三人目【午前八時一五分】


 東京にバスが着くのが朝の六時半。駅で身支度を整え、早朝からやってるファストフードで朝食を済ませても早すぎる時間になってしまう。

 星原夏希はスマホの画面をタップしながら、所在なげに壁に背を預けた。足下には少し大きめのバッグが一つ。

『おはよーヽ(=´▽`=)ノ』

 顔文字付きの文章が画面に浮かび上がる。

『おはよー。もう着いたよ(*'▽'*)』

『今駅に着いたとこ。もう少し待ってて(^_^;)』

『ごめんね、朝から(;´д`)』

『なっちゃんに会えるんだからいいよd(*'-^*) サヤさんも一緒』

『ありがと、待ってるm(_ _)m』

 駅にいるなら、あと五分ほどか。

 メッセージをしていた相手は、SNSで知り合った同じ趣味の友人で、直接会うのはこれで三回目だ。知っていることは、少し年上の女性で、ハンドルネームが飼っているインコにちなんで「ちゃぴ」、東京まで三十分以内の近郊に住んでいること、仕事は医療関係、そして同じ役者が好き。

 朝早いので、SNSにほかの人間はあまりいない。Twitterでは自動ツイートのbotと、早起きの人と深夜組が入り交じって、それぞれの呟きをこぼしている。

 よく交流する相手に「おやすみなさい」と「おはよう」のメッセージを送りながら、合間に「入り待ちなう」と自分のツイートをする。

 ときおり目の前を人が通っていき、そのたびに顔を上げて相手を確認する。見覚えのない人間でも、劇場の楽屋口に入っていくようなら、姿が見えなくなるまで見送った。

「あ、なっちゃん! おはよー!」

「おはようございます!」

 半ば時間潰しに呟いていると、声をかけられた。

「おはようございます、ちゃぴさん。サヤさんってリアルははじめましてでしたっけ?」

「ですよね、たぶん。いっつもTLで話してるからそんな感じしないけど」

 声をかけてきた女性二人は、片方が落ち着いた紺色のスカートに白いブラウスと日傘、もう片方はブレザーの制服を着ている。

 夏希と「サヤ」と呼ばれた制服姿の女の子が、「はじめまして」と互いに頭を下げ合った。

「なっちゃん、相変わらず荷物少ないね」

「だって日帰りですし。あ、これ大したものじゃないですけど」

 夏希は紙袋から個包装のお菓子を取り出してそれぞれに差し出した。

「いいのに、そんな気を使わなくても」

「せっかくリアルで会うんだから」

「じゃぁお昼は私がおごるね」

 ちゃぴに言われて、夏希は慌てて首を振った。

「いやそんな悪いですよ」

「学生なんだからおとなしく社会人におごられときなさい。あとサヤさんも」

「え、や、私も親から昼食代はもらってますし!」

「いいから気にしない。それにランチならB席代にもならないからね」

 明るく笑うちゃぴに、夏希はつられて笑った。ちなみにB席は四五〇〇円だ。

「でも今日マチネしかないけどよかったの? 遠征なのに」

「そりゃマチソワのほうがいいですけど。ちょうどバイト休みになったし、チケットも見つけたから。B列センターとか、行くしかないじゃないですか」

 演劇業界では、昼公演をフランス語で「昼」を意味するマチネ、夜公演は「夜」を意味するソワレと呼ぶ。マチネとソワレ、略してマチソワ。

「そりゃ確かに」

 大きく頷いてから、ちゃぴは少し首を伸ばして楽屋口のほうを見た。

「で、誰か見た? さすがにまだ来ないか。九時だし」

「そうですね、まだ役者さんは誰も。スタッフさんらしい人は何人か…」

 夏希が「見かけましたけど」と言いかけたとき、角を曲がって誰かがやってきた。薄手のシャツを羽織った若い女性で、髪を頭の高い位置で一つにまとめている。

「あ、山根さんだ」

「役者さん?」

 呟いたちゃびにサヤが訊ねると、ちゃぴはこくりと頷いた。

「隣の中ホールのほうの」

「ああ、『銀河鉄道の夜』やってるんでしたね。ちゃぴさんよく覚えてますね」

「あれ地方公演でしょ、うちの地元にも来たから姪っ子と一緒に見に行ったの」

 そんな話をしている間に、山根という名の女性は三人の目の前を通って楽屋口に入っていった。

「やっぱダンサーさんはスタイルいいですね!」

「彼女注目株だよ。声もいいし。歌は微妙だけど練習すれば…あれ……?」

 ふと表情を曇らせたちゃぴが、ケータイを取り出す。

「なんかちょっと足引きずってませんでした? 気のせいかな」

 夏希が訊ねると、サヤが「そうでした? 顔ばっかり見てました」と明るく言うので苦笑した。

