【ゲオルク・フォン・フロレスクの手記】
一八八五年一〇月六日、盗賊団の討伐から一夜明けた。
ヘルシング教授に言われたとおり、家族に寝ずの番をつけた。母や妻も興奮でなかなか寝付けなかったらしい。ヘルシング教授からいただいた薬が効いたのか、ラドゥは落ち着いた様子で寝ていた。
アルミニウス教授やシャトーペール隊長はまんじりともしなかったらしい。
戻ってきた兵士たちのために広間を開放して臨時の病院に当てていたが、医者がいないので応急手当しかできない。闇のものに付けられた傷については、アルミニウス教授が対処してくれた。
夜明けが近づいた頃、アルミニウス教授にヘルシング教授を助けに行くべきではと提案した。
「もう少し日が昇るのを待て」
それがアルミニウス教授の答えだった。
「なぜです、教授は奴らの住処に連れて行かれて…」
「あいつなら平気だ。ロザリオも身につけているし、それに…」
アルミニウス教授が言葉を切った。
「それに、なんです」
「……あいつなら大丈夫だ。奴らの巣窟に飛び込む我々の方が、危険が高い」
「なぜです、なぜヘルシング教授は…」
「…………なぁ、フロレスク伯、ノスフェラトゥというのは、あんたがおとぎ話に聞いたほど単純なものじゃない。だから訊いてくれるな」
「教授…!」
「とにかく、奴は無事だ。私が保証する。日が高くなり、奴らが眠ってから、我々だけで行こう」
「私も同行させてください」
シャトーペール隊長が横から口を挟んだ。
「隊長、あんたは…」
「隊員たちがすべて戻ってこれたのはあなたたちのおかげだ。私にも手伝わせてください」
アルミニウス教授は、しばらく隊長を観察していたようだったが、力強く頷いた。
「わかった。我々の三人だ。それまでに少し寝てなさい。私も仮眠をとろう」
昼近くなってから再び起き出し、装備を調えた。
昼食の後三人で出発し、昨夜ヘルシング教授と分かれた場所に向かった。教授に言われ、狩り用の犬を何頭か連れていった。
先のアルミニウス教授の言葉が気になって仕方がなかったが、教授は訊かれるのを拒んでいるようだった。
呪われたもの、ノスフェラトゥ。ヒトの形をしながらヒトの血を啜り、永遠の闇に生きる哀れな抜け殻。父の蔵書にはそう書かれてあった。血を吸われたものは、そのノスフェラトゥの言いなりになるとも。
いったい、それ以上のなにがあるのだろうか。考えてもわからないのだが、馬上で揺られているとつい考えてしまう。
「フロレスク伯」
シャトーペール隊長が話しかけてくる。
「浮かない顔をしていますね」
「そうですか?」
「ヘルシング教授は大丈夫ですよ」
はっとして彼の顔を見た。
「アルミニウス教授がそう言ったのだから」
「それは……そうでしょうが」
「闇のものは我々の専門外です。悩んでも意味がない。アルミニウス教授は慣れておられる。おそらくヘルシング教授も。きっと我々には思いも寄らないことをご存じなのだ。我々がするべきことは、必要なときに力を発揮することです」
快活に言われ、不意にシャトーペール隊長の言葉がすとんと胸に落ちた気がした。確かにそうなのだ、悩んでいても私にはどうすることもできない。
「ああ、ここだ」
昼なお暗い、とはいえ夜に比べれば遙かに明るい森の中で、シャトーペール隊長が馬を止めた。
下草が踏み荒らされ、よく見れば木の幹に銃弾や血の跡も残っている。アルミニウス教授は馬を下り、猟犬たちにヘルシング教授の毛皮の帽子の匂いを嗅がせた。
「奴は馬でここまで来たからな、ここから先は奴の行き先しかない。うまく匂いが残っているといいが」
我々も馬を下り、猟犬を引くアルミニウス教授から馬の手綱を受け取ってついていった。犬たちは目指すものを見つけたようで、しきりに尾を振りながらぐいぐいと引っ張っていく。
「この猟犬たちは勇敢なようだが」
歩きながらアルミニウス教授が話しかけてこられる。体型に似合わず足が速い。
「明け方だと、どうしても本能的に闇のものを恐れるのだ。馬たちも同様、日が昇ってからでないと捜索には役に立たん」
「だから、日が高く昇ってからと?」
「ああ。それに明け方ではまだ眠っていないものもいる可能性がある」
昨夜の襲撃は宵の口だった。
城に帰りついたとき深夜を回っていなかった。そんな時間帯に奴らの手に囚われたヘルシング教授は本当に無事なのだろうか。私の中の不安は増していくばかりだ。
「安心しなさい、フロレスク伯。例え奴らに噛まれて死んだとて、一晩経たなければヴァンパイアとして蘇ることはない」
「え、…………それではまさか…!」
「だが奴は死んではいないだろうな」
アルミニウス教授の呟くような言葉に、それ以上何も訊けなかった。
