某有力医療機関との連絡作業である。

 精神保健福祉に関わる新規プロジェクトの管理運営は、地上で進められていた。葵たちは現在、自閉症スペクトラム患者に対して、臨床データ収集を行っている。地上では様々な法的障害のある、少々微妙な研究らしく、それゆえに三十八万キロ彼方でのオペレーション作業が必要となった。  

 Webカメラの位置を調整すると、葵は少しばかり髪型を気にしながら、ネットワークに接続した。

「お早うございます。大崎先生。羽瀬研の葵です」

 モニタに開いた小さなウインドウの中、白衣を着た初老の男が映った。プロジェクト担当医、大崎泰明である。

「お早う。今朝も元気そうだね?」

「はい、先生」

 頭頂部まで禿げ上がった五十がらみの大崎医師は、小太りで少し苦しそうな腹をさすりながら椅子を回し、データリンクしたカルテを読んだ。

 葵の方をちらりと振り返ると、

「それは結構。昨晩の事故は、どうだったかね? 君も応援に入ったのだろう?」

「ええ。大変でした」

「ご苦労様。で、場所は?」

「連合医療センターです」

「メンバーは?」

「私と東くん、それと吉田主任です」

 大崎は目を細めた。

「じゃ、今日は皆、お疲れなわけだな」

「いえいえ。そんなことは」

「そうかね?」

「勿論です」

「それは頼もしい。さて……」

 と、呟きながら、大崎はトラックパッドでカーソルを動かした。

「早乙女一也の、ここ一ヶ月のデータを検討している。ミラーニューロン群活性連携の比較試験だが」

「はい」

「fMRIによる脳の活動エリア造影に、特徴的なパターンが三つほど見えてきたよ」

「そうですか。じゃあ、あの(映画療法)は有効だということですね?」

 表情を輝かせる葵に、大崎は苦笑した。

「(映画療法)ねえ。まあ、そうも言えなくはないが。君が言うと何だな、昔の、うつ病治療のようだな」

「でも、それよりはずっと有効なものでしょう?」

 大崎は静かに人差し指を持ち上げた。

「葵君。この検査に治療の要素は含まれていないよ。健常者であるオペレーターと自閉症者が、同様の社会的関係性を体験する時の、脳内活動の比較を記録することが目的だからね」

「そうでした」

 大崎はやや、たしなめるように葵に忠告した。

「君がこのプロジェクトに選ばれた理由は、前に説明しただろう?」

 葵は探るように、記憶の中の言葉を機械的に復唱した。

「(平均的健常者の平均的心理反応の高得点者)だから、……でしたよね?」

 大崎はうなずいた。

「そういうことだ。君は心身ともに健康で、社会性があり、極めて普通であるということだ」

 葵は顔を引き攣らせ、笑った。

「ハハハッ。それって本当に、……褒めてます?」

「勿論だとも。もっと自信を持ってくれたまえ」

「はあ……」

 大崎はデータを眺めながら、しばし沈黙した。一分ほどの静止の後、息を吹き返したように言葉を繋げる。癲癇てんかんみたいな反応だ。

「神経細胞群の活性ネットワークさえ特定出来れば、ナトリウムイオンチャンネルに頼らない外部経路で、信号伝達が可能となる」

 大崎は自分の言葉に満足した。

 葵は軽く目を伏せ、胸中でうそぶく。

(仮説では、ね)

 大崎は一つ咳払いをして、葵にたずねた。

「君は精神科医療の介護経験は少ないのだろう?」

「基本的なガイダンスは学校で」

「なるほど。患者との関係は良好かね?」

「はい」

「プロセスレコードは?」

「全て記録済みです。こちらのメイン・サーバをご覧になれば」

「わかった。転移感情はどうかね?」

「問題ありません」

 大崎は資料に目を通すと、小さくうなずきながら下唇を噛んだ。

「対処に困った場合は速やかに報告してくれたまえ。専門スタッフを介入させ、カンファレンスさせよう。いわゆる……スーパービジョンだな」

「はい」

 大崎はモニタに向かうと、ファイルをドラッグし、葵のアドレスへ転送した。

「それでは、今日のメニューだ」


 葵は大崎医師との打ち合わせを終え、病棟へ戻った。

 羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所は、エックス型の多層建造物で、南西と北東を繋ぐ一棟と、南東と北西を繋ぐ一棟が中央で接続されている。

 葵は一階中央のナースステーションから、北西の特別エリアへ向かった。そこは認知障害を持つ患者のための便宜上、閉鎖病棟としているエリアである。

 去年の秋口より改装が始まり、一月より運営がスタートした。象牙色の真新しい通路には、抗菌性の高い天然成分フィッチンドが使用されていた。森の小道を歩いているような清々しい香気は、それによるものである。

 病棟の改装内容は単なる医療設備に留まらず、豪華な仕様となっていた。オフベージュと淡いウッド、それにライムグリーンで統一された調度は、一昔前のリゾートホテルを思わせる。日当りの良い間取りで、サンルーフを持つグループセラピーのためのアクティビティ・ホールもあった。グランドピアノとマホガニー製のバーカウンター。さながら、洒落たピアノ・ラウンジの風情である。