「あ、やっぱり。彼女、昨日怪我したみたい」

「え!」

「うそ!?」

 ちゃぴの言葉に声があがる。

「昨日見た友達からメール来てたんだけど、クライマックスで変なふうに転んだって。そのあとカテコ(カーテンコール)ではちょっと引きずってたって」

「なっちゃんさんすごい、よく気づきましたね」

「いや、なんとなく……でも、出てこれたってことは、そんなひどい怪我じゃなかったのかも」

 そうね、と頷いたちゃぴが、何年か前に見たとある演目で怪我をした役者の話を始めた。かなりの大立ち回りがあり、ダイナミックな動きと洗練された殺陣が魅力の役だった。けれど公演期間終了直前に(「ちょうど今のリチャードと同じくらいの時期」、とちゃぴが付け加えた)、ひどく足をひねってしまった。診断は靭帯断裂で、本当なら立っているのもつらいほどだったらしい。

「でもそのとき、アンダーいなくてね」

 アンダーというのは、アンダースタディ、つまり代役を指す。アメリカやヨーロッパなどの舞台作品では、主役級の人間が怪我や病気その他の事情で舞台に立てないときのために、あらかじめ共演者の中に代役を決めておく。

「でも日本だと、アンサンブルならともかく、プリンシパルは代役っていないんだよね」

 だから、くだんの役者は怪我をしたまま千秋楽まで舞台に立ち続けたという。

「もちろん立ち回りはなるべく足に負担をかけないように工夫してたみたいだけど、そういうのって見てる方もきついよね」

「そうですねぇ…代わりがいないって大変ですね」

「見に行く方もその人を見たいですしね」

 サヤも夏希も頷く。

 そんな話をしている間にも、何人もの人間が目の前を通って入っていく。さらに、少しずつ待つ人も増えていき、顔見知りが来れば小声で挨拶を交わした。

「あ、来た!」

 話しながらもちらちらと遠くを見ていたちゃぴが声をあげた。

「結さん?」

「うん、来た来た」

「え、どれ?」

 ちゃぴに言われて視線の先を探す。ずいぶん離れた先に、こちらへ向かってくる人影が見える。

「あの白いTシャツの人?」

「そうそう」

「よくこの距離でわかりますね、ちゃぴさん」

 豆粒とは言わないが、男女の性差もわかるかどうかという距離で、夏希は感心した。

「そりゃ見慣れてるからねー。私、結さんならシルエットでも足だけでもわかるよ」

 自慢そうに言いつつ、いそいそと紙袋を用意する。夏希も慌てて、渡すために用意しておいた紙袋を手にした。

 近づいてくる人物は、壮年の男で、Tシャツとジーンズを着ている。書類鞄を右手に、大きめの鞄を肩に掛けている。壮年とはいえ、背筋をまっすぐに伸ばしてスタスタと歩く姿は若々しい。

 他の待っていた人たちも彼に気づいたのか、お喋りをやめてじっと同じ方を向いている。

「おはようございます!」

 近づいてきた彼に、待っていた人間の一人が声をかけると、すぐにいくつもの「おはようございます」がわき起こる。

「おはようございまーす」

 満面に笑みを浮かべた男が、彼女たちの前を通っていく。

「あの、結さん!」

 ちゃぴが先に声をかけた。

「あ、おはようございます」

「おはようございます、これ!」

 相手の顔を認めて立ち止まった彼に、一歩前に踏み出して紙袋を差し出した。

「いつもありがとうございます」

 ふんわりと微笑み、軽く首を傾げて受け取り、手を差し出す。ちゃぴが手を握り返すと、彼はそのまま隣にいた夏希にも手を差し出した。一瞬遅れて、夏希は手を握る。

「あ………あの、これ……!」

 手を離されてからようやく左手に持っていた紙袋を思い出し、相手に差し出した。

「ありがとう、名古屋からでしたよね?」

「お、覚えてるんですか…!」

「遠くからありがとうございます」

 にこりと目元をゆるめてから、今度はサヤにも手を差し出す。

「え、え、私も…?」

 目をパチパチさせ、サヤは慌てて手を出した。

「あの、がんばってください!」

 同じように彼を待っていた女性たちが寄ってきて、声をかける。夏希のように差し入れや手紙を渡すものも多い。一人一人に応え、笑顔で握手する。

「あ、あの、…結さん」

「はい」

 ちゃぴが声をかけると、視線は向けずに男が応えた。

「写真いいですか?」

「あー…はい」

 さっと周囲を見回し、一歩下がって腕をおろす。すかさず、ケータイやスマホやデジカメを構えた女性たちがぱしゃぱしゃとシャッター音をさせた。何十ものフラッシュが光った後、「ありがとうございました」と程良いところで切り上げた。

