152話 名前
デイーはダイニングテーブルでノートを広げ、ペンを動かしていた。
高い位置に移動した太陽は、部屋の中に光を差し込み、部屋の温度を上昇しつつあった。
テレビの横にある扇風機の回るにぶい音がしていた。
シャツの一番上のボタンを外し、デイーは椅子に座りなおした。
汗で、肘から下の腕に接していた部分のノートはややふやけている。
テーブルに置いてあるガス入りの水のボトルをデイーはとって、口に含んだ。
前に座っている家族(ファミリー)の男は、缶ビールとナッツ片手に横を向いてテレビに見入っていた。
録画の野球中継だった。
家族(ファミリー)には珍しく、グレートルイス人である彼は、赤ら顔をした中年の太った男で砂色の髪は残り少なかった。キエスタ人にはよく分からないが、グレートルイス人にとって野球観戦は人生の一部らしい。
「……コーヒー入れてよ」
けだるげに言いながら、ダイニングにシアンが入ってきた。
「なんだよ、今お目覚めかよ」
デイーはあきれて彼女を見やった。
大きめのパジャマの上だけを羽織った彼女の、のぞいている胸元の肌は白く、裾から出ている両脚は伸びやかだった。
髪には軽く寝癖がついており、シアンは手をやってなでた。
目を細めているデイーの隣に、シアンは座る。
昨夜、ボスがこの家に来て、朝には出て行った。
ボスは家をいくつも持っているらしいが、そのうちのひとつのこの家にデイーと何人かの家族(ファミリー)の男たちは住んでいた。
シアンは、シェリルシティにいる間はこの家に滞在していた。
「ねえ、コーヒー」
「だってよ、デイー」
ナッツを口に放り込みながら、画面から目を離さず太った男が言った。
舌打ちして、デイーは立ち上がる。
「どうせなら、外でバーガーと一緒に買ってきて」
「はあ?」
インスタントコーヒーを準備しようとしていたデイーは声を上げる。
「お願い。そっちの方が、美味しいじゃん」
テーブルに肘をついて顎をのせると、シアンはデイーににっこりと笑った。
「ちげえねえ」
テレビを見ながら、男がハハ、と笑った。
「……出て、右1ブロックのとこだぜ。そのまま行って来いよ」
「ええ! オレ、下なんにも着けてないんだけど。ムリムリ」
……そういうことを言うなってんだよ。
想像しちま……想像しただろうがよ。
デイーは若干顔を赤らめながら、シアンを無視してインスタントコーヒーを用意し始めた。
「お前、なにしてんの」
シアンがデイーの席に広げられたノートとペンを見て聞く。
「お勉強だよ、字のな」
砂色の髪の男が、視線を画面にむけたまま答えた。
「俺、グレートルイス語は読めるけど、書けないんだ」
シアンの前にコーヒーを入れたカップを置き、デイーは再び席に着いた。
「ふーん」
カップの端を口にあて、シアンはコーヒーをすする。
「えらいじゃん。朝から、勉強か」
そう言って、ペンを走らせるのを再開したデイーを見つめる。
しばらく様子を見ていたシアンだったが、
「……お前、力入れ過ぎだな。手首が硬いんだよ」
と、ノートを取り上げた。
「なにすんだよ」
「貸せ」
シアンはデイーからペンを取り上げると、さらさらと書き始めた。
流れるような美しい字に、デイーは目を見張る。
「硬い字を書くやつは嫌いじゃないけど。書いてて疲れるだろ」
ペンを走らせながら、シアンは言う。
「キエスタ文字は直線が多いから、こっちの字はとっつきづらいかもしれないけどな。まあ、字は生まれ持ったもの、ていうのもあるけど、練習次第でいくらかどうでもなるわ」
ほい、とシアンはノートをデイーに返した。
芸術的でさえあるシアンの美しい字は、上から読むと
『デイー、チーズバーガー買ってきて。サイズはL。コールスローとジンジャーエールも。よろしく』
となっていた。
「オレ、字上手いだろ」
微笑んで言うシアンに、デイーはこくりと頷いた。
「こんな感じで書いてみろよ。まず、お前の名前」
自分の名前を書き始めたデイーの右手首を、シアンがたたく。
「だから、硬いって。力抜けよ」
少し間を置いて、デイーはペンを動かした。
「そうそう。そんな感じ。お前、物覚え早いね」
シアンはデイーに身を寄せ、ノートを覗き込む。
「じゃ、ボスの名前だ」
さらさら、とデイーはペンを走らせた。
シャチ、と書いて二人は軽く笑いあう。
「さすがに、オレもまだ本名は知らねえなあ」
シアンが頬杖をつき、つぶやいた。
「次はオレの名前。フル・ネームで」
頷いてゆっくりと丁寧にデイーはペンを運んだ。
線が入った白い紙の上を、ペン先が滑るかすかな音がたつ。
できた。
シアン=メ……。
自分が書き上げた字を見た瞬間、デイーはどきん、と胸が鳴り思わずペンを離した。
「……」
「どうした?」
シアンが自分の顔を覗き込む。
小鹿のような美しい黒い瞳。
「……いや、なんでもない」
デイーは答えると、立ち上がった。
「チーズバーガーと、コールスローとジンジャーエールだな。了解」
「おう。サンキュ」
シアンがにっこりと笑って手を振る。
デイーはダイニングを出て廊下を行くと、玄関から外に出た。
玄関ドアに背をもたれ、目を閉じる。
まいったな。
俺、そこまでかよ。
デイーは目を開けて悲しげに微笑んだ。
ああ、女神ネーデ、冗談でしょう?
……彼女は、ボスのものなのに。
デイーはドアから身を離すと、ジャンクフードの店に向かって歩き出した。
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