【ガブリエル・アルミニウス教授の手記】
客室に戻り、エイブラハムが傷の手当てをすると言い出した。痛みはさほどなかったが、シャツが汚れては閉口する、奴の手当を受けることにした。それに、傷の具合を見れば奴も安心するだろう。
「末の弟を疑っているのか」
「疑っている以上だ」
アルコールで湿した脱脂綿を傷口に当てながら、エイブラハムが答える。手つきは丁寧だが容赦しないせいでかなり痛い。文句を言うと自業自得だと言われた。
「まぁ確かに状況としては奴が一番疑わしいが…しかしどうやって」
「あの傷口は目眩ませだ。気づいたか、庭に大麻があった」
「……よくそこまで見ていたな」
「ほかにもチョウセンアサガオ、スズラン、ベラドンナ、リコリス、それにトリカブト」
「おいおい、全部毒草じゃないか」
「誰かが故意に育てているのだ」
「それでいうと、伯爵の母君ということになるが…」
「問題はそこなのだ、ガブリエル。この話の主犯はグロスターだけなのか、さらにリッチモンドがいるのか」
「リッチモンド?」
確か、イギリスの劇作家の作品に出てくる名前だ。兄弟や兄の子を殺し、自分が王位についた男と、その男を倒して新しい王朝を開いた男と。
「これ以上誰がいるというのだ」
「末の弟が企んだとして、なぜ今なのだ? 動機は? どこで毒を手に入れた? …………彼の耳元で囁いた悪魔は何者だ?」
「背後に誰かがいると? 奴の単独犯か……母親が共謀しているのかだろう?」
「だったらいいのだが…」
そこまで話したとき、部屋の扉がノックされた。急いで包帯を巻き上げてもらい、衝立の後ろでシャツを着る。その間にエイブラハムが客を迎え入れた。
この城の人間の聴取が始まり、私は横で奴の尋問を聞いていた。
エイブラハムの尋問は変わっていた。リヒャルトのことだけでなく、この城以外でも近くで変わったことは起きなかったかと訊ねる。そして最後に、賊が出現したのはいつかを訊ねる。
「おいエイブラハム、賊はいくらなんでも関係ないだろう。それともリヒャルトと裏でつながっていると?」
「さぁ」
「いいかげんなにを考えているか言ったらどうだ。人の命がかかっているんだぞ」
「命が危ないのははたして誰か」
奴が呟いたとき、また一つノックがあった。「お入り」の言葉に入ってきたのは、リヒャルト・フロレスクだった。兄によく似た黒髪の、少し気の弱そうな顔をしている。我々二人を見ると、不安そうにきょろきょろとしている。こんなに気弱そうで、人の命を奪うような大それたことができるのだろうか。ふとそんな疑問を抱いた。
「リヒャルト・フロレスク、だな」
「…はい」
「私はエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授。こちらはガブリエル・アルミニウス教授」
名乗ると、リヒャルトの顔がぱっと輝いた。
「伺ってます、お会いできて光栄です」
瞳を輝かせて我々の手を握る。意外な反応にエイブラハムを見たが、奴は厳しい顔でリヒャルトを見ていた。
「でもお二人がいらしたということは……何か怪異があったのですか?」
「…いえ、兄君が、ご子息の病を見てほしいと。こちらはただの付き添いだ」
エイブラハムがことさらに砕けた調子で笑いかけた。リヒャルトが少し不思議そうな顔をした。
「病の原因を特定したいので、こうして話を聞いているのだ」
「そういうものなんですか? 高名な先生になると、診察の仕方も変わってらっしゃるんですね」
「それで、ラドゥ・フロレスクが具合の悪くなった頃、なにか変わったことは? 何でも構わない、天候の変化でも、妙な人物が訪ねてきたとか」
「……いえ、特に変わったことは…そう、それよりは前ですが、いつもは秋に来る旅芸人の一座が、夏に来たことぐらいでしょうか。北の方で流行病があったとかで、早めに逃げてきたのだと言っていました」
「旅芸人の一座。彼らはいつもどこを回る?」
「村を回って、秋祭りには城で芸を見せます。今はビストリッツでテントを張っているはずですよ」
「今年彼らと話を?」
「ええ、多少は。毎年楽しい芝居を見せてくれますから」
リヒャルトはにこにこと答えている。
「それでは、ラドゥが具合を悪くしてから、彼に近づいたことは?」
「いえ、病が移るものではいけないからと兄が」
「君自身、最近目眩や意識が遠くなったことは?」
「大丈夫です。ヨハン兄さんの時は、私も少し…でも今は至って健康です」
「それはよかった。念のために診させてもらっても?」
「ええ、ぜひ」
リヒャルトは快諾し、シャツの前をあける。エイブラハムが彼の首筋に手を当てて脈を診る。表情からは、何かがあったともなかったともわからない。口を開けさせ、瞼を裏返して観察する。
「腕を見せてもらえるか?」
「ええもちろん」
レースのついたシャツの袖をまくりあげる。
左腕を診たときに、エイブラハムが一瞬はっとした。そこには、あの見慣れた傷跡があった。
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