楽屋口

@shigechi17

【一人目 午前一一時四五分】


 八月ももう終わりなのにまだ蝉がうるさい。

 外に出た途端襲ってきた熱気に、城島幸弘はうんざりした表情を浮かべて空をちらりと見た。雲一つない空に燦然と輝く太陽は、赤とか金とか黄色とか、そんな生易しいものじゃなく、痛いほどにただ白い。

 すぐに目を伏せて目の奥の黒い残像を追い払っていると、先輩の三波沙和子が階段を下りてきた。

「外は暑いねー」

「ですね」

「お待たせ、やー、あっちーねー」

 声に二人揃って振り返ると、ちょうど山崎勝巳が降りてきた。行こうか、と促されて歩き出す。

 四月に入社してから、ほぼ毎日こうして先輩と昼食に出かけているので慣れたとはいえ、少しまだ緊張する。三波は一つ上の先輩だが、山崎は部長だ。といっても、総勢二十人に満たない弱小出版社で、城島の部はこの三人しかいない。

「山崎さん、新しい喫茶店見つけたって」

「ああ、なかなか雰囲気あるぞ。新しい店なんだが、そう見えない。アンティークな内装で、ああいうの女の子好きだろ」

 毎日会社の近くで昼食ともなれば、だいたい店は決まってくる。いくつかの定食屋や喫茶店をローテーションで回っていたが、今回は道を一本外れた通りにできた新しい店に行こうというのが山崎の提案だった。

 会社周りの地図の詳細がまだ頭に入っていない城島には話を聞いてもすぐには思い浮かべられなかったが、三波はわかったらしい。

「近くに古書店ありましたね。私よく行くんですよ。新しいお店ができたなんて知らなかったな」

 へぇ、と相槌を打ったとき、城島は大きな建物の出入り口に人だかりができていることに気づいた。

「あれ、何すか?」

 城島の視線の先を見遣った山崎と三波が、ああ、と頷く。

「劇場あるんだよあそこ」

「城島君、見たことなかった?」

「へぇ………あー、そういやなんかおっきい劇場ありましたっけ」

 そういえば駅の案内板にもそんなことが書いてあった。

「でもあれって裏口でしょ?」

「裏口っていうか、楽屋口ね。今の時間だと、入ってくる役者を待ってるの。結構多いよ、あそこ」

「そんな有名人来てるんすか!?」

「あー………どうかな。テレビ出るような人がいたり、舞台が中心だけど人気すごいある人がいたり、いろいろだね」

 三波が苦笑しながら言った。

「そんなもんすか…」

「あそこ確か二つホールがあるんだよな、三波」

「ですね、大きい方はたまにジャニーズとかもやってるみたいですよ、見たことはないけど」

 へぇ、とまた唸りながら、城島は人の群を眺めた。

 何十人もが壁沿いに並んでいて、そわそわした様子で隣の人間と話をしている。女性が圧倒的に多いが、案外年齢層は幅広い。髪が白いご婦人から、中学か高校の制服を着た女の子までいる。

「夏休みだけど、今日は平日だからまだ少ないですね」

「これで少ないんすか」

 道の向こう側を歩く城島たちに気づくと、一瞬期待したような眼差しを投げるが、すぐに目を逸らす。

 と、端の方からざわめきが大きくなった。一気に視線が向かう先を振り返ると、黒塗りのワゴン車がやってくるところだった。車は入り口から少し離れたところで止まり、女性たちが黄色い声を上げる。

「……誰?」

「さぁ…」

 誰かが降りてきたのだろうが、車の陰になって城島たちからはよく見えない。思わず立ち止まって見てしまう。

 車の陰から、若い男が出てきた。待っている人たち一人一人に握手をしている。まるで投票日間近の政治家のようだが、握手されるほうの反応はこちらのほうが断然いい。時には話しかける者もいるようで、ときおり立ち止まっては応じている。入り口近くに待っている人たちは、そんな彼の様子を一心に見つめている。目をきらきらさせて、頬を紅潮させて、ただ一人にじっと視線を注いでいる。

