【ヘレナ・フロレスクの日記】
一八八五年一〇月六日
私たち家族をとりまく漠然とした不安に答えを与えてくださるということで、ヘルシング教授が私たちを呼ばれた。
ご高齢なアルミニウス教授と違って、ヘルシング教授はまだお若い。私は最初アルミニウス教授をヘルシング教授と、ヘルシング教授はその助手だと思ってしまったけれど、勘違いは無理もないと思う。ゲオルクが連れてくるのは一人だと思っていたし、アルミニウス教授の方がいかにも大きな大学の教授らしい。
食事を終えた後、大食堂でヘルシング教授が前に立たれた。濡れた髪を乾かしたせいか、黒髪がふわふわとしている。
「諸君、昨夜の襲撃で気づいているものもいるだろうが、我々の敵は人ではない」
兵士たちの前で、教授はまずそう言われた。
「ヴァンパイア、という名称を聞いたことがあるものは? ……ああ、たいていは知っているな。コウモリなどではない、人の形をした、吸血鬼。それが我々の敵の正体だ」
教授のよく通る声が食堂を満たすと、ざわめきが広がったのがわかった。私は夫の様子からそうではないかと疑っていたけれど、改めてそうだと聞くとなんだか胸のあたりが落ち着かない心地がする。
「信じられないと言うなら結構。しかし昨夜君たちを襲ったのは人だったか? 撃たれても立ち上がってきただろう?」
食堂のざわめきが、同意するようなものに変わっていく。
「諸君、奴らの狙いはこの城だ。そしてフロレスク伯、あんたを狙っている。あんたが奴らについて多少なりとも知っていたのは奴にとって計算違いのはず」
教授がまっすぐに夫を見つめる。
「そしてもう一つ。あんたにはつらい話になるが、真実を告げておく。あんたの弟さんは、奴の毒牙にかかっている」
「!」
さすがにこれには驚いて、リヒャルトを見た。急に名指しされ、義弟も驚いている。
「ぼ、僕が? 教授、何かの冗談では…」
「君は覚えていないだけだ。腕を見せてみたまえ」
つかつかと歩み寄り、ヘルシング教授がリヒャルトの腕を掴む。教授がシャツをまくりあげると、そこには二つの傷があった。一見ラドゥのものによく似ている。
「これ…が?」
「君は虫に刺されたのだろうと言っていたが、これはヴァンパイアがつけたものだ」
「そんな、でも僕…」
「君は奴に関する記憶を消されている。眠った後の無意識に奴は語りかけ、君を思い通りに操っていた」
「ヘルシング教授、奴にはそんなことができるんですか?」
「ああできる。意志の弱いものなら眠っていなくても、生きながらにして奴の下僕となることもある。リヒャルトがそうでなくて幸いだった。……それとも今まではその必要がなかったか。そして奴は、リヒャルトを使ってラドゥと、ゲオルク、あんたを亡きものにした後、やつはリヒャルトを葬って彼に成り代わるつもりでいたのだ」
「そんな…」
ああ、だからか、と私は混乱しながらも一方でひどく納得していた。だから教授は、家族全員に寝ずの番をつけろとおっしゃったのだ。襲われないためでなく、襲わせないために。
「奴がリヒャルトを通じてラドゥに毒を与えていた。彼の首の傷はそのときのものです。素人がやるから不自然な傷が残ってしまった」
ラドゥのそれとを見比べてみる。
確かに言われてみれば、注射器でつけたと言われても納得できる傷をしている。
「では、リヒャルトは…」
「昨日から彼には十字架と聖水、聖餅を持たせてある」
リヒャルトがあっと声をあげた。
「じゃぁ昨日くださったのは……急な眠気を感じたら飲みなさいって」
「ああ、そうだ。奴が君を通じて干渉しようとするのを防ぐためだ。だが今となってはもう、奴はそんな遠回りはしないだろう。一か八かで総攻撃を仕掛けてくるか……諦めるか。だが奴が諦めるとは思えない」
ヘルシング教授の言葉に、食堂が静まり返る。
「…どうすべきです、我々は?」
「二つ、方法がある」
訊ねた夫を、ヘルシング教授がじっと凝視した。
「すべての扉と窓を閉ざし、ニンニクと聖なるもので守りを固めるか、危険を承知で奴を罠にかけるか」
「危険、とは?」
「ゲオルク、あんたがエサになる」
「………私が」
「奴の狙いはあんただ。あんたを襲いにきたところをしとめる。ただし」
一度言葉を切って、夫を見つめる。
「失敗すれば、あんたは奴の奴隷になる。どちらをとるかは、よく考えることだ」
言い残し、教授は視線を全員に向けられた。
「諸君、どちらにせよ今夜は交互に寝ずの番をしなければならない。シャトーペール隊長、そちらの手配を頼んでも?」
「ぁ……ああ、任せてください」
「では頼む。あとで来てくれ、警備の詳細を話し合おう。私の話は以上。皆、今夜に備えるように」
そう言うとコートを翻し、ヘルシング教授は出ていかれた。
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