106話 先輩
やっと身を離した彼に、シアンは内心ため息をついた。
だめだ。
彼とは相性が合わない。
シャワーを浴びに部屋を出た彼の背中を確認して、シアンはほっとしてベッドサイドの煙草の箱をとった。
カチューシャ市国のゼルダ大使館に勤務する彼の部屋は、それなりに広くていい立地条件にあった。
部屋の中には本や雑貨など物が多かった。
物あり過ぎ。
シアンは、腕をついて顎を支え部屋を見渡す。
それなりに整頓されてるけど。
俺だったら、えらい部屋になってるな。
キース、あいつどうやったらあれだけのものすっきりと整理出来たんだろう。そう考えると、あいつやっぱりすげえな。
この部屋の持ち主、マシューはシアンのドミトリー時代の先輩だ。
バートリー寄宿学校の五つ上の先輩。
彼のことは嫌いだった。
彼が卒業したとき、シアンは全身が脱力するぐらい安堵した。
マシューは生まれつき性欲が強かったのだと思う。
ドミトリー時代、彼から相当精神的苦痛を受けた。
今なら、あの年頃の彼の気持ちが分かる。
彼から受けた事は今の自分なら笑い飛ばせるような些細な事ばかりだけれど。
それでも、思春期だったオレにとっては結構辛かったわけですよ、マシュー先輩。
彼が浴びるシャワーの音を聞きながら、シアンは煙草をふかした。
キース。
あいつ、普段鈍いくせにそういう事は感づくんだよなあ。
ごろん、と仰向けになってシアンは両手を天井にかざす。
シアンは何も言わなかったし、キースも何も聞かなかった。
でもキースは、間接的に何度もマシューからシアンを守った。
おかげでキースはかなり、マシューからキツく当たられてた。
キースが就職してからは、更にマシューは彼のことを嫌いになっただろう。
同じ外務局に入ってきたキースは、一足飛びに彼を差し置いてキルケゴールの下に就いたから。
シャワーの音がやみ、彼が浴室から出てくる気配がした。
彼とは相性の良し悪しじゃなく、多分オレのトラウマの問題だな。
……オレも、まだまだ修行が足りないね。
シアンは煙草を消すと、出てきた彼に向かってにっこりと笑いかけた。
「……お前がいるなら、本土も捨てたもんじゃないな」
マシューは髪を拭きながら言うとベッドに乗り、シアンを見下ろした。
亜麻色の髪はわずかに癖があり、赤みがある頬の上の目は、淡い水色だ。
「いずれ、お前が帰国するのが惜しいよ」
「……なら、オレがこの国にずっといられるようにしてくれればいいじゃないですか、先輩」
シアンは彼の身体から落ちる雫を冷てえよ、と思いながら彼の首に手を回す。
「そうだな、お前が俺の相手をその時もしてくれるんならな」
マシューは言ってシアンの首すじに唇を這わせた。
またかよ。
シアンはかすかに顔をしかめる。
「お前が女の服着てるの初めて見た。なかなか可愛い」
シアンはマシューの髪に指を絡ませながら、ベッド脇の椅子の背にかけてある白いワンピースを見やった。
本当は最初にキルケゴールの前で着るつもりだった。
だけど仕方ない。
「お前、キースとは本当に何も無かったのか」
胸もとで彼がささやいた。
……うぜえ。
シアンはかすかに息を吐いた。
あんたが気に入る答えを言ってやろうか。
「だから、あいつヘマやらかしたんじゃないですか」
マシューが身体を揺らして笑った。
シアンは彼の髪を強めに握りしめる。
「……何か情報入ってないんですか」
マシューは以前外務局の調査部にいた。
前のつながりから、話しが耳に入りやすいのかもしれない。
「ないな。真っ先に聞きたいだろうが」
……足元を見られてる。
シアンは胸上にあるマシューの頭を見下ろす。
彼の髪を見て、シアンは誰かを思い出しかけた。
ゆるい癖の髪。
彼の髪を撫で上げて、あ、とシアンは思い出した。
これで黒髪なら、あのキエスタ人の少年か。
ふ、とシアンは口元を緩ませた。
彼が自分に首ったけなのは丸わかりだ。
アトリエから出てくるたび、自分を見つめる彼の目がまるで子犬のようだとシアンは思わず笑いそうになる。
なかなか可愛い。
キエスタ人俳優の世紀の美男子、ラマーンだっけ。
彼の顔より少年の顔の方が自分は好みだ。
あの年で、もうこの国に来ることができたのか。
うらやましいなあ。
新人モデルかなにかだろうか。
すれてない彼の澄んだ瞳を思い出す。
胸を舌で転がしていたマシューが反応のないシアンを見上げた。
あ。
「先輩の髪いいですね。こうやって、上にあげたら」
シアンは言って微笑むと誤魔化した。
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