 じゃぁ、と彼が鞄を肩に掛け直し、楽屋口に向かった。いくつもの、がんばってください、や、応援してます、の声が飛ぶ。

「みなさん、ありがとうございます! 盛り上がっていきましょうね!」

 楽屋口で振り返り、全員に手を振ってみせる。おどけた口調にどっと笑いが起きた。

「いってらっしゃーい!」

 期せずして揃った声を受けながら、彼は楽屋口の扉を開けて、最後にもう一度手を振ってから頭を引っ込めた。

「………はぁ、やっぱかっこいい…」

「っていうか可愛い…」

「握手してくれましたよ、私にも」

 夢見心地で扉を見つめる。

「あの人自分のファンじゃなくても握手していってくれるよねー」

「やー、ファンになっちゃいますよあれは!」

 常連もビギナーも等しく頬を赤らめて、先ほどのことを振り返る。

「私のことも覚えてたしね、びっくりした。私まだ三回目ですよ」

 夏希も呆然として呟く。

「結さんてそうなんだよね、ほんといい人すぎ!」

 嬉しそうに夏希の腕をぎゅっと抱きしめてから、ちゃぴがハッとした顔をした。

「どうする? まだ他の人も待つ? 大半入ってないと思うけど」

 訊かれて、夏希とサヤは顔を見合わせた。

 時計は十時過ぎ。

「できれば私は休みたいです」

「そっか、夜行バスだもんね。どっか店入ろうか。暑いし」

 そろそろ真上に昇ってきた太陽がじりじりと肌を焼いている。

 夏希が荷物を取り上げ、三人はその場を離れた。

 劇場近くの喫茶店で昼食をとり、会場時間には三人は劇場に戻っていた。


「サヤさんはどのへん?」

「あ、私G列です。学割で」

「学生はいいよねー私はB席。いっちばん後ろ」

 ちゃぴが羨ましそうにサヤを見る。

「代わります?」

「……いいよ、楽しんで」

 それぞれがチケットを取り出し、半券を切ってもらってロビーへ入る。赤い絨毯の敷かれたロビー内は、パンフレットやグッズ、CDのほかに軽食や飲み物も売っている。

 それに、作品を盛り上げようと、天井からは扮装した登場人物たちの写真を大きなタペストリーにしたものも釣り下がっている。

「今のうちトイレ行く?」

「あ、大丈夫です。パンフ買ってこようかと…」

「サヤさん今日初めてだったんだ」

「二回目ですけど、前は金欠で」

 パンフレットを買い、場内を見て回っているうちに開演十五分前のアナウンスがかかった。

「じゃぁなっちゃん、サヤさん、私二階だからそろそろ上行くね。終演後でいい?」

「はい、じゃぁ終演後に」

「またあとで」

 階段の下で別れ、それぞれの席へと向かった。

 舞台には黒い緞帳が下がり、後方からの投影機で白いイノシシの紋章が大きく浮かび上がっている。

 舞台と客席の間には深い溝があり、オーケストラピットになっている。ウォーミングアップをするオーケストラメンバーの出す音が聞こえてくる。ときおりトランペットが目立つ旋律を奏でたり、スネアドラムが進軍のリズムを刻んだりする。

 五分前のアナウンスまでは、場内でも電波が通じるので、席についてオペラグラスやハンカチを膝の上に出した後、ちゃぴやサヤ、同じ会場にいる人間や、今日は観劇しない友人たちとSNSで言葉を交わし合う。アナウンスのあとは、スマホの電源を落とし、開演まで目を閉じた。

 オーケストラピットに指揮者が現れると音がやみ、一つの音を奏でてチューニングを終えると、客席のざわめきも減り、静まり返る。場内が暗くなり、上からのライトが指揮者を照らし出す。咳払いの音さえ大きく響く静寂の中、指揮者が腕をあげる。

 演奏者たちが一斉に息を吸い、音楽が始まる。

 始まりは高らかなファンファーレ。それとともに緞帳があがり、中世イングランドの光景が広がる。いくらか傾斜した舞台は奥へ行くほど高くなり、石畳のようにも、荒野の大地のようにも見える。

 音楽が戦乱のメロディーに変わると、赤いバラと白いバラをそれぞれの甲冑につけた男たちが左右から入り乱れて武器を交える。

 それぞれの陣営は互いに拮抗していたが、王冠をつけた男と、片足を引きずった男とが剣を交え、そこに二人の男が加わった。三人から責め立てられ、王冠をつけた男がついに膝をつく。次の瞬間、三人の剣が男に突き刺さり、男は息絶える。

