ヴァン・ヘルシング教授の冒険

@shigechi17

【ジャック・スワードの覚え書き】


 難病や奇病に関してヨーロッパ一の権威とされるヴァン・ヘルシング教授の元には、医者から見放された多くの患者たちや、彼を尊敬する医師からあまたの依頼が舞い込む。彼が居を構えるオランダはアムステルダムにとどまらず、国内はもとより、イングランドやフランス、オーストリア、遠くはアフリカ大陸やロシア、アジアや新大陸からも助言を求めてひっきりなしに手紙が届く。

 先生の助手となった僕、ジャック・スワードの毎日の主な仕事は、そんな世界中から届いた教授宛の手紙を仕分けすることだ。病名が書かれてあったり、内容から見当がつけば分類しておくが、中には曖昧な記述や混乱した文章のためにわからないものもある。そういった手紙類は、「分類不能」の箱にまとめて入れておく。

 午前の講義を済ませた先生が研究室に戻ってくるまでの間に、何十通もの手紙を分類し終えて、僕は息をついた。

 懐中時計を開くと、まだ講義が終わるには少し時間がある。時間を確かめてから、「分類不能」に放り込んだ手紙をもう一度手に取る。今度は医学書を開きながら丹念に読んでいく。そうすると、最初はわからなかった病名が、あるときふとわかるときがある。少しでも恩師に余計な手間をかけさせないために、考え考え手紙を読み進めていった。

 そんな中に、その手紙はあった。

「……なんだろう、これ」

 それだけは、何度読んでも意味がとれなかった。症例もなにもなく、ただ「竜の息子が治めた土地の病に苦しんでいます」とだけ。本当に、ただの一文だけしか書かれていない。

「こんな暗号みたいな手紙もらっても、アドバイスのしようがないじゃないか」

 老皇帝の横顔を描いた切手の貼られた封筒をひっくり返し、差出人の名を読む。

「えーと………フロレスク?」

 流麗な文字で書かれた名前は、貴族的な響きだ。そういえば、使われている紙も上質で、中央にはすかしも入っている。光に透かそうと、手紙を窓に向けた。

「剣と……」

「竜の紋章、フロレスクか」

「あ、先生!」

 振り返ると、講義を終えたヴァン・ヘルシング教授がいらした。僕の手から手紙を取り上げる。

「先生、この人をご存じなんですか?」

「ルーマニアの高名な伯爵家だ。以前一度だけ世話になったことがある」

「世話に?」

「ああ。昔の話だ。ほかの手紙は?」

 一瞬遠い目をされたような気がした。

「あ、はい、これです…今日は高熱疾患が多いですね。あと、脳性麻痺と思われる症例が三例。それから、精神疾患が五例に……」

 僕がとっておいたメモを読み上げる合間に先生は手紙に素早く目を通していく。判断した病名で間違っていなければ手紙は箱に戻される。あとは、用意してあるテキストを病名と症状に合わせて返送するだけ、たいていの依頼はこれで片が付く。けれど病名が違っているものは、先生がいちいち訂正して何が間違っていたかを説明される。

 中には実際に診察しなければ診断を下せないものもある。そういうときは、電報があれば電報を、無理なら手紙で質問を送る。急を要するようならその日のうちに列車か船便を手配することもある。でも最近は、先生自らが出向かなければならないようなことは、そう多くはなかった。

 朝のうちに近くの食堂から届いた冷たいサンドイッチをかじりながら、一連の指示を出された。

「あの、先生」

 ひとしきり、手紙の処理がすんだところで、コーヒーを淹れながら思い切って訊いてみた。

「さきほどの手紙は……どういう意味なんですか?」

「フロレスクか?」

 即座に問い返されて頷く。「竜の息子が治めた土地の病」という、もって回った言い方に引っかかった。

「『竜の息子』はルーマニア語を直訳したものだ。あちらの言葉では『ドラキュラ』という」

「ドラキュラ? 人の名前ですか?」

「ああ。トランシルヴァニアを知っているか?」

「………名前だけなら、先生の本で」

「かつてあの地の一部、ワラキアには、人々から『ドラキュラ』と呼ばれた男が治めていた。もっとも、本当にドラゴンの息子だったわけではない。彼の父親が『ドラクル』、つまりドラゴンと呼ばれていた。息子の方の本名はヴラドとも、ヴラディスラウスともいわれている。もう一つのあだ名が、串刺し公ツェペシュ」

