四人目【午前九時四五分】
家からここまで地下鉄も合わせて三十五分。大丈夫、痛みはない。無理に体重をかけなければ平気。
山根淳はまっすぐ前を見つめながら自分に言い聞かせる。
「おはようございます」
劇場の楽屋口を通り、受付に挨拶した後神棚の下で手を打ち、左に折れる。着登板を見るが、自分の名前はない。わかってはいても一瞬ショックを受ける。
楽屋へは向かわず、プロデューサーが詰める部屋に向かった。
「おはようございます、陣内さん」
「……何で来たの、君」
スタッフと打ち合わせをしていたらしい陣内憲知が振り返って、淳を睨んだ。
「私踊れます」
「君は今日来なくていいって、言ったよね?」
「大丈夫です、踊れます」
「………医者は?」
「行きました」
陣内は、視線を上から下まで何度か往復させた。
「…………着替えて稽古場に。それで踊れるか見よう」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げ、急ぎ足で楽屋へ向かう。
中ホールの楽屋はそう数はない。出演者はほぼ全員が相部屋になっている。自分に割り振られた楽屋で急いでレオタードに着替えて出ていくと、共演者の戸塚貴久とすれ違った。
「あれ、淳ちゃん、大丈夫なの、足」
「戸塚さん、おはようございます。ええまぁ、……ご心配おかけしました」
頭を下げると、そんなのいいから、と戸塚が首を振る。来たばかりのようで、ストローハットを被り荷物を手にしている。
「でも結構な高さから落ちたでしょ? すごく痛そうだったし、ずいぶん腫れてたって聞いたけど?」
心配そうに訊ねる戸塚はこの劇団の古株で、皆が父親か祖父のように慕っている。銀河鉄道の中で、ジョバンニやカムパネルラを見守る灯台守を演じている。重ねた年輪が醸し出す落ち着きと、深みのある演技に定評がある。錨のような存在で、彼が一人いれば芝居が重みを増す。
昨日の事故の現場も彼は舞台の上から見ていた。だから余計に心配してくれているのだろう。
「ありがとうございます、踊れます」
淳はなんとか笑顔を作って、プロデューサーが待ってますから、と戸塚の横をすり抜けた。
シアターアクアには地下に大きな稽古場がある。上階は大ホールと中ホールできっちりと分かれているが、地下の稽古場は出演者なら誰でも使える。鏡張りのダンスレッスン場でステップを確認することも、三畳ほどの防音室でピアノやCDを使って声出しをすることもできる。
ダンスレッスン場でストレッチをしていると、陣内が入ってきた。
「CDはあるか?」
「はい」
汗を拭ってから、陣内の前に立つ。CDコンポに曲を準備した後、陣内は折り畳み椅子に座った。
「……医者は本当に大丈夫だと?」
「………はい」
クーラーはきいているはずなのに、首筋を汗が伝う。
「よし、じゃあ始めろ」
「よろしくおねがいします」
頭を下げて、曲の始まりを待つ。
『いまこそわたれわたり鳥。いまこそわたれわたり鳥』
呼び声が終わると音楽が始まる。いくつもの小さなものが集まってくるように、短い間隔で音階をいくつも駆け昇っていく。宇宙の広大さを知らしめるように、無数の羽ばたきでジョバンニたちを圧倒する。
「空中にざあっと雨のような音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄砲玉のように川の向うの方へ飛んで行くのでした」「美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を実に何万という小さな鳥どもが幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした」、宮沢賢治が描いた情景だ。
渡り鳥のダンスは素早く激しく動かなければならない。体につけた鳥の羽をひらめかせ、本当に羽ばたく鳥のように見えなければならない。
大きく動くと、その分足の踏み込みも強くなる。
「っ」
足首に鋭い痛みが走るが、無視して踊り続ける。
「……やめろ」
ぴ、と音がしてCDコンポが止められる。
「………陣内さん、踊らせてください!」
「だめだ」
「お願いします!」