 戦っていた男たちのうち一人が彼から王冠を取り上げ、己の頭に被せた。新たに王になった男を人々が称え、そして足を引きずっている男は一人、群衆を離れる。

「今や、我らが不満の冬も、このヨークの太陽輝く栄光の夏となった」

 人々から客席へと視線を移した男が、グロスター公爵リチャードが話しかける。歌うような口調はそのまま音楽に乗り、明るくも侮蔑したようなメロディーになる。

 もうそれだけで夏希は構えたオペラグラスに力がこもり、熱い溜め息をこぼす。

「いかめしいときの声はさんざめく宴の声に、猛々しい進軍は賑々しい踊りに変わった」

 この演目は四回目だが、何度見ても彼の深く豊かな声と表現力に魅了される。友人は彼の声を弦楽器のようだと称するが、彼女は低音の管楽器に似ていると思っている、特に金管楽器。温もりと、無数の音の渦にものみ込まれない力強さがある。

「だが俺ときたらこのありさま、恋もできぬ」

 生まれつき背が曲がり、半身が不自由に生まれたグロスター公爵リチャード。ことさらに見せつけるように萎えた左腕を客席に示し、左足を引きずりながら無人になった舞台の中央に戻っていく。

「口先ばかりの虚飾の時代、色男になれぬこの俺は、悪党になるしかあるまい。そう悪党に!」

 軽快なメロディーで悪巧みを喜々として歌いあげる。満場の拍手が、リチャードを包み込んだ。

 そのままリチャードは、王である長兄と、次兄のクラレンス公爵ジョージを反目させ、ジョージをロンドン塔に入れさせておきながら、次兄本人に向けてはよい弟を演じてみせる。

「何の嫌疑で?」

「私の名がジョージだから」

「それは兄上の罪じゃない。陛下はどういうおつもりなのか、兄さん」

「陛下は占い師を信じたという、Gによって王の世継ぎが絶えると」

 リチャードは兄の境遇を嘆き、王妃が原因だと謗る。

「彼女を『姉さん』とも呼びましょう、兄上のお役に立つなら。実の弟にこの仕打ち、とてもお察しいただけない、胸の痛みを」

 護衛に取り巻かれた兄を抱きしめ嘆く姿は、先程の彼の悪巧みを聞いていた観客でさえもつい涙を誘われてしまう。なにも知らなければきっと、リチャードは本心から次兄のためを思っていると信じ込んでしまうだろう。

 その目に涙が光っているのをオペラグラス越しに見て取り、夏希も息を詰めてしまう。

 けれどロンドン塔へ引き立てられていく兄を見送るリチャードは、冷たい笑いを浮かべた。

「行け、二度と戻らぬ道を。お人好しのクラレンス、大好きだよ、だからすぐに魂を天国へ送ってやろう」

 ぞっとするほど冷たい、憎しみのこもった笑みだった。

 これがグロスター公爵リチャードなのだ。人々には善良で純朴な性質だと思わせておきながら、客席にはその悪性を余すところなく見せつける。観客たちは彼の演技に翻弄される人々より高みに立ちながら、彼の本性に背筋を凍らせる。醜い本性を露呈し、恥じることなく、むしろユーモアにくるんでしまう。

 場面は変わり、今度はヘンリー六世の息子エドワードの妻だったアンを、ヘンリー六世の遺体の前でリチャードが口説き落とすシーンになった。夫と義父を殺されたアンは、文字通り唾棄してリチャードを忌避するが、それもすべてアンの美しさに心奪われてのこと、とリチャードが情熱的なバラードに乗せる。汚らわしい悪魔、オオカミ、クモ、ヒキガエルとまで罵る女の前に膝をつき、彼女の手に短剣を握らせ自ら胸を開いて切っ先を己の左胸に突きつける。

「この剣を、真心こもるこの胸深く収め、君を崇める魂を引きずり出してくれ。死の一撃を受けるべく、こうして慎ましく死を願おう」

 熱っぽく哀切する瞳は濡れ、心からの愛を訴える。アンは憎しみから剣を突き立てようとするが、どうしてもできない。二人の葛藤と駆け引きがテンポの速いレチタティボで進んでいく。

