二人目【午前八時】


 シアターアクアは比較的新しい劇場だ。開館して十年ほどしかまだ経っていない。

 一五〇〇人収容の大ホールと、一〇〇〇人を収容できる中ホールの二つがあり、ターミナル駅から徒歩五分、地下鉄とのアクセスもいい。

 休む間もなく入れ替わり立ち替わりいくつもの作品が上演され、中には二ヶ月の公演も少なくはない。子供向けから大人向けまで多種多様な芝居だけでなく、ときにはコンサートやバレエ、オペラや海外からの招聘公演も催される。

 劇場の規模も大きければ、中で働く人間も当然多い。役者や劇場スタッフだけでなく、出入りの業者たちまで関係者全員が必ず通る場所がある。

 建物の裏手にある楽屋口だ。

 佐伯あきらは、シアターアクアができてからずっとここの受付で働いている。芝居が好きでこの仕事に就いた。シフトにもよるが、朝早く夜遅いことも多い仕事だが、毎日が楽しい。

 出入りする人は大半がいい人ばかりで、「芸能界」からイメージするようなどろどろした暗い話はほとんど聞かない。もちろん皆無とは言わないけれど。

 早番の時は、呼び鈴を押して守衛に扉を開けてもらう。「おはようございます」と挨拶を交わしあう相手も、もう何年も馴染んだ人ばかりだ。

 入り口を開ける前に軽く受付の中を掃除する。清掃の人がいるのだが、自分の仕事場は簡単にでもやっておかないと、なんとなく朝を迎えた気がしない。

 それから新聞や郵便物を分類し、今日の予定を確認する。

 開演時間が早いともっと早めるが、基本的には九時に入り口を開ける。大道具や小道具、衣装や床山(カツラ)、照明や音響などの舞台スタッフが順次やってくるので、顔を見て挨拶を交わす。舞台スタッフは劇場に専属しているので、演目が変わっても基本的に人は変わらない。

 アクアシアターは、建物の地下二階から地上四階部分までが劇場施設だ。全体では十五階建ての建物で、五階から上は商業施設やオフィスが入っている。そちらの通用口は別になっているので、あきらがいる受付には劇場関係者しか出入りしない。

 大ホール側出演者の一番乗りは志水結だった。「リチャード三世」のタイトルロール。

「おはよう、佐伯さん」

 主役を務めるほどなのに、とても腰が低い。舞台関係者というのは総じて謙虚な人間が多いが、彼は群を抜いているとあきらは思う。

「おはようございます、千秋楽まで頑張ってくださいね」

「ありがとう」

 「リチャード三世」は一ヶ月公演の最後の一週間に入ったところだ。昨日の休演日のあとだから、きっとみんな張り切っていることだろう。

 志水は神棚に手を合わせた後、あきらから見て左手に折れて着登板の自分の札をひっくり返した。

「あ、そうだ、今日知り合いが来ることになってるから、ここに来たら僕の楽屋に案内してね」

「はい、わかりました」

 相手の名前と人数を聞いてメモする。じゃぁね、と小さく手を振って行ってしまった。

 中ホールの出演者は、三日間しかないので顔と名前が一致しない。だから通行証を見せてもらうことになっている。通行証は出演者だけでなく、制作スタッフや役者のマネジャーなどの関係者にも発行されている。

 花屋や出前、公演によってはドライアイスなどを運び入れる業者も出入りするので、開演前の楽屋口は案外忙しい。挨拶だけでいい人もいれば、書類にサインをお願いしなければならない人もいるし、逆に受け取りのサインをしなければならない相手もいる。

 それにときには出演者のファンらしき人もやってきて、手紙や差し入れを預けていくこともある。開場すればロビーでも受け付けているが、それより早い時間だとか、チケットは持っていないけれど渡してほしいから、とか、理由はさまざまだ。

 十一時少し前にはチケット窓口のスタッフが、開演九十分前の正午には場内スタッフが出勤してくる。少し暇になる時間を狙って、預かった差し入れなどをそれぞれの役者の楽屋に届けるのもあきらの仕事だ。ゆっくり休憩できるようになるのは、両方のホールが開演する十四時過ぎだった。