「君のダンスはうちの劇団が求めるクオリティに達していない」
「本番ではちゃんと…」
「君が一番わかっているはずだ。そんな状態で最後のジャンプができるか? それに、もう武蔵野が来る。君は帰っていい」
「お願いします、今日で最後なんです、だから…!」
「何度も同じことを言わせるな。観客に常に高いクオリティを見せるのが我々の義務だ。それが保てていないなら君を舞台に立たせるわけにはいかない。君くらい踊れる人間はいくらでもいる」
「陣内さん…」
「帰りなさい」
なおも懇願する淳を振り返ることなく、陣内は出ていった。
わかってはいた、それが劇団の方針だし、淳も同じように役を得たこともあった。それでも、この役だけは最後までやりたかった。
劇団に入って三年、ようやく掴んだ大きな役だった。
「渡り鳥のダンス」は、総勢二十人が鳥に扮して踊る。その中でも、彼女の持ち場は渡り鳥たちのリーダー、先頭で引っ張っていく役で、男女問わず「踊れる」人間が抜擢される。
淳はダンスが好きだった。歌は親から折り紙がつくほどの音痴だったし、芝居も上手いとはいえない。それでも、小さい頃からやっていたダンスだけは、人から素晴らしいと褒められた。
入団試験にパスしたのも、踊れるからだ。あと一公演、それさえ務めあげれば、次の公演できっともっといい役をもらえただろうに。
重い心と足取りで、着替えようと楽屋に向かっていると、エレベーターでカムパネルラ役の五十鈴詩織と乗り合わせた。
「…おはようございます、詩織先輩」
「おはよう淳。足もういいの?」
詩織は団員としても先輩だが、淳には大学の先輩でもある。サークルは違ったが、ダンスと演劇、学園祭などで合同で稽古場を借りたり飲み会をしたりもした。
淳を劇団に誘ったのも彼女だった。三つしか違わないのに、もう主役の一人を任されている。伸びやかな歌声と愛嬌のある演技で、ファンも多い。
「………えと……」
問われて淳は返答に困った。急に、足の痛みがひどくなってきた。淳の目に涙が盛り上がる。
「ど、どうしたの、淳?」
「先輩、私…私…」
どうにも止められず、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
「淳…とにかく、私の部屋おいで? ね?」
子供をあやすような口調で言われ、こくりと頷く。涙を拭ってしゃくりあげて鼻をすすって、まともな言葉が出てこない。おまけに足の痛みはもう我慢できないほどになっている。
左足を引きずりながら、エレベーターを降り、詩織の楽屋に入った。詩織はさすがに主役なので一人部屋をもらっている。
ジョバンンとカムパネルラ、本来は少年の役を、今回は女性が演じている。劇団としては男女どちらでもよく、オーディションの結果たまたま女性二人になった。
詩織は椅子を引き出してきて淳を座らせると、冷蔵庫から湿布薬を取り出した。
「この足で踊ったの? あれを?」
「…………はい」
がちがちにテーピングされた足を見るなり、詩織が怒る。
あまりにももっともな怒りに、淳はおとなしく認めるしかない。
詩織は険しい顔でべりべりとテープを剥がしていく。
「淳は頑張る子だけど、こんな無茶してどうするの。踊れなくなるかもしれないのに」
「だって…ひゃっ!」
反論しようとしたところで、冷たい湿布を当てられて、思わず悲鳴をあげる。
「ほら、痛いんじゃない」
「違います、今のはいきなり冷たかったから…」
「強がらないの。腫れてるじゃない。ちゃんと病院行きなさい」
「……昨日行きました」
「もう一度行きなさい。変なふうに筋痛めてたらどうするの」
「…はい」
正論で怒られ、返す言葉もない。
「だって…」
それでも、なおも舞台への未練はある。
「あと一つだったから、やりたくて」
「根性あるのはいいけど、そんな精神論じゃいつか駄目になるわ」
淳の前に膝をつき、テーピングを施す詩織の頭頂を見ながら、淳は小さく溜め息をついた。
詩織が正しいことは、頭ではわかっている。今無理をして今後を駄目にしてしまっては本末転倒なことも。この足では求められるようなダンスはできないことも。
「……でも、足だけなんです、それ以外は」
「バカね」
タオルを顔に投げつけられた。
