【ゲオルク・フォン・フロレスクの手記】
一八八五年一〇月五日、ビストリッツの駅へヴァン・ヘルシング教授を迎えに行った。到着する時間は電報でもらっていたから、駅のホームで教授にはすぐに会えた。
だいぶ昔の写真で知っているだけだが、教授はほとんど見た目に変化はない。髪は黒々とされているし、相変わらず背をまっすぐに伸ばして、若者よりもよほど若々しい。
「はじめまして、ヴァン・ヘルシング教授。よく来てくださいました」
「君がゲオルク。お父様から聞いている。亡くなられていたとは」
「父が教授を煩わせてはいけないからと。つい二年前です」
教授は小さな医療用の鞄を一つ手にしているだけだった。荷物はこれだけかと訊くともちろんだと言われた。
「馬車を待たせてあります。詳しい話はそこで」
「いや、少し待ってくれ。私の友人も来ることになっている。次の便のはずだから…あと四十分ほどか」
教授が懐から時計を取り出して時間を確認する。しゃらりと細い鎖が垂れて、懐中に入れておくにしては、ずいぶんと鎖の長い銀時計だと思った。
手紙のことを聞くのは友人と合流してからだというので、私たちは駅の食堂に入った。
「その、友人というのは誰なんです?」
「アルミニウス教授だ、お父上から聞き覚えは?」
「アルミニウス……もしかして、プラハ大学の?」
「ああ、そうだ。彼と私は、かつてオーストリア帝国の辺境調査団でこの辺りを踏査したものだった」
「その話なら父から。でもそれなら、もうずいぶん高齢でしょう? 失礼ながら、アルミニウス教授はあなたよりも年が上だと伺っていますが」
遠慮がちに訊ねると、教授がからりと笑った。それまで私は、彼に対してはひどく真面目で厳しい人というイメージを抱いていたものだから、その笑顔には実を言うと少々面食らった。
「ガブリエルは私よりもよほど丈夫だ。あの男が死ぬところを想像する方が難しい」
「そんなに剛胆な方なんですか」
「ああそうだ。昔彼にはずいぶんと助けられた。今回も、きっと力になってくれるだろう」
コーヒーを飲みながら、教授が力強く頷いた。それから私たちは、教授が最近研究しているという新種の熱病の話に移っていった。
けれど私のほうはあまりいい聞き手ではなかったと思う。父から話に聞いていただけの私の英雄が今目の前にいるのだと思うと、なんだかそれだけで頭が呆となったような、不思議な心持ちがした。
どれほど時間を過ごしたか。そろそろだと教授が立ち上がった。
二人でホームに向かうと、一目でそれとわかるほど大柄な男が、ホームできょろきょろとしていた。
「ガブリエル!」
教授もすぐに気づいて手を挙げる。相手の方は、声をかけられたことに気づいてはいたが、教授の姿をなかなか見つけることができなかったらしい。
「ガブリエル・アルミニウス教授!」
私が手を挙げると、ようやくわかったのか、男が人波をかき分けてこちらへやってきた。
「エイブラハム! 二十年ぶりか? ちっとも変わらんな」
「あんたこそ、ちっとも変わらないな。もう少し痩せたかと思っていたのに」
「お前さんこそもう少し太ったらどうだ。早死にしても知らんぞ」
お二人は互いに握手をしあい、軽口を叩きあう。
それからアルミニウス教授は私に顔を向け、手を差し出した。ヘルシング教授の手はたおやかで細いながらも力強い手だったが、アルミニウス教授の手はがっしりとしていて、とても逞しい印象を受けた。
「お父上のことはこいつから聞きました、フロレスク伯爵。知らせてくれてもよかったものを。だがよい後継者をお持ちで、父上もさぞお喜びでしょう」
「ありがとうございます。外に馬車を待たせてあります、どうぞ」
「それで、ゲオルク。本当にあの病の症状なのだな?」
馬車に乗り込むとすぐにヘルシング教授が訊ねられた。
アルミニウス教授も向かいの席に腰を下ろし、こちらを見ている。
私としても早く教授の意見を聞きたかったので、早速話し始めた。
「病にかかったのは、私の上の弟です」
ヘルシング教授が両手を組んで目を閉じ、アルミニウス教授がパイプに火をつけられた。
(以下、参照までにゲオルク・フォン・フロレンスの日記より抜粋)
一八八五年九月一日
(略)
ところで、ヨハンの様子がおかしかった。
夕食の時間青い顔をして、ほとんど残していた。
具合でも悪いのかと訊ねるが、なんでもないという。
早く休むようにと言っておいたが、さきほど部屋の前を通りかかったが、声が聞こえた。
明かりはついていないようだったから、寝言かもしれないが、それにしてはずいぶんとはっきりとした言葉だった。
確か、「マスター」としきりに呼んでいたと思う。
だが彼に主人はいない。
いったいどんな夢を見ていたのだろう。
(略)
一八八五年九月二日
(略)
昨夜のことを訊いてみたが、覚えていないという。
やはり寝言だったのだろう。
けれどヨハンは昨日よりもさらに青ざめている。
医者に見せるべきだろうか。
(略)
一八八五年九月三日
(略)
一八八五年九月四日
(略)
一八八五年九月五日
ヨハンが朝起きてこなかった。
このところずっと具合が悪そうにしていたが、やはり医者を呼ぶべきだろう。
人をやると、今日は忙しいが明日ならという返事があった。
