グレートルイス フェルナンド編 後編

母の伝言

 フェルナンドの夜の市街を散策していたウーは、長期滞在しているホテルに帰った。

 明日の夜には映画祭が行われるフェルナンドの街はいつもにまして華やかだった。


 今から、明日の夜が待ち遠しくてならなかった。

 レンは明日、一番いい席でウーとの時間を過ごす予定だと言った。

 レンの言葉、雰囲気、身体のなにもかもが心地よかった。彼と毎日会えたらと心の中で願っている自分がいた。


 上昇するエレベーターから部屋の階へと降りた途端、目前に色つき眼鏡をかけたスーツ姿の一人の男が立っていて、ウーは思わず立ち止まった。

 ジミーだ。

 最近、別の男と交代して姿を消していた彼だった。その彼が戻ってきた理由に気付き、ウーは目をつりあがらせた。


「あいつが来たの?」


 鋭い言葉で彼に問う。

 ジミーは応えず、ウーの部屋へと先に歩いてウーを導いた。

 ジミーがドアを開け、部屋に入ったウーの目に飛びこんできたのは、キルケゴールがクローゼットで明日着る予定のドレスを手に取り眺めている姿だった。


「手を離して」


 こちらを見て笑みを浮かべたキルケゴールに、ウーは苦々しげに言った。


「いいドレスだ。……だが、君には過修飾すぎやしないかね」


 淡いオレンジとイエローのシフォンのドレスは膝上丈で可愛らしかったが、胸元のフリル素材はウー自身も気に入らなかった。レンの意見を聞きたかったが、彼はデザイナーにすべてを任せているようなのでウーはあきらめた。


「君が西オルガンで着るはずだったドレスを持ってきた。あのときはあまりにも残念だったからね。映画祭は二日間、行われる。二日目は違うドレスを着たらどうかね?」


 西オルガンでのドレスはウー自身も気に入って覚えていた。

 あのドレスの方が自分が引き立つということも分かる。


「ドレスを持ってきてくれただけ? なら、礼を言うわ。ありがとう。帰って」


 平坦な声の調子でそう述べたウーにキルケゴールは苦笑する。


「あんまりだな。君が私に聞きたいことがあるのではないかと思って来たのに」

「聞きたいことなら何度もあなたに聞いたわ。でも、あなたは答えなかった」


 ウーはとげのある声音で言った。


「爆破事件の真相を聞いたわ。……あなたはあの事件が起こることを前もって知っていたのでしょう? そうよね? あなたは何でも知っているもの。自分だけが助かるように仕向けたのよね」

「君がそう思いたいならそう思ってくれて構わないが」


 キルケゴールは口もとを少々歪めつつ、続ける。


「私は彼の居場所は本当に知らなかった。だから、答えようがなかった。嘘ではないよ。……だが先日、彼に会った」


 ウーは驚いてキルケゴールを見上げた。


「多少、姿が変わっていたが彼は無事だったよ。元気だった、と言っていいんじゃないかな」

「……そう」

「無実だと立証された彼に、私は機会を与えたんだ。だが彼は拒否した。……これから先、故国とは一切関わらずに生きていきたいと、彼は言った。それが彼の選択だったから、私はそれを受け入れた。だから今後の彼の身の安全は私には保障できない。彼は彼で自分なりに生きていくそうだ」

「……」

「君もこれで安心しただろう。彼と私たちはもうこの先関わることはないということだ。これからは、君も自由にしなさい」


 キルケゴールはウーの目が一瞬傷ついたように弱々しくなるのを認めた。

 だがその直後、ウーの唇の端が引き締められ瞳の輝きが強く増すのを見、心の中でほくそ笑む。


「……ところで、噂のベーカー家の彼はどうなんだい? いろいろ話は聞いてるよ。明日の映画祭では彼がエスコートしてくれるんだろう?」


 笑みを浮かべて問いかけるキルケゴールの言葉に、ウーはいらだってにらみつけた。


「ええ。私は彼が……レンが好きだわ」

「それは良かった。彼はこの国の王子のようなものだ。世界中の女性が彼の相手になることを夢見てるはずだ。君はラッキーだと思うよ。彼は君に夢中のようだから」


 わずかにキルケゴールは眉根を寄せた。


「まあ、彼の叔父のブラックは私のことを毛嫌いしているようだから。心配なのはそこかな。さすがに、私のせいで君までとばっちりがいくことはまずないだろうと思うがね」


 キルケゴールは去る素振りを見せた。


「じゃあ、それだけだ。君が知りたいと思うようなことだけは伝えた。明日から存分に楽しみなさい」


 ジミーが待つドアへと向かうキルケゴールの背にウーは声をかけた。


「まって」


 キルケゴールが立ち止り振り返る。


「以前、あなたはあたしになぜ、母はあたしを外に寄越したのかと聞いたわね。……今、答えるわ」


 ウーの灰色の目が父親を見つめる。


「母はあたしに外の世界を見せたかった。それともう一つ、あなたへの言葉を伝える役としても、あたしを寄越したのよ……母から、伝言よ。……『密約書はまだあるわ。いつになったらあなたは戻ってくるの?』……以上よ」


 キルケゴールの表情は変わらなかった。


「何を言っているのかが分からないが」

「……そうね、ごめんなさい」


 ウーは、キルケゴールの傍らに立っているジミーを見やり続けた。


「彼に聞かせるべきじゃなかったわね。……彼に、何もしないわよね?」

「そんなことはしないよ。ジミーは君のお気に入りのようだから。それに彼も分かっているだろう」


 ウーとキルケゴールの視線を受けて、ジミーは答えた。


「おっしゃってる言葉が私には理解できません。申し訳ありません」

「……じゃあ。私は失礼するよ」


 ジミーがドアを開け、キルケゴールが部屋の外に出てジミーも後に続こうとしたとき


「待って。彼を部屋に置いていって」


 ウーは言葉を投げた。

 キルケゴールとジミーは立ち止まり顔を見合わせる。

 キルケゴールが肩をすくめた。


「いいよ。残りなさい。ご指名だ」


 言って、キルケゴールは一人で部屋を出て行った。

 近づいてきたウーにジミーは困惑したように告げる。


「私のことを心配してくださったのですか? それならば不要です。私はいつこの身がどうなろうとも受け入れる覚悟はできておりますので。あなたが気にされることは……」

「違うわよ。そういうことじゃない」


 ウーはジミーの首元に手を伸ばしシャツのボタンを上から外し始めた。


「今、ここで。あなたがいいの」


 ジミーの色つき眼鏡の奥の目は、珍しく見開かれたのかもしれない。

 次の瞬間にはジミーはウーを抱き上げ、背後の壁へと押し付け口づけた。




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