第58話 送別会
ソビヤンコ修道士とドミニク修道士の送別会は、晩餐を兼ねていつもより早めの時間に行われた。
まだ日が落ちない夕刻、修道院の裏庭にテーブルと椅子を運び、食事を並べた。
宴のメニューは彼ら二人のリクエストであるキエスタ西部風鶏のトマト煮込みである。
倹約ゆえ、それだけで他に豪華な料理はできなかったが、ナシェの大好物のバターケーキも食後のデザートに作った。
ワインだけは今厨房にあったすべてのものを開けた。
夕涼みの風が吹く中、皆は舌鼓をうちながらワインを飲み、話す。
ほろ酔いのドミニクが饒舌だった。
「私が初めてここに来た時です。副院長のキャンデロロ様が、しばらく恐ろしくてたまらなかった。キャンデロロ様にバッキャローと言われるたびに飛び上がったものでした。しかし、不思議ですね。慣れてくると、バッキャローと言われない日は何か物足りない気がするのです。キャンデロロ様の具合が悪く、バッキャローが飛んでこないときは、気持ち悪かったのを覚えています」
ドミニクのニコニコと話す声に、すでに顔の赤いキャンデロロが応える。
「バッキャーロ、ドミニク。お前がオレに言わせなかった日なんてあるか」
「おお、申し訳ありません」
大袈裟に謝って、ドミニクは下を向いて隣に座っているナシェに舌を出した。
ナシェは笑う。
「この地の風習や人々には最初、戸惑いましたがいい経験でした。キエスタ語もヴィンセントやパウルに比べると拙いですが、それなりに習得できました。バザールでの交渉も覚えました」
グレートルイスのそれなりにいい家で育ち、神学校にすすんで、そのまま本国の修道院に長年いた彼は人を疑うことを知らず、乱暴な人物などと交流を持ったことがなかった。ここにきた当初は大変だっただろうと思われた。もしかしたらそのストレスが、彼の妄想癖を助長させたのではないだろうか、とヴィンセントは考える。
「特に、ヴィンセントが来てからは非常に毎日が楽しかった。最初、彼が慣れないうちはどうなるかと思いましたが。学校も始まりましたし、いい方向に教会がまわりだした気がします」
「そうですな。ヴィンセントが来てから、世界の美食を楽しめるようになった。これから、厨房は彼の天下です。皆さん、彼におおいに期待するがよろしいでしょう。ヴィンセント、予算の範囲内で存分に腕をふるいなさい」
ソビヤンコが隣に座っているヴィンセントの肩に手を置いて言った。
「ソビヤンコ様にはいろいろご指導いただきました。ありがとうございます」
「最初はどうなるかと思ったがね。まあ、料理は慣れだ。これからもっと早くはなるだろう」
ソビヤンコは目を細めて彼に笑いかけた。
「ナシェ、たまにはヴィンセントの仕事を手伝ってやりなさい」
「はい。わかりました」
ナシェは元気よく答えた。
「ただし、つまみ食いは一回だけ」
ソビヤンコに言われ、ナシェはドミニクと同様にうつむいて、隣のドミニクに舌を見せた。
「ところで、ヴィンセントを初めて見たとき、まるで貴族の貴公子のようだと思ったものです。あまりに立ち振る舞いが綺麗だったので。皆さんもご承知の通りだとは思いますが私はそういう類の小説が大好きです。今後、キエスタ神話を子供たちと上演するときはぜひヴィンセントにも演じてもらいたいものですな。私が帰ってきたときにはラミレス神でも演じてください。脚本はたのみますよ、パウル」
ドミニクの言葉にテーブルの端に座っていたパウルは頷いた。
ドミニクとこの教会で一番時間をともに過ごした人物は、このパウルだろうと思われる。
「パウルにもお世話になりました。バザールでの買い出しは二人して四苦八苦しましたね。……ヴィンセントが来る前は、あなたをこの国の昔のスルタンだとなぞらえて想像したものです」
ドミニクの言葉にパウルは驚いたように目をみはった。
「今だから、白状しますが。パウルほどの美青年も私は本国ではまず見たことはありません。そうでしょう、皆さん。浅黒い肌に背の高い彼は、南部のターバンが似合うに違いありません。ヴィンセントが白王子なら、パウルは黒王子です。後宮が織りなす恋物語に出てくる、王子にぴったりではありませんか」
「かなり酔ってやがるな、ドミニク」
笑ってキャンデロロが言った。
黒王子。
そういわれたパウルは衝撃をうける。
気付かなかった。ドミニク様にそんなことを想像されていようとは。
彼がここに来てからの数年間、毎日自分が汚されていたようなショックを感じる。
自分を見てくる視線に気づき、ふとパウルは顔を上げた。
やわらかく微笑したヴィンセントが自分を見つめていた。
彼とはあの夜以来、話していない。
ナシェともだ。
ナシェはおびえているのか、自分と目を合わそうとしない。
キャンデロロがソビヤンコとドミニク二人の肩を抱き、立たせて自分の両隣に移動させると歌を歌い始めた。