「串刺し公?」

「ああ、オスマン=トルコ相手に残虐に戦ったという。フロレスク家ももともと辺境伯だった。その土地にのみ発生する独特の風土病については、君も読んだろう?」

「あ、はい……」

 口頭試問のように問われ、慌てて記憶を探る。

「確か、……貧血によく似た症状と、いくつかのヒステリーを伴う、放っておけば死に至る病、ですよね?」

「ああそうだ。この病は、不定期にこの土地で発生する。ほとんど感染することはないが、まれに大発生し、記録によれば一つの村を滅ぼしたこともある。その時は、およそ百人以上が犠牲になった」

 僕が淹れたコーヒーでサンドイッチを流し込みながら、いとも簡単に恐ろしいことを言ってのける。ぞっとして思わず先生の顔を凝視した。

「本当に、そんな病があるんですか」

「ある」

 きっぱりと断言されなにも言えなくなった。

 僕をちらりと見てから、先生が立ち上がった。

「ビストリッツまで一番早い列車を調べてくれ」

「え………行かれるんですか?」

「ああ。それから電報を頼む」

「でも今日はまだ講義が…」

「すべて断る。この病は、ほかの誰の手にも負えるものではない。それがわかっているからこそ、彼は私に助けを求めたのだ」

 すぐさま休講の手続きを始めることに戸惑いながらも、鉄道年鑑に手を伸ばした。

 僕が学生の頃から、先生の講義はこのように急患によって休講になることも多かった。国外へ出かけて何日も帰らないことも多い。ほかの教授なら、そんなふうにしばしば大学を離れていては顰蹙を買うだろうが、ヴァン・ヘルシング教授にはそれが許されていた。

 教育者であり、研究者である前に、医師として彼は存分に腕を振るっていたし、だからこそ四十にもならない若さで名誉教授という肩書きを持っていらっしゃる。そしてそんな先生だからこそ、多くの者が頼ってきた。

 それにしても、トランシルヴァニアはいささか遠すぎる。「森の彼方の国」の名が示すとおり、文明社会からは遠く隔たった異界ではないか。そんなことを考えながら年鑑をめくった。

 その間先生は簡易医療鞄にアルコールやモルヒネ、その他の薬瓶と手術用具一式を詰めていっていた。

「何時の便がある?」

「一番早いのだと一四時三五分です。アムステルダム駅を出て、…」

「いい、道はわかっている。これを学長に渡しておいてくれ」

「あの…先生」

 さらさらと書かれた書き付けを受け取り、少し言い澱んだ。

「どうした?」

 すでに旅支度を終えた先生が、まだいくつかの書き付けをしながら、顔は上げずに問いかける。癖の強い髪を押さえつけるように暖かい毛皮の帽子をかぶり、いつもとは違う分厚く長いコートを羽織っている。

「…僕も、ついていってはいけませんか?」

 訊ねると、ようやく僕に目を向けた。誠実そうな海色の瞳が、僕をまっすぐに見つめていた。

「………やめておきなさい。君には過酷な旅になる」

「でも、僕の方が若いし、きっと役に立ちます」

 ついていきたくて言い募るが、首を振られた。

「君はあの土地を知らない。また、知る必要もない」

「ですが…」

「私のことなら心配はいらない。一人旅には慣れている」

「僕が先生のおそばにいたいんです!」

「気持ちはありがたいが……もし君を巻き込んでしまったら申し訳ない」

「巻き込む?」

「…君はあの病に耐性がない」

 先生は一瞬ハッとした顔をなさったが、すぐにいつもの笑みを浮かべられた。安心させるような、力強い先生の笑顔は、いつも僕を勇気づけてくれる。けれど今度ばかりは、逆に胸騒ぎが強まるだけだった。

「ですが」

「ジョン」

 強い口調で言われ、思わず口をつぐむ。先生だけが僕を「ジョン」と呼ぶ。親しみを込めての呼称で呼ばれ、僕はそれ以上何も言えなくなる。

「少し長い旅になるかもしれないが、その間勉強を怠らないよう。帰ってきたらレポートを提出したまえ」

「……はい。先生も、気をつけて」

「ああ。机にあるそれは、電報を送っておいてくれ。数が多いが…」

「わかりました。先生もお気をつけて」

「ありがとう」

 穏やかな笑みを浮かべ、先生は講義に行くときと同じ素早い足取りで、部屋を出ていかれた。

 それから長いこと、先生は戻られなかった。


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