「だめだ、ためらっては。ヘンリー王を殺したのはこの私。だが君の美しさなのだ、私を唆したのは」

 ついにアンが剣を取り落とす。

「さぁ剣を、さもなくば私を」

「白々しい。お前なんか死ねばいいが、この手を汚す気はない」

「では死ねとお命じに」

「もう命じたわ」

「怒りにまかせて。さぁもう一度。君を愛するあまり、君の愛した人を殺したこの手で、君を愛するあまり、真に君を愛する人を殺してみせる。どちらが死ぬのも君のせい」

「お前の本心は」

「言った通り」

「嘘ばかり」

「では男は皆嘘つきに」

「さぁもう剣を収めて」

「では一言、私を赦すと」

「それはいずれ」

「でも希望は?」

「希望は誰もが持つわ」

「どうかこの指輪を」

 立ち上がったリチャードがアンの手を取り指輪をはめる。

「受け取るだけよ」

 言い訳するようなアンの声は弱くかすれている。

 音楽が終わり、リチャードが彼女の手にキスを落とした。

「お別れの挨拶を」

「まだそれは。でもお世辞の言い方は教わったから、もう言ったものと」

 アンと従者が去り、棺を担ぐ男たちも退出すると、リチャードはうっそりと笑う。

「あんなふうに口説かれた女がいたか? こんな気分の時に」

 先程までと同じ旋律でありながら、毒々しく口早に己の成果を誇る。夫と義父を殺した男に陥落した女を嘲る。

「もう忘れたのか、エドワードを? 俺のすべてを集めても爪の垢にも足りない男を? あの女、下を見て俺に目をかけるか、この俺を?」

 浮かされた口調で不敵に歌いあげる。

「奮発して鏡を買おう、それまで太陽よ照らしておくれ、道々見とれるのさ、自分の影に!」

 ポーズを決めて音楽が終わり、暗転した。

 畳みかけるようにリチャードの企みが進んでいく。ストレートの舞台よりも言葉を削ってシーンを取捨選択しているぶん、余計にスピーディーな舞台になっている。息つく間もないというのはこのことだ、と夏希は思う。

 舞台上のリチャードは時に言葉で欺き、時には暗殺者を雇って、王位継承者と邪魔ものを消していく。兄のエドワード王は病死し、その息子は出生に疑問があると人に言わせ、ついには王位を手に入れる。

 敬虔さを装うために司教を側に置き、手には聖書を持って現れたリチャードは、ロンドン市長や息のかかった貴族たちに王に推戴されるが一度は断る。

「王冠へのあらゆる障害がなくとも、私は心貧しく欠点多い。栄光など似合わぬ身。要求には応じられません」

 けれど度重なる懇願についに折れ、王冠を受けることを了承する。

「我が良心にも魂にも逆らうが。皆が私にその重荷を負わせるなら、耐えなければなりますまい」

 リチャードの言葉にファンファーレが鳴り響く。

「イングランド王リチャード万歳!」

「すぐにも戴冠を、最高の喜びとともに!」

 新しい王を称える歓喜の声に紛れて、彼の敵が呪いを歌う。

「すぐにも終わる偽りの王座」

「血塗られた王リチャードに裁きを」

 二つの歌は違う旋律ながら掛け合うように高まっていく。

 そして舞台の中央では、リチャードが王のマントを着せられ、その頭に冠が乗せられる。音楽が最高潮に達したところで、王杖を手に振り返り、その直後に明かりが落ちる。

 舞台の中央に白いイノシシの紋章が現れ、数拍遅れて客席から拍手が起こった。夏希も手が痛くなるほど拍手しながら、最後の瞬間のリチャードの表情を思い出していた。

 すべてを手に入れ、頂点に立ったリチャード。高貴でありながら同時に醜い。美醜相半ばする表情に、どうしても目がすい寄せられる。

 長い拍手が終わり、場内の明かりがつく。休憩のアナウンスが流れると、ほっと空気が緩む。二十五分の休憩時間の表示を見上げ、夏希は席を立った。

 ロビーは食べ物やパンフレットを買い求める客や、トイレに並ぶ列でごった返している。劇場名物の肉まんやサンドイッチの他、演目にあわせたスペシャルドリンクもある。ドリンクは気になるが、学生の夏希には余計なお金を使う余裕はない。家の近くの安い店で買っておいたペットボトルの封を切り、ぬるくなったお茶を飲んだ。

 壁にもたれながら、スマホを起動し前半の感想を呟く。兄の前で善き弟を演じているときの表情、相手を嘲るときの声の調子、独白に見せる彼の本音。思い出すままにつらつらと書き連ねていく。

『アンの手にキスするとこ、すっごく綺麗だった。ほかの役だと相手の手をあんま強く握らないけど、リチャードは逃がさないようにしてるから余計強引でリチャードらしくていい』

『皇太子やヨーク公と話してるときのリチャードがすっごいにこやかでいい叔父さんって感じで、この人子供好きだなーって感じする。どこからどう見ても甥っ子たちのこと大好きに見えるのに、でも独白で一瞬見せる悪意が逆に怖い』