犬たちは我々を天然の洞窟の前に導いた。しきりに吠えたてる犬たちをなだめながら、アルミニウス教授はランタンに火をつけるよう言われた。近くの木に馬を繋ぎ、猟犬を連れて中へ入った。
内部は奥へ行くほど広くなっていた。かすかにものの腐ったような匂いがしている。
「ここを巣にしてまだ長くはないようだな」
アルミニウス教授がランタンを掲げながら呟いた。どこかにその痕跡でも見つけたのだろう。
「教授、我々の敵は何者なんです」
「個別名は知らんよ、シャトーペール隊長。だがヴァンパイアの話は聞いたことくらいあるだろう」
「…吸血鬼、ですか」
「闇の中にしか生きられぬもの。生きた屍、一度死んで蘇った死体、永遠の虚無に苦しむ定めの存在。偽りの生を繋ぐためにヒトの生き血を求めてさまよう哀れな生き物」
「なぜ奴らはここに」
「謎解きは私の役目ではないんだがな」
熱心に問うシャトーペール隊長に、アルミニウス教授が苦笑した。ぐいぐいと引っ張る猟犬たちのせいでかなり足早になっている。犬たちはしきりに唸り声をあげながら進んでいる。
だんだんと、腐ったような臭気が強くなっているようだった。
「そろそろか。気をしっかり持てよ。なかなかに衝撃的な光景かもしれんぞ」
教授の声と同時に、犬たちが吠えだした。
ランタンを掲げ、浮かび上がった光景に思わず悲鳴をあげかけた。
「これは……」
シャトーペール隊長も絶句している。
土の壁一面に、人一人が横になれるだけの穴が掘られ、そこにいくつもの遺体が埋まっていた。まるで古代ローマのカタコンベのような光景に、我々は言葉がなかった。
「おいエイブラハム、聞こえているんだろう! どこにいる!」
アルミニウス教授だけは気にした様子もなく、周囲を見回して声をあげている。一瞬、奴らが目覚めるのでは、と緊張したが、死体はいつまでも死体のままだった。
「これは………本当に死んでいるのか」
「ああ、昼の間は死体に戻る。おいエイブラハム!」
教授が声をあげたとき、奥から耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
「ヘルシング教授!?」
「エイブラハム!」
アルミニウス教授が声の方へ駆け出す。遅れて、シャトーペール隊長が、そのあとに私が続いた。
死体たちは二段になった寝床に等間隔で横たわっている。そのすぐそばを走り抜けながら奥を目指した。
ランタンの投げかける光が、黒っぽい人影を捉えた。
「エイブラハム…?」
「遅かったな、ガブリエル」
振り返ったのは、ヘルシング教授だった。しかしその顔や衣服には、夥しい量の血が付いている。
「教授、お怪我を…!」
「ゲオルク、早まるな。私の血ではない」
瞼に垂れてきた緋色を親指の腹で拭い、ヘルシング教授が立ち上がった。
「ご無事でしたか、ヘルシング教授。ここで何を?」
シャトーペール隊長が近寄ってハンカチを差し出す。
「見ての通り、ノスフェラトゥを滅ぼしている。日のあるうちにすべて始末しなければ。君たちも手を貸してくれ。私では力が足りない」
言いながらヘルシング教授が差し出したのは、銀色の尖った杭のようなものだった。我々がそれをどうするのか聞く前に、アルミニウス教授がそれを受け取った。
「諸君、ヴァンパイアどもをすべて、壁の穴から地面の上に引きずり出すのだ」
我々二人は思わず顔を見合わせた。それから、ヘルシング教授に命じられるまま、シャトーペール隊長と二人がかりで、壁のくぼみに横たわるものたちを引きずり出す。どうするのかと見ていると、二人の教授は死体の胸にさきほどの杭を当てた。
「いいか、エイブラハム」
「ああ」
ヘルシング教授が杭を支え、アルミニウス教授がハンマーを振りかぶる。杭が打ち込まれる瞬間思わず目をそらしたが、身の毛もよだつような恐ろしい絶叫が耳をつんざいた。
さきほどの声はこれか。シャトーペール隊長を見ると、彼も苦い顔をしていた。
「フロレスク伯、彼らは生きているのですか? どう見ても死んでいるが…」
「アルミニウス教授が、生きている屍と言っていた。きっとこのことなのでしょう」
「日が落ちると起き上がり、人の血を求めてさまよう…しかしこれは…死んでいる」
隊長の疑問もよくわかる。運び出す死体は恐ろしく冷たく、命の鼓動など微塵も感じられない。さきほど教授たちが杭を突き刺した死体も、これと同じく完全に死んでいた。この作業をすべての死体に対して行わなければならないのか。ぞっとしたが、日が暮れる前にというヘルシング教授の言葉を思い出して急いで次に移った。
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