第3話


 深夜零時を回って、病棟の通路が節電モードに入った。

 薄暗い青緑色の有機ELパネルが、リノリウムの床に長く映り込んでいる。ポータルのレントゲン、DC(電気的除細動)、ストレッチャーが無造作に放置されていた。

 つい一時間ほど前まで事故搬送の急患で野戦病院の様相であった通路は、すっかり落ち着きを取り戻し、各所で後片付けを始めていた。

 モップを手にした看護師が、点々と床に続く血痕を拭き清めている。洗い出したバケツの水が赤黒く濁る。

 L4連合ステーション日本エリア高度専門医療センターのCCUは、東棟の一階正面に位置していた。

 エレベーター脇に臨時で置かれたスチール椅子が、黙して佇む行軍兵士のように列をなしていた。その暗がりに人影が一つ。前かがみに座り込んだまま、深いため息を吐いた。若い女だった。

 グリーンの手術ガウンと帽子、プラスティックの透明ゴーグルを掛けている。色白で顎の小さい小顔。はっきりとしたアイラインの丸い眼が、少し機嫌の悪いラディ・ソマリにどこか似ている。(それはイギリス原産の猫の話だが、多くの点で彼女には共通点があった)手術用のラテックス手袋は既に外されており、その片方がガウンのポケットからはみ出している。

 女はゴーグルを外すと、眉間をマッサージした。疲労困憊である。彼女の周りには、近寄りがたい鬱とした気配が漂っていた。

 仕事は無事やり遂げた。ミスはない。だが達成感もなかった。

 救命医療最大のお題目が人命救助であるならば、この現場に喜びの場面は少ない。

 女は、じっと自分の指先を見詰め、乾いたような、それでいて熱っぽい両手を擦り合わせた。  

 人は何故、こうも弱い存在なのか。

 BM(biomaterial)療法士、あおい 洋子はそう自問した。

 正午に運び込まれた二十三名の月面作業員重傷患者に対し、彼女はプロテーゼ・アプローチによる蘇生技術者として、羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所から出向していた。同研究所から三名が参加し、約半日、救命ケアとプロテーゼ蘇生に奮闘した。フィードバックシステムは三十人分を用意し、欠損した身体の神経接合、復元を試みた。負傷者二十三名中、一命を取り留めたのは九名のみだ。後の十四名は身体の損壊が五割を越え、二度と息を吹き返すことはなかった。

 公共広告などを通じて、一般に広まっているBM療法の知見とは裏腹に、その蘇生率の実情は驚くほど低いのである。

 葵 洋子は血痕の付いたガウンの裾をぼんやりいじりながら、数時間前の病棟内の喧騒を反芻した。

 目を閉じると、緊迫した医療者の声音が、まざまざと蘇ってくる。


「第四胸椎が変形。下肢は弛緩。脊髄損傷」

「CT、血算、血液型二単位用意」

「神経科医は?」

「君島です」


「第四頸椎以下は麻痺、反射なし」

「脊椎はCTで見るぞ。バイタルが低いな。神経原性ショックだ」

「痛みを取る。モルヒネ五ミリを静注」

「損傷箇所は頸椎、右臀部、骨盤です」

「整形外科医を外傷二号に」

「七号が急変!」

「エピネフリン、一ミリグラム静注」

「硫酸アトロピン、一ミリグラム静注」

「DCの準備を」

 

 葵の脳裏にエピネフリンと硫酸アトロピンが木霊した。

 この半日で何度聞いたことか。次々と起きる患者の心停止への、術中対応を意味する言葉だ。  

 無重力と真空の事故の医療現場には、BM療法士が欠かせない。重度の外傷に対し、先進プロテーゼ法によるバイオ・ハイブリッド・システム義体で、身体の復元という可能性を模索するのである。一般外科の範疇を越える次の領域の防波堤、それがBM療法というものだ。

 しかしながら、先進プロテーゼ法による蘇生にも、様々な問題が指摘されていた。治療途上でフィードバックシステムからの分離時のメンタル・ケアや、バイオ・ハイブリッド・システム義体への移行時の回復トレーニング、ADL(日常生活動作)習得など、患者への負担は驚くほど大きい。治療を断念する者さえいるのである。

 何より、その高価なシステム義体を生涯維持して行くのに、一体どれほどの金額が掛かるのか。一体、誰が援助するのか? 