『ヘイスティングスを処刑させるとこ、「私を愛するものたちはついてきてくれ」って言うのが怖い。言葉は穏当なのに声の響きで脅してて、ついてこなかったらお前も同じ目に遭わせるぞ、って、一人一人の顔を見て確認する。あれは逆らえない』

 ぽちぽちと感想を打っていくと、あっという間に時間が過ぎる。「まもなく第二幕が開演します」のアナウンスに慌てて客席に戻った。

 二幕は、戴冠したリチャードが着飾り、王座につくところから始まる。王は側近のバッキンガムに、兄の子を殺すよう示唆するが、バッキンガムは歯切れが悪い。焦れたリチャードは小者に命じて甥たちを殺すよう命じる。

 王国を手に入れてもリチャードの王位は安泰にはならない。

 同じく王家の血を引く若きリッチモンド伯がフランスに渡り挙兵する。リチャードに不満を抱くものたちはこぞって若き反逆者を支え、ついに両者はボズワースにて対峙する。

 決戦の前夜、リチャードの夢に、リチャードのために死んだ亡霊たちが姿を現す。ヘンリー王とその息子エドワード、クラレンス公爵ジョージ、王妃エリザベスの兄や連れ子たち、幼い王子たち、そして王妃アン。亡霊たちは同じメロディーで次々にリチャードを呪い、リッチモンドを言祝ぐ。

「罪に震えて目覚めよ、絶望して死ね!」

「勝利せよ、そして生きて栄えよ!」

 口々に亡霊たちの呪いと祝いが両者にふりかかる。徐々に地響きのような唸るような音が大きくなり、「絶望して死ね」の声が大きくなっていく。

「神よっ!!」

 悲鳴じみた声をあげてリチャードがはね起きた。

 亡霊たちも、リッチモンドの姿も消え失せる。

「…なんだ、夢か」

 震えながら汗を拭い、息を整える。

「臆病な良心め、どこまで俺を苦しめる! 俺は何を恐れている? 自分か? ほかに誰もいない。リチャードはリチャードを愛している。そうさ、俺は俺だ。ああ、俺は俺を愛している、なぜだ? 何か自分にいいことをしてやったか? とんでもない、ああ、俺はむしろ自分が憎い、自分がやったおぞましい所業のせいで! 俺は悪党だ。嘘をつけ、悪党じゃない。馬鹿、自分のことはよく言え。馬鹿、へつらうな」

 その歌はリチャードのまごうことなき本心だった。劇中の人々に見せる聖者のような顔も、敵に見せる悪魔の顔も、観客に見せる露悪的な顔も、そのどれでもない、ただの一個の人間として悩み苦しむ弱さを吐露する。リチャードは泣かない。ただ傷ついた獣のように乾いた吼え声をあげ続ける。

「絶望しかない。俺を愛する者などいない。俺が死んでも、誰一人哀れに思わない。あたりまえだ、この俺自身、自分を哀れになど思わないのだから!」

 喉から血を吐くような、リチャードの渾身の告白に、客席も静まり返る。彼の深い絶望と苦しみが場内を支配する。この曲が、最後の山場だ。

 最後の高音が虚空に消えリチャードが力なく天を仰ぐ。とたん、それまでとは比べものにならないほどの大きな拍手が場内から起こる。

 リチャードは悪人だ、確かに。自分のためだけに多くの人間を殺し、不幸に追いやった。当然許されるものではない。しかしそれでも、悪人としてしか生きられないリチャードの弱さ、醜さの明け透けな告白が人々の胸を打つ。千秋楽まであと六日という事情もあってか、拍手はなかなか鳴りやまない。

 そして夜は明け、戦いが始まる。

「援軍を! ノーフォーク公援軍を!」

 上手袖から現れたリチャード王の腹心ケイツビーが、客席に向かって声を張り上げる。

「王は人間業とは思えぬ驚くべき戦いぶり、敵を次々となぎ倒していますが、馬が殺され、今は徒歩のまま戦い、リッチモンドを死の淵までお捜しです。援軍を、閣下、さもないと敗北です!」

 乱れた軍鼓の音と共にリチャードが現れる。

「馬だ! 馬だ! 王国をくれてやる! 馬をよこせ!」

 血塗れになり、鎧もあちこちが傷ついているが、剣を手から離さず、なおも敵を求めている。

「おひきください、陛下。馬は私が」

「誰が引くか馬鹿者! 投げた賽に命を懸けた、死の目が出ようと俺は引かぬ! 馬だ! 王国をくれてやる! 馬をよこせ!」

 押しとどめようとするケイツビーを振り払う。

 そこにリッチモンドが現れる。片や黒い鎧に身を固めた血みどろの王、片や麗しき白銀の鎧の若武者。

 両者は剣を打ち合い、盾で受け止め、互いの息の根を止めようと死力を尽くす。しかし生まれながらの武人のリチャードに、リッチモンドは及ばない。押され気味になったところを地面の窪みに足を取られ、仰向けに倒れる。