「城島くん、行くよ」

「あ、はい」

 三波に促され、慌てて歩き出す。


「すごかったっすねあれ」

 山崎が見つけたという店に入り、冷やされた室温にほっとして席に着きながら、城島はふと呟いた。

 「雰囲気ある」と山崎が言うとおり、大正ロマンを感じさせる木調の落ち着いた風合いの室内で、水の入ったグラスもアンティーク調だ。

「思ったよりうるさくなくて」

「そういえばそうね」

 すりガラスに細かい蔓草模様の入った氷水のグラスを口に運びながら、三波が頷く。

 芸能人が来ているわけだから、もっと騒ぐような気がしていた。でも、来た瞬間こそ黄色い声を上げていたが、そのあとはほとんど静かで、ときおり笑いのようなものがおきているくらいだった。その光景が、想像していた「芸能人とファン」とは違って、少し面食らった。

「普通空港とかでハリウッドスターが来日したりしたらみんなキャーキャー言ってサインしてもらうじゃないですか。ほら、ビートルズが来て暴動みたいになったりとか」

「城島君、ビートルズの来日のとき生まれてないでしょ。私もだけど」

「お前それ感覚で言ってるだろ」

「いやでも、そういうのあるじゃないですか、AKBの握手会とか。男と女じゃ違うのかもしれないけど」

 二人から責められ、城島は慌てて顔の前で手を振った。

「ああいうとこは、それぞれ独特の文化あるからな」

 山崎がメニューを開き、注文を促す。

 メニューを見ながら山崎と三波が話しているのを、城島はぼんやりと眺めていた。


「劇場の表ってあっちでしたっけ」

 行きに見たときの人だかりは、もうなくなっていた。

 お目当てが来たから解散したのだろう。

「そうね、気になるの?」

「いやまぁ、いちお、どんな芝居やってるのかくらいは見ておこうかなと思って」

「そうだな、舞台芸術も一つの文化だ。なにか参考になることもあるだろう」

 山崎が腕時計で時間を確認してから頷いた。

 三人で道を変えて、劇場の表側に回る。そこは人があふれていた。

「もう一時か…開演が近いんだな」

 山崎が一人呟く。

 劇場の入り口は大きなガラス張りになっており、中央にはチケット売場が、左側には中世的な衣装を着て背を曲げた男がこちらを睨む大きな看板が、右側には機関車の描かれたポスターが貼ってある。左側のホール入り口では係員が一人、「シアターアクア大ホール、開場しています」と呼びかけている。駅の方から一人二人と途切れなくやってくる半数以上が、ホールに吸い込まれていく。

 右側のホールはまだ開場前のようで、「開場13:30 開演14:00」と書かれた小さな立て看板が入り口を塞いでいる。

「『リチャード三世』やってるのは知ってたけど、中ホールは『銀河鉄道の夜な』のね」

 三波が呟く。

 そういえば、「リチャード三世」の方は駅で見たことがある看板だ、と城島も思う。

「夏休みだからな」

「そういえば、子供が多いですね」

「ああ、こっちは今日が最終日か」

 ポスターを見ながら山崎が呟く。

「三日間しかしないんですね」

「あっちこっち回ってるみたいだな。ほら」

 山崎が指さす先を見ると、なるほど、いくつかの地名とホールの名前がポスターに書かれている。

「あー、リチャードも今週いっぱいみたい」

 左側の看板を見上げながら、三波が声をあげる。

「三波さん、舞台見るんですか」

「あんま見ないけど、あれだけ人気あるみたいだし、気になるじゃない。これってシェイクスピアよね。ミュージカルかぁ…」

 チケット売場の前にあるラックからチラシを手にしている。黒を基調とした抑えた色彩に、古めかしいヨーロッパ貴族の服装を着た役者たちが配置されている。

「そろそろ帰るか」

 山崎の一言で、三人は会社に戻ることにした。


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