 不謹慎な話だが、貧乏人は死んだ方がマシ、なのかもしれない。


 葵 洋子は、自分の肩を揺する手に気付いた。はっとして顔を上げると、恰幅のいい年配の婦長が立っていた。彼女は眼鏡を軽く持ち上げた。奥二重の小さな目が、分厚いレンズ越しに光っている。

「遅くまで、ご苦労様」

「ああ、……いいえ。すいません」

 葵は慌てて椅子から立ち上がった。看護医療の現場。……それなりにややこしい女の世界は、ここにもあった。婦長は品定めするように、葵の立ち姿を爪先から順に辿った。

「あなた、羽瀬研からの応援の人でしょ?」

「はい」

 婦長はポケットから小さなプリントアウトを取り出し、葵に渡した。開いてみると自分の名前と数字が羅列している。

「清算はその、……二番目のコードを入力すれば、支払われるわ。ここの事務局のアクセスコードはご存じ?」

「ええ」

 婦長は小さな口元をV字型に持ち上げ、微笑んだ。鼻の下に妙な皺が寄った。

「今日は長丁場だったから、稼げたわね」

「はあ……」

 葵は何か話しを繋げようと胸中を探したが、適当な言葉が見つからなかった。婦長は鼻を鳴らすと、言った。

「あなた、顔色悪いわよ。後はもういいから早く帰ったら? 患者の容態が戻ったら、その時改めて連絡するわ。……次は義体の適合検査だわね」

 そういって婦長は、腰の辺りで右手を一度開いて見せた。どうやらそれが彼女の挨拶らしい。  

 極、短いカンファレンス。

 婦長は薄暗い廊下を進み、ナースステーションへ消えた。


 搬入した専門機材類は、明朝一番で引き取る手配にして、葵 洋子は外部応援者用のロッカーで着替えをすませると、事務局の深夜受付でタクシーを呼んでもらった。立ち続けでがくがくする膝を、タクシーの中へ折り曲げた。

 病院の車寄せを抜け、広い車道に出ると傾斜路に繋がり、丘の裾野が一望出来る。

 銀河のように広がる、都会の街灯りが見えた。

 ホロスクリーンに投影される星空の下、葵を乗せた車は一路、十二区、大島平へ向かった。二十分ほどで、独身者用、低所得者向け高層マンション、カーサ・鏡に到着する。人工的に植林された雑木林が川面に影を落とす、環境河川六号の脇に位置している。四棟並んだうちのC棟、602号が葵 洋子の自宅であった。オートロックの暗証コードを入力し、カードリーダーを通す。

 靴を脱ぎ捨て、鞄を放り出し、ベッドに倒れこんだ。

 朝、飛び起きたままの寝乱れた毛布に顔を埋め、沼地から響く地鳴りのような呻きを漏らした。

「……疲れ、たぁ……」

 独り言が虚ろな部屋に響き、それを聞いて何故だか葵は笑いたくなった。

 あたし、疲れ過ぎ。

 うっすらと目を開けると、雑然とした部屋が見渡せた。間接照明で暖かい黄色味の光に満たされた部屋だった。しかし、そこに人間らしい温もりは感じられない。

 ベッドとテーブル、そして一つきりのクローゼット。

 備え付けの鏡には、覚書きが乱雑に貼り付けてあった。乾燥機から取り出した洗濯物は、そのまま床の上に散らばっている。くしゃくしゃのスポーツブラが、何だか惨めな感じに曲がっていた。テレビと兼用のパーソナルコンピュータは埃を被ったまま、ここしばらく立ち上げた形跡すらない。  

 全然、可愛くない部屋だな。

 葵は毛布の隙間から、嫌悪の眼差しを向けた。

 今朝は何も食べずに飛び出したはずだった。ということは、あのテーブルの上のコンビニ袋と、パスタのプラスティック容器は一昨日からのゴミの山だ。缶ビールの空き缶からこぼれた滴りが、テーブルの上に干からびた輪どりを幾つも描いている。

 嫌だ。オヤジみたい? 駄目人間、女失格。

 もう見たくないと仰向けに転がると、壁に掲げた証書が目に入った。


(一級BM(biomaterial)療法士を命ずる)


 今日の自分を表す、動機、支え、法的根拠。そうしたものだった。

 こんなもの、何でぶら下げてるのかしら? 