 リチャードが、にやりと顔を歪めて剣を振りかぶる。

 その瞬間。

「陛下!」

 リッチモンドの臣下三人の剣が、リチャードの体を同時に貫く。

「ぁ………ぐ……」

 一瞬何が起こったのかわからないという顔をして、リチャードは自身を貫く剣を見下ろし、リッチモンドの顔に目をやる。

 リチャードの元に駆け寄ろうとしたケイツビーはリッチモンド配下に羽交い締めにされ、身動きがとれない。

「……ぉ……れ、は…」

 王が掠れた声で呻きながら、糸が切れたように片膝をつき、リッチモンドの上に覆い被さる。震える左手で相手の襟首をつかみ、なおもリッチモンドを殺そうと剣を振りあげる。

 リッチモンドの配下がさらに剣を突き刺す。

「が……ぁ…」

 目を見開き、血塗られた剣が地面に落ちる。重力に従って落ちそうになる右腕を、リチャードは懸命にリッチモンドへと伸ばす。血に濡れた指先がリッチモンドの頬を掠め、そのままどさりと体ごと地に伏した。

「リチャードさまぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 取り押さえられたケイツビーが叫んだ。

「………ぁ…」

 はくはくと息を吐きながら、リッチモンドがリチャードの下から身を引き出す。

 家臣たちが、リチャードの額から王冠を取り外した。

 頬についた血を指で拭い、リッチモンドが立ち上がる。目の前で見せつけられた、生と勝利への執着に、混乱している。

「………神と」

 倒れ伏したリチャードを見下ろしながら、リッチモンドが呆然と言葉を紡ぐ。

「諸侯の戦いぶりに誉れあれ。勝利は我らのもの」

 機械的に言い切ってから、一つ息をついた。

「血に飢えた犬は死んだ」

 そう告げた瞬間、リッチモンドは王の顔になる。

「勇敢なるリッチモンド、新たなる国王よ」

「天にまします大いなる神よ、嘉みたまえ!」

 リッチモンドの臣下や兵士たちが新しい王を称える。

「戦死者にはそれぞれの生まれにふさわしい埋葬を。降伏して我が軍に下った者には恩赦を与えると布告せよ」

 居並ぶ兵士たちが膝をついて頭を下げる。

 リッチモンドに王冠が差し出される。

「そして誓約したとおり、ここに白薔薇と赤薔薇を統合しよう」

 受け取った王冠を、自ら額に載せる。

「天よ、この華麗なる結びに微笑みたまえ」

 リッチモンドの祈りに呼応し、人々が歌う。

「にこやかな平和を」「微笑む豊穣を」「麗しき繁栄の日々を」「慈悲深い神よ、謀反人の剣先を鈍らせたまえ」

 死して地に伏せるリチャードを囲むように、人々が大きく円をつくる。その中には、多くの亡霊たちも混じっている。

 リッチモンドが一歩進み出て、歌声がさらに高まった。

「今や内乱の傷口は止まり、平和が蘇った。神もご唱和くださいませ、平和万歳と!」

「平和万歳!」

 音楽が終わり、照明が落ちる。暗闇の中、拍手がわき起こる。

 やがて音楽が始まり、いったん袖へ引っ込んだ役者たちが舞台に再び現れてカーテンコールに応える。男性アンサンブル、女性アンサンブル、そしてプリンシパルたち。それぞれが最も美しい衣裳に着替え、優雅に身を折り客席に挨拶する。それに合わせて音楽も変化する。バッキンガム公、ヘイスティングス、エドワード王、グラレンス公、ケイツビー、そしてリッチモンド。リチャードを取り巻く女性たち、母親のヨーク公爵夫人、ヘンリー王妃マーガレット、エドワード王妃エリザベス、そしてアン。昼公演なので子役たちも出てきて挨拶をする。

 そして全員が中央を空けて舞台奥を振り返る。

 戦装束から戴冠式の時の衣裳に着替えたリチャード役の志水結が、上手袖からゆったりと歩いてくる。もう背を屈めてもいないし、足も引きずっていない。キャスト全員と視線を交わし、舞台の中央で腕を広げ、拍手を浴びる。晴れやかな笑顔は「リチャード」のものではなく、穏やかで優しい彼本来の笑顔。