陽気なヨランダ地方の恋歌だ。
ソビヤンコとドミニクも彼に歌うよう強要される。
パウルは席を立ち、隣の席が空いたヴィンセントの横に座った。
「この間のことですが、申し訳ありません」
皆がキャンデロロたちに集中している中、パウルは機会だとヴィンセントに小声で言った。
ヴィンセントはキャンデロロたちの方に目を向けたままだった。
怒っているのか。
自分でも意外なほど気落ちして、パウルは続けた。
「ファンデイム様に言われました。たしかに私がどうこう言って、ナシェの勉強の邪魔をするのは間違いだったと思います。お許しを」
「私ではなくナシェに謝ってください」
ヴィンセントがそのままの方向に顔を向けて言った。
「あと、あなたが床にぶちまけた食材たちにも謝ってください。片づけが大変でした」
忘れかけていたことをヴィンセントに言われて思いだし、パウルは謝る。
「あれは……すみませんでした。バザールの彼女たちの好意を無駄にして申し訳ありません」
「彼にもです」
ヴィンセントが続ける。
「……今ですか」
「今です」
こちらを見ずに短く言い放つヴィンセントに、パウルは彼が先生然としてきたと思う。
「ナシェに謝ったら、こっちに戻ってきてください」
ちらり、とテーブル向こうの斜め前の席にいるナシェを見やると、こっちを見ていたナシェはあわてて目をそらした。
軽くため息をついて、パウルは立ち上がりナシェの席へと歩いて行った。
ヴィンセントが見ている前で、パウルはナシェに何か言った。
ナシェは驚いたように目を見開くと、次の瞬間にはパウルの首に抱きついた。
背の高いパウルにぶら下がるようにして抱きつくナシェの頭を、ぶっきらぼうに撫でるパウルの姿を確認すると、再びヴィンセントはキャンデロロに目を移した。
キャンデロロは次は哀愁漂う情緒ある歌を歌いだしていた。
両隣のドミニク、ソビヤンコはすでに近くにいるカールやサムと話している。
「…ナシェに謝りましたが」
戻ってきたパウルが無愛想にヴィンセントに声をかけた。
「はい」
ヴィンセントはやっと彼の方を振り返って微笑んだ。
……子供たちが彼になつくのは、彼のこの笑顔をご褒美のように感じるからだろうか。
と、パウルは下唇を軽く噛んでそう思う。
「また、あなたと勝負したいと思います」
微笑みを浮かべながらヴィンセントは次に言った。
「勝負、ですか」
パウルはあっけにとられる。
「ええ」
数秒後、わかったようにパウルは口の端を上げると、ローブの袖をまくり上げた。
小机の上で、再戦を始めるパウルとヴィンセントに修道士たちは喝采する。
「最後に、王子対決を見られるとは。感無量です」
ドミニクが感極まった声で言った。
「先生、がんばれー」
ナシェが応援する。
「おら、さっさと決めねえか」
なかなかつかない勝負にキャンデロロがしびれを切らす。
微笑みながら二人の勝負を離れて見守るファンデイム院長に、ソビヤンコが言った。
「院長。いままでありがとうございました。長い時間、過ごした教会と別れるのは後ろ髪をひかれますが」
「こちらこそ、ソビヤンコ。長い間、日々の食事をありがとうございました。今後は、静かに本国で過ごされるといい」
ファンデイム院長はしわだらけで背もまがった彼を久しぶりに間近で見て、ここまで老いたか、と内心驚いた。
いや、自分も同じだ。彼と同様の年月をここで過ごしたのだから。
「戦前、あなたは帰国するつもりだった。それを、ここを頼ってくる女性たちの世話の為に残ってくださった。感謝しても感謝しきれません。今度こそ、本国に戻られてゆっくりとされるといい」
「あのころを思い出すと、苦しい日々でしたな。しかし、あの時帰国していたら、本国で日々後悔していたろうに違いありません。あのときに残ったのは正しかったと思っております。ですからお気になさらずに。……しかし、今回は年齢と体の限界を感じております」
ソビヤンコは答える。
「ヴィンセントが来て、キリが戻ったかのような錯覚をたまに覚えます。彼のおかげで、最後にここで楽しい日々を過ごせて本当にうれしい」
目を細めて、ソビヤンコは腕相撲をしているヴィンセントとパウルを見やった。
「ええ、本当に。彼が来てくれて、よかった」
勝負がついた。
「先生の勝ち」
ナシェが喜びの声を上げた。
「ほ、パンで鍛えた成果ですな」
満足げにソビヤンコが顔をほころばせた。
笑いかけるヴィンセントを悔しげにパウルは見た。
「いえ、もう一回です」
そう言って、パウルは今度はもう片方の腕をまくり上げて体勢に入る。
ヴィンセントもそれに応じた。
「バッキャロー! 次はオレとやれって言ってるだろうが!」
キャンデロロの罵声が日の落ちかけ星が現れ始めた夕空にひびきわたった。
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