 文章は更にこう続いた。


(厚生労働大臣の命により、その名称を用いて、医師の指示の下、生体材料による身体機能復元療法を行うことを業とする者。理学療法士及び作業療法士法・修正第二条に定められた職能)


 である。紛れもない国家資格だ。葵はその免許を手にした時の喜びを、今でも覚えていた。

 卒業式では自分の晴れ姿に泣いた。言うまでもない。うれし涙である。

 人の命を預かる大事な仕事、やりがいのある魂の職業だと思った。そんな自分を誇らしく感じたものだ。

 今だって、そう。

 医者や看護師という向きもあったのだが、そもそも自分の在籍学部がコンピュータ情報処理という理工系の専攻であったため、丁度その頃、もてはやされはじめたBM(biomaterial)療法に関心を持ったのである。

 人の為になり、人から感謝される仕事がしたかった。自分の中のその思いが大きくなり、三年時に迷わず転部した。大学の卒業までに夜学に通って、看護とケアワーカーの免許も併せて取得した。

 最初の就職は、京都の宇治市にある義体メーカーだった。当時最先端の神経埋設型センサーと、触覚フィードバックシステムを導入したバイオ・ハイブリット・システムの研究グループで、自分のシステムエンジニアとしての技能を買われての就職だった。刺激的な職場、収入も破格で十分に満足のいくものだったが、自分の中で療法士という(人の命)と付き合って行く、人道主義を諦めきれなかった。

 宇治から東京の大手町出張所に転属した折りに、思い切って退職した。まだ建設中だった(月の王冠)の、職員募集に応募してみたのだ。

 予感は的中で、(月の王冠)のBM(biomaterial)療法士の採用枠は、引き手数多だったのである。書類選考だけで合格となった。

 そこからの両親の説得には、並々ならぬ忍耐が必要だったわけだが……。

 宇宙に来て三年になる。仕事は順調だった。

 しかし、人命救助を掲げるには、今の我々はあまりに無力だ。

 羽瀬バイオマテリアル・リハビリテーション研究所のベッドは、いつも空きがある。宇宙では病院が満員になるほど助からないという、漫談のくだらないオチのような話。しかし、応援要請はひっきりなしに掛かって来る。我々はフィードバック装置を抱え、蘇生操作をし、死んで行く人々を見送る。

 この繰り返しだった。誰のせいでもない。

 我々人類が宇宙に出るには、まだまだ未熟だということなのだろう。


 葵は暗い天井を見上げた。

 板の隙間から、水が漏れたようなシミが見える。エアコンのドレンから滴っているのかもしれない。手抜き工事だ。

 明日、早速大家に文句だわ。高い家賃払ってるんだから、当然よね。

 と決意するが、そこで葵は、ここが低所得者向け物件であることを思い出す。

 地上の実家のことを思い出した。あのまま家にいて、IT系の企業にでも就職してれば、こんな苦労はなかったかも? ひょっとしたら今頃は、いいお見合いをして、結婚とかしてたかも? 

 だが、そこで葵は頭を振った。

 それは私の道じゃない。今の自分を目指して努力してきたのだから。

 そうよ。

 もっと、自信を持たなきゃ。


 羽瀬研では事業の拡大を目指し、この一月から新しい精神保健福祉へのBMアプローチを試験中だ。地上の某有力医療機関からの要請である。宇宙ステーションという立場の、微妙な法解釈を根拠に始められた事業ゆえ、まだあまり公にはされていない。患者の権利の侵害、という争点を持つためだ。

 精神医療と人権擁護。

 強制か、保護かという(精神保健福祉法)と(医療観察法)が引き合いに出される、古くからの論題である。少なくとも葵の受け持ちとなった少年に、間違ったことはされていない。

 ……とりあえず、今のところは。

 葵は、早乙女一也の笑顔を思い浮かべた。ハンサムな、十七歳の男の子だ。

 思わず頬が緩んだ。

 彼を思うと全身を金縛りしていた疲れも、足元から抜けて行くようだ。葵はこの三年でもっとも前向きな、やりがいを感じるプロジェクトだと感じていた。

 それが、とても嬉しかった。

 葵はうめき声を上げながら、痺れたように動かない肉体を、強引にベッドの上に起こした。理由は二つ。

 一つは毛布の湿っぽさと、もう一つは自分の身体が発する、うんざりするような汗臭さだった。

 このまま寝ちゃったら、もう女じゃないわね……。

 葵は(眠れ)と指令を発する脳に、それを上回る活動電位で拍車を掛けた。その場にジーンズを脱ぎ捨てると、ほっそりとした生足のまま、バスルームに歩いて行った。

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