 まばゆいライトを浴びて拍手に応える彼を、夏希は時間を忘れて大きな拍手を送った。


「あれ見たー!? 最後のとこ! こないだあんなことしてなかった!」

 劇場を出て楽屋口で再び、ちゃぴやサヤと合流する。前方席だったので劇場を出るのが遅くなり、楽屋口に近い場所はもう取られているが、彼を見つけて呼び止めさえすればいいのだからとさほど焦らない。

 朝よりもずっと多い人間が、出演者の帰りを待っている。

「死ぬとこだよね、あれ一昨日もしてなかったよ!」

「ほんと!? リッチモンドの頬触るのですよね?」

「そうそう!」

「やっぱ楽近いし、いろいろ仕掛けてくるね!」

「あーどうして千秋楽私ここに居れないんだろ!」

「楽とかさらにすごいことになるよね!」

 つい今見てきたばかりの芝居を熱く語り合う。

 多少日をおけば演技が変化し、受ける印象も変わる。どこがよかったのか、どう変わったか、互いの見てきたものを確認するように、興奮気味に言葉を交換する。油断すればメロディーが口をついて出てくる。

 朝待つのは単に顔を見たいからだが、終わった後の出待ちは、自分がどれだけ感動したかを、わずかなりとも本人に直接伝えたいからだ。

「なんかさぁ」

 ひとしきり興奮を共有したところで少しだけクールダウンして、夏希はペットボトルを取り出した。夕方にはほど遠い時間、直射日光が当たりじりじりと肌を焼く。上着は羽織っているがそれでも眩しい。

「芝居見てる時って、『生きてる』って感じするよね」

 夏希の言葉に、二人は頷いた。

「あたしさ、親によく『現実的に生きろ』って言われるんだよね。夢の中で生きてるんじゃないって。でもさ、現実のことはわかってるの、でもちゃんと向き合うのってエネルギーいるじゃん。けどお芝居見るとさ、あたしはあたし以上の何かに同調したりできるじゃん」

「だよね、舞台のパワーってとんでもないもんね、特にミュージカルって、音楽もダンスも芝居もあるし」とチャピが頷く。

「それわかります、私も初めてミュージカル見たとき、なんてすごいんだ!って思いましたもん」とサヤ。

「そんでわーって感動して、こうして劇場出てくるとさ、うまくいえないけど、自分の中のもやもやとか行き詰まってたのとか、ぽんと飛び越えてがんばろーって思えるんだよね。現実を生きるために、芝居を見るって言うか」

「もちろんそれだけじゃないけど、それはあるよね」

 ちゃぴがしみじみと頷いたとき、楽屋口付近のほうから「おつかれさまでした!」の声が聞こえてきた。

「あー和田くんだ。彼いっつも早いね」

 視線をやって認めた人影に、夏希は呟いた。

 リッチモンドを演じた和田英斗は、若手の注目株だ。ファンに対しても腰が低く、爽やかな笑顔と音楽大学を出た歌唱力と相まって、デビューしてそう間もないが人気がどんどんあがっている。

 和田目当てではないので、二重になっている人の列の後ろに少し移動する。

「握手したかったらしてもいいんだよ。熱烈なファンじゃないけど握手だけって人もいるし」

「でもそれやってると、もし結さん出てきてたら見逃しそうですし」

「それはある」

 ちゃぴが笑って一緒に移動した。

「え……私どうしよう」

「いいよ、いなよ、サヤさん」

「でも…」

「握手したいんでしょ?」

 年輩二人に言われ、サヤは躊躇いながらも頷いた。

「若いっていいね、女子中学生でしょ、眩しいなぁ」

「ちゃぴさんその言い方おっさんくさい」

 夏希がつっこみを入れ、二人で笑う。

「結さんてさ、すごいよね」

 和田の登場で浮き足立ってる周囲にはあまり聞こえないように、ちゃぴは低い声で呟いた。

「あんだけキャリアあって、いろんな役やれて、歌も上手いし、あの年でダンスもキレがある。だけど本人は『僕なんてまだまだです』って言って、しかもそれが謙遜とかじゃなくちゃんと努力してて、昨日より少しでもよくしようって頑張ってる。あれ見ると、私も負けちゃいられないなって思う」

「わかります」

「才能ある人が努力してるんだから、才能ない自分とかもっと努力しないと、恥ずかしくてあの人の前に立てないなって」

「そうですね」

 二人の前で、サヤが興奮した様子で和田に握手してもらっている。

「あの人見ると頑張らなきゃって思うし、頑張りたいと思える」

「はい」

 楽屋口の方に目をやる。主役の彼は、まだもう少しかかるだろう。いつも少し遅めだ。

 感動を伝えたいと待ちながら、夏希は独特の高揚感にひとつ溜め息を吐いた。

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