101話 モデル

 ――俺、何やってんだろう。


 デイーは、毎日繰り返す言葉をまた今日も心の中でつぶやいた。

 バスの席に座って揺られていた彼は、窓の外の風景が目的地に近付いたのに席を立った。

 バスを降りると、雨上がりの石畳の道はしっとりと濡れていた。

 バスが動き出したのと同時に、デイーは歩き出す。

 漂う空気は程良い湿気を含み、ひんやりと心地良い。

 固い靴底が小さく音を立てる。

 着ているレインコートのポケットに両手を差し込みながら、デイーは左右を確認して車道を渡った。

 道に面した花屋の女性店員が、デイーに笑顔で挨拶してくれた。

 デイーも挨拶し返す。

 何度も見る顔だから覚えてくれたのだろうか。

 花屋から数歩先のカフェで、デイーはいつものサンドイッチとコーヒーを買う。

 テラス席に座り、サンドイッチを頬張っていると、道行く人々の中で女性は必ず自分を見る。

 デイーが気付いてそっちに目を向けると、彼女たちは微笑んでくれる。


 えらい違いだ。

 着ている服と髪型を変えるだけで、こうも人は態度が変わるものなのか。


 グレートルイスにいた時は、一般の女性からこんな笑みを向けられることなんて無かった。視線を感じることはあったけど、それだけだった。


 あの日から、生活が一変した。

 今デイーは毎日スーツを着て、髪は櫛で整えてる。

 南部の母から引き継いだ癖の少ない黒髪は、整髪料で撫でつけている。

 スーツもシャツも靴も時計も彼が全て用意してくれた。


 ――あの日、車に乗って連れてこられた先は彼の家の一つだった。

 部屋を与えられ、そこでまんじりともせず夜を明かした。

 朝が来て、やっと自分の状況を理解した。

 その家には自分の他に何人もの女性が住んでいた。

 彼女たちは一様に美しく、自分を磨きこんでいた。

 キエスタ人もグレートルイス人もいたが、彼女たちは自らを出荷前だと言った。

 つまり、そういうことだ。

 売り物になるようにここで下準備する。


 まさか自分に話しかけた車の男が、マフィアのボス、シャチ本人だとは思わなかった。

 自分が憧れていた夢の悪貨王にまみえてデイーの心は飛び上がった。

 しかし、これが幸運なのか不運なのかはデイーには分かりかねた。

 それでも、この状況下では言われたとおりにして彼の望み通りに結果を出すしかない。


 それからの約一ヶ月はグレートルイス語漬けの毎日だった。

 しかも正統なグレートルイス語をだ。

 ラジオから聞こえる言葉をひたすら繰り返し、頭がヘンになりそうだった。

 文字の方は簡単な子供向けの絵本から始めた。

 最終的には新聞と辞書とにらめっこして一日を過ごした。


 自分の外見にいたっては、一緒に住んでいた女性たちが手助けしてくれた。

 服を選んだのは彼女たちだし、髪も切ってセット方法を指導してくれたのも彼女たちだ。

 紅一点だったデイーを、彼女たちは親切にしてくれた。

 自分のことに手一杯で彼女たちのことを知ろうとする余裕はなかったが、皆賢く美しく、強い意志を持って生きているように見えた。

 一ヶ月が経とうとした頃、彼が自分に会いにきた。

 デイーの仕上がり具合に彼は満足したようだった。

 予定通り、自分をカチューシャ市国に連れて行くと彼は言った。

 とりあえず合格した自分に、デイーは安堵のあまり気を失いそうになった。


 それから一ヶ月後――。


 デイーはこの地、カチューシャ市国にいる。

 生涯、この国なんて縁がないと思っていた。

 それもこれも、神の御意志の為せる技だろうか。

 シャチと彼の腹心たちとともにこの国に降り立ったデイーだったが、待ちに待った自分の相手は、あいにく留守だった。

 忙しい人物らしく、シャチたちも彼を待つため、この国に留まった。

 シャチいわく、自分はこの国で合法的に商売を始めるつもりだ。そのためにはその人物の助けが必要なのだと、彼は言った。

 デイーはその人物への、手土産だ。

 彼が満足して、俺たちも満足できるような結果に運ぶなら、その時はお前の働きを認めてそれ相応の礼を尽くそう、とシャチは言ってくれた。――


 で、俺は毎日、何してるんだかな……。

 待ちぼうけをくっている相手の本人からデイーの絵が欲しいとご所望がきた。

 ラミレス神を描いた絵を。

 それからデイーは画家のアトリエへ通う日々を送ることになったのだ。

 朝、デイーはシャチたちといるホテルを出て、九時には画家の家に着く。

 画家は痩せたカラスのような風貌の男で、およそ画家というイメージからは程遠い。

 最近ゼルダから移住した有名人らしいが、黙々と無駄な会話をひとつもせずに作業に没頭する彼は、デイーに得体の知れない感じを与えた。

 ゼルダという未知の国の国民は皆こんな風かもしれない。

 感情の少ない、よく教育された兵隊たちの国。

 デイーはゼルダという国にそういうイメージを持っていた。


 デイーは過去の芸術家が設計をデザインしたアパートメントにたどり着くと、階段を上り始めた。

 美しい曲線を描く階段の横の壁は、不思議な凹凸を繰り返している。巻貝をイメージしているらしいが、ここが何の建物か分からなくなる。

 5階にある彼の部屋まで、デイーは靴音を響かせながら歩く。

 最初は恥ずかしくてたまらなかった。

 モデルだから仕方ないが、デイーは人前で自らの身体をさらすのは初めてだった。

 キエスタの文化では家族の前でも自らの裸をさらすのをよしとしない。

 それを赤の他人の、しかも同性の前でだなんて。

 さすがに局所だけは布で覆うが、それ以外は裸同然でとるポーズに、デイーは気を失いそうなほど屈辱感を覚えた。

 画家はデイーの気持ちを知ってか知らずか、彼のその様子を無視した。

 今でも屈辱感は消えないが、デイーは感情を表情に出さないよう抑えることは出来るようになった。


 最近、特に考える。

 ここに来る前の一ヶ月間は、課題をこなすことに必死で考えてる余裕などなかった。

 それが肩すかしをくらって、この生殺しの毎日を送るたび、自分の存在を客観的に考えるようになった。


 カチューシャ市国の市街でもよく見る彫刻の像。

 美しい若者や、女性の裸身像。

 つまりはあれと同じことだろうか。

 楽しむために作られた見せ物。


 故郷キエスタのど田舎から夢を抱いて出てきて行き着いた先が、これか。

 デイーはやり切れない気持ちになる。


 ……それでもグレートルイスの街中に立つよりは余程マシかもしれない。

 と、デイーは思い直す。


 シャチはキエスタの家族に当分の生活費を送ってくれた。

 あのままレストランに居たままだったとしたら考えられない額だ。


 神の御意志か。

 デイーは微かに微笑んで、画家の部屋の前に立ち、ドアをノックした。


 返事がない。

 数分待ったが、彼は出て来ない。

 ドアノブに手をやると鍵は開いていた。


 デイーはドアを開け中に入る。

 昨日、画家は明日から十時に来るようにと自分に言った。

 今は九時半だ。

 少し早いかもしれないが、遅れるよりましだろう。

 デイーは通路を進み、突き当たりのアトリエへと続くドアを開けた。――






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