「タクシー拾って病院行きなさい。ここで自分の役者人生全部駄目にするつもり?」
「…………ごめんなさい」
「…私、声出しに行くから、しばらくゆっくしてなさい」
こみ上げる涙を隠すようにタオルに顔を埋めると、詩織は軽く淳の方に手を置いてから出ていった。
詩織は開演前の準備がある。ウォーミングアップをして、発声をして、化粧をして衣装を付けて。それ以外にも今回の公演では地元の小学生たちに歌を歌わせる。制作の人間が担当しているが、子供たちの緊張をほぐすためにも、詩織は毎朝の子供たちの稽古にはきちんと顔を出している。
その邪魔をしてしまっている。自分の感情で同じ役者の邪魔をしているなんて、プロ失格だ。
「………帰ろう」
少し迷ってからタオルを握りしめ、淳はゆっくりと立ち上がった。
新しいテーピングのおかげか、湿布薬が効いたのか、痛みは先程よりはない。なるべく左足に体重をかけないよう気をつけながら、ゆっくりと廊下を進み、自分の楽屋に戻った。幸いまだ早い時間なので、相部屋の人は誰も来ていない。手早く着替え、急いで楽屋を出た。
「淳ちゃん、帰るのかい」
「あ、戸塚さん、…はい」
目を伏せる淳を、戸塚は痛々しいような目で見ている。
「歩けるかい? 肩を貸そうか?」
「いえ、そんな……大丈夫です」
「せめてエレベーターまで」
すっと身を屈め、有無を言わせず淳の左半身を支える。
「…すみません」
「無理しちゃ駄目だよ、淳ちゃんは人一倍頑張りすぎるから」
「……はい」
戸塚は大先輩で、肩を借りるなんてとんでもないが、ここまでされたら仕方がない。諦めて体重を預け、ひょこひょこと廊下を歩いていく。
「……すみません、お忙しいのに」
「僕はいいんだよ、今日一時間勘違いして早く来ちゃったからね」
ことさら明るく言う戸塚に、けれど恐縮するしかない。
「………陣内に、きついこと言われた?」
「え」
「泣いたみたいだから。言いたくなければいいけど。愚痴くらいなら聞くよ。僕、口は堅い方だから。口は堅く頭は柔らかく、ってね」
おどけるような戸塚の口調に、思わず笑う。
「………戸塚さん、アンサンブルって……代わりはいくらでもいるんですね」
「…うん?」
「『君くらい踊れる人はいくらでもいる』って。わかってはいるけど……やっぱ、きついですね」
また目の奥が熱くなって、慌てて笑い顔を作った。
「あいつ……もうちょっと言葉を選べよ」
反対に戸塚が渋い顔をする。
「でもその通りですから」
淳が弱く言うと、戸塚はしばらく黙り込んだ。
エレベーターの扉の前で、ボタンを押して待つ。
「なにがしあわせかわからないのです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
ふいに、戸塚が言った。劇中の彼の台詞の一つだ。
「…戸塚さん」
「本当を言うと、僕は今の劇団の、使えない役者はすぐに切り捨てるやり方は嫌いだ。昔はもっと一人一人を大事にした。大きな家族みたいにね、お互いを思い合って。時代の変化なのかもしれない。でもただ文句を言ってもどうしようもない。君は毎日七時間も八時間も稽古していた。その努力は、きっと君を助けるはずだ」
ぽん、と音がして、エレベーターの扉が開いた。
扉を押さえ、淳が中に入るのを手伝う。
「だから今は、しっかり休んで、また劇場に戻っておいで」
一階のボタンを押し、戸塚はエレベーターの箱を出て微笑んだ。
「………はい」
淳はただ頷いた。
扉が閉まり、壁に体を預ける。ぽろり、と一つだけ涙がこぼれ、淳は深く息を吐いた。
努力していたことを知っている人がいた。戻っておいでと言われた。その言葉で、折れそうになった気持ちが慰められた、励まされた。
「…先輩にも、メールしないと」
エレベーターを降りて楽屋口に向かう。
自分の名前のない着登板が目に入り、また少しだけへこみそうになるけれど、いいや、と首を振る。
タクシーに乗ったら、詩織にメールをしよう、今日のことを謝って、お礼を言って。そして、きっといつかまた同じ舞台に立つから、と。
文面を考えながら、淳は知らず微笑んでいた。
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