(略)
一八八五年九月六日
(略)
エリオット医師が来た。
ヨハンはとにかくひどく衰弱しているらしい。
原因はよくわからないという。
無理にでも食べさせるようにと言われた。
医者を帰してから、ふと、昔父が言っていた話を思い出した。
人の血を吸う化け物の話だ。
そいつは夜な夜な枕元に忍び寄り、人の血を吸い、ついには死に追いやるという。
まさか、と笑い飛ばそうとしたが、しかしヨハンの弱りようは、話に聞いたとおりだ。
馬鹿馬鹿しいとも思うが、万が一ということもある。
ひとまず今夜は、寝ずの番をしてみよう。
それで何かがわかるかもしれない。
【ゲオルク・フォン・フロレスクの手記】
「それで?」
ヘルシング教授がじっとこちらを見ながら訊ねられる。空よりも青いその瞳にじっと見つめられていると、心にかかっている暗雲を晴らしてくれるのではないかと思えてくるから不思議だ。
「その夜は、なにもありませんでした」
「なにも起こらなかった」
確認するように教授が呟く。
「理由を付けて私の部屋の隣で眠るように言ったのです。そこなら私の部屋から廊下に出ずにいけますから」
「それで?」
「翌朝、ヨハンは珍しく血色のいい顔をしていました。ここで眠ると私がいるから安心できるのかぐっすり眠れる、とも言っていました。それで数日、その部屋に泊めていたのです。私も、念のために父が書斎に残した本や書き付けを探して、あなたの書いたものも読みましたが、きっと本当にただ具合が悪かったのだろうと思い始めました。けれど……」
「弟君は再び悪化し、亡くなった」
驚いて教授の顔を見つめた。その通りだったからではあるが、どうしてまだ言ってもいないのにわかるのだろう。
「そして次の犠牲者が出はじめた。そうだな……今度は弟ではなく、………あんたの妻か、……いや、息子か」
きっと私はよほど阿呆な顔をしていただろう。なぜこうもぴたりと当ててしまえたのか。まさか教授は魔術でも使うのかと、一瞬そんな思いがよぎったのもむべなるかなである。
「……はい、そうです、一週間前、十になる息子のラドゥが…」
「亡くなった弟君に傷は?」
「ありました、首筋に、小さな傷が二つ」
「そしてご子息にも」
「…はい、同じような傷が。それで教授に」
「なるほど」
「おいエイブラハム」
アルミニウス教授が馬車の窓を開け、かつんとパイプの灰を落とした。
「こいつはやはり、奴の仕業じゃないのか?」
「やはり、そう思われますか?」
訊ねると、アルミニウス教授は力強く頷いた。
「ああ、我々の知る奴の手口そのままだ。じわじわとなぶり殺すようなやり口といい、年若いものばかり狙うところといい…」
「ゲオルク、君の弟君は確か二人いたな」
「あ、はい……ヨハンと、その下にリヒャルトが」
「年齢は? ああいや、それよりも、君の城にいる人間の名と年齢をすべて教えてもらおうか」
ヘルシング教授が懐から手帳を取り出された。
意図がよくわからないまま、私は城のものたちの顔を思い浮かべた。
「まず、私が三十五歳、妻のヘレナが二十九歳、母のヨゼフィーネが五十八歳、死んだ弟のヨハンが三十歳、リヒャルトが二十八歳、息子のラドゥが十歳。家族はこれだけです。それから、使用人の年齢は私もきちんと覚えているわけではないのですが、執事のマックスが六十代後半、家政婦長のマダム・シュタイナーがそれより少し若いか、あとは女中や庭男、合わせて十人ほど。庭師のクランじいさん以外は、皆まだ二十代だったはずです」
「なるほど」
ヘルシング教授がメモを取り終え、顎に手を当てた。
「ガブリエル、やはりおかしい」
「どこかだ?」
「もし例の奴なら、三十歳の男よりも先に使用人の方に犠牲者が出るはずだ」
「………それは、そうか」
「それに子供はめったに襲われない」
「しかしラトウィッツの例もある」
「あれは稀な例外だ。犠牲になる大半は、十代後半から二十代。だが今回は当てはまらない」
「では、……違うのですか、アレとは?」
ほかに理由が説明できないのに、敵に一番詳しい人には否定された。
私はすっかり混乱してしまった。
私の混乱を見て取ったのだろう、ヘルシング教授がアルミニウス教授に小さく目配せして、私の方に身を乗り出された。
「なにが原因にせよ、ご子息は我々が守る」
「そうです、フロレスク伯。我々を信用なさってください」
「本当に……息子は、ラドゥは、大丈夫なのでしょうか?」
「安心なさい。我々が組めばまず敵はない。例え人外のものだろうがね」
アルミニウス教授が茶目っ気あるウインクをしてくれた。がっしりした手に肩を掴まれると、なんだかほっとする。
それからは、ヘルシング教授は弟や息子の病について城につくまでいっさい話されることはなかった。
馬車の中では、アルミニウス教授がお孫さんの話をしきりとしていた。ケーニヒスベルク大学に進んだ彼の素晴らしい秀才ぶりを詳述する。なんでも、生物学に才能を発揮し、特にコウモリの研究に熱中しているらしい。
ヘルシング教授の方は聞いているのかいないのか、じっと黙っていらっしゃった。
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