「あーつかれた…」

「おつかれ、コーヒー淹れたけどいる?」

「くださーい」

 警備員の西脇渉が給湯室でドリップしたコーヒーを紙コップに入れて持ってきてくれた。彼はベテランの警備員で、シアターアクアで働く前はどこかの大きな会社の警備員をやっていたらしい。早期定年で辞めざるを得なくなり、再就職でここに来たと、前に言っていた。

「なんだか今日は妙にお客さん多かった?」

「今日英斗くんの誕生日だからって、差し入れも多くて」

「ああ、彼ずいぶん人気出たみたいだねぇ。毎日人が増えてるよ」

 スティックの砂糖を入れながらあきらが愚痴ると、西脇が苦笑した。受付の前を通る人間があれば見逃さないように注意を向け続けているが、コーヒーを飲み少し肩の力を抜く。

「遅くなりました、佐伯さん、お昼行ってきてください」

 制服に着替えた広瀬桜花と交代し、財布と入館証と文庫本だけ持って外に出た。

 午後三時までランチタイムをやっている、いつもの喫茶店に行き、持ってきた本を読む。今読んでいるのはシリーズもののミステリーで、一度ドラマ化もしている。ドラマ化したときの評判は、原作派とドラマ派ではっきりと分かれていた。あきらは出演者のファンではないので、原作の設定からはずれたキャラクター造形には不満があったが、その分新作が出るとその日のうちに買って読むことにしている。

 本当は、今日発売のマンガが読みたいのだけれど、と店に貼ってあるカレンダーを見ながらちらりと思う。『不思議の国のシェイクスピア』は九巻まで出ている少年コミックで、一巻が出たときからのファンだ。シェイクスピアの作品をごたまぜにしたような「不思議の国」に主人公が迷い込み、「悪の王」リチャードによって失われた「神」を見つけだす、というバトルファンタジー。芝居好きにはたまらない展開や台詞がたくさんあり、バトルシーンも迫力があって面白い。

 休憩の合間に買いに行きたいけれど、近くに大きな本屋はないし、駅の本屋まで行っていると食事をする時間がなくなってしまう。だから泣く泣く終業後に買いに行くことにしているが、どうしても続きが気になってそわそわしてしまう。

 九巻は、主人公が死んだかに思われたシーンで終わっていた。ネタバレは見たくない派なので、なるべく情報をシャットアウトしている。

「そりゃ、『エンターテインメントの基本はハッピーエンド』って先生は言ってるけど」

 巻末で作者が書いていた言葉を思い出して呟く。

 時計を見ると、休憩時間はあと十五分ほどで終わりだ。急いで最後の一口を食べて、喫茶店を出た。

「佐伯さんお疲れさまです。さっきこれ返されたんですけど、仕舞うのどこかわかります?」

 戻ったとたん、広瀬に体温計を見せられた。

「ああそれ、倉田先生が借りに来てたやつ。そこの棚の薬箱に入れておいて」

「はーい」

 数年遅れて入社した広瀬は、人懐っこいところがある。あきらに言われた薬箱を下ろして体温計を片づけながら、「誰か具合悪いんですかねぇ」なんて言っている。

「昨日は中ホールで誰か怪我したって言うでしょ、大変ですね、役者さんも」

「そうねぇ…私たちが風邪移さないように、消毒もちゃんとしないと」

 受付口に常備しているアルコール消毒の存在を思い出して、今更とは思いながらも手にスプレーした。

 受付では二つのホールの音声が両方とも聞こえる。どちらも一幕の終わりが近づいているのがわかる。開演時間は違うが、中ホールは上演時間が短いので最終的にはほとんど大ホールの終演に追いついてしまう。

 休憩時間はスタッフが忙しくなる。ロビーではそろそろ売店が準備を始めている頃だろう。受付も、ごくたまに出演者に会いに来る家族や友人などがいるから、遊んではいられない。

 ここを乗り切れば、あとは終演までゆっくりできる。終演したら、十七時で今日は上がることになっている。あと二時間。

 あきらは自分に言い聞かせて、椅子の上で姿勢を正した。


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