 午前中のこの時間ともなると、既に何人かの患者が車椅子で運ばれ、療法士によって介助を受けていた。葵は廊下を抜ける途中で、彼らに挨拶した。

 歩調が快活になり、そのうち鼻歌が出てきた。

 葵はいつも、このエリアに来ると心安らぐのだった。主病棟の方は肉体の欠損に苦しみ、苦痛を訴え、人間としての尊厳と戦っている戦場なのである。気休めなケアには用がない。少なくともこの病棟の患者たちは、苦痛を感じていないはず、葵はそう思いたかった。

 抑制はされていても、皆、気持ちよく幸せであって欲しい。


 葵は目的の101号室を覗いた。

 早乙女一也の病室である。葵が担当する、新治療法の第一号被験者であった。彼は十七歳の自閉症スペクトラム患者である。

「一也君、お早う」

 葵の声が空中に放たれ、そして窓から抜けて行くのがわかった。

 部屋は既にモーニングケアで出窓が開けられ、爽やかな外気が流れ込んでいた。束ねられたレースの目隠しが風を含み、パフスリーブのように膨らんでいる。ベッドは整然と整えられて、寝間着もランドリー袋に収まっていた。

 早乙女一也は何事にも几帳面な少年だった。

 相変わらず生真面目ねえ。

 葵は予定通りにベッドから起き出し、無表情に決まり事を片付けて行く少年の姿を思い浮かべ、ほくそ笑んだ。早乙女は朝の九時から院内学級に通っていた。午前中の二時間、教員資格を持つ職員が教鞭を取り、授業を行っている。そろそろ戻った頃と思い、部屋を訪ねたのだが、当の本人がいない。

 めずらしいことたった。

 彼がパターン以外の行動を取るとは、よほどのイレギュラーである。自閉症スペクトラム患者のこだわる行動フォーマットは、実に興味深いものだ。

 例えば、食事もそう。

 今朝は水曜日である。ということは本日のメニューは、トースト、目玉焼き、グレープフルーツジュース。水曜日という日がある限り、その朝食の内容が変わることはない。彼はグレープフルーツジュースが好きではないが、健康のための食事、として変更しないのだそうだ。

 夕方には散歩のメニューもある。その決まりは火曜と木曜である。

「あら、葵さん」

 入口で呼ぶ声がした。振り返ると、淡いピンクの看護着が見えた。専門科病棟のナースだった。ナースは外を指差し、

「王子なら、中庭よ」と、囁いた。

「ありがとうございます」

 葵は軽く会釈をして、アクティビティ・ホールへ後戻りした。


 中庭に通じるフランス窓を抜け、ポーチに降り立ち、芝生の植え込みに足を入れる。 初夏のような陽射が眩しかった。

小さな噴水池には揺れる波紋の下、鑑賞魚がゆったりと泳いでいる。池の周りにはロベリアが植え込まれ、濃い紫の花弁が芝生のグリーンと好対照を成していた。

 中庭の奥には、小振りのアトリウムがあった。

 ドーム型の屋根を四つの柱が支え、その下に小さなベンチを据えている。ステンドグラスを模した透過性の屋根には、蔓を伸ばしたクレマチスがしがみつき、ピンクと薄いブルーの二種類の花を付けていた。

 色硝子から振り注ぐ万華鏡の煌めきの下、少年の姿が見えた。足元で若い猫が伸びをし、灰色の背中を擦り寄せている。

 漆黒の艶のある長髪、品のいい鼻筋、憂いのある切れ長の目元には、長い睫毛が紫の陰影を描いた。微かに微笑んだピンクの頬は、光線を透過し、内側から輝くようであった。まるでルーベンスの肌色である。

 深い鳶色の眼が葵の姿を捉えた。

 少年はそっと猫を抱き上げ、立ち上がった。

 ニャアという鳴き声。

 にっこり微笑むと、少年の背後に後光が差した。

 それは朝の空気の、一瞬の悪戯だったろうか。

 葵は何故だか、イコンに描かれた聖像画を思い浮かべていた。

「お早う、一也君」

 光に目を細めながら葵は、早乙女一也に挨拶した。

「お早う、ございます」

 早乙女は口数が少ない。それでも葵は話し掛けた。ソーシャルトレーニングとして? そうではない。葵はもっと早乙女と話がしたかった。

「めずしいわね、あなたが中庭の散歩なんて」

 早乙女は強張った微笑みを浮かべると言葉を探し、それから猫を見せた。

「猫」

「可愛いわ」

「……見つけたので」

「迷い猫ね」

 葵は早乙女が抱いた猫の頭を撫でた。灰色の猫は迷惑そうに、グリーンとイエローのちぐはぐの目で彼女を睨んだ。その様子が何処か可笑しく、葵は思わず笑ってしまった。

「ハハハッ。愛想ないね、君?」

 早乙女は不思議そうな顔をして、葵を見詰めるとたずねた。

「猫は、何を食べますか?」

「餌をあげたいの?」

 早乙女は爪を噛み、考え込んだ。

「……わからない」

 葵は早乙女のために答えを絞ってやった。

「あげてみれば? おなかが空いてれば食べる。空いてなければ食べない」

「わかりました」

 早乙女はまたもや不安げに首を傾げる。そして、もう一度繰り返した。

「猫は、何を食べますか?」

 葵は早乙女から猫を受け取った。

「そうね、猫って言ったら魚、……もとい、キャットフードに決まってるわね」

 猫は不満そうな声を上げた。

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