第55話 決断
若者が留守のケダン教会では礼拝堂に聖歌が響いていた。
聖歌隊の前の聖ギール像は燭台のろうそくに囲まれていた。
学問と慈愛の代名詞、聖ギール。
彼の彫像はだいたいが本を持っている。
ケダン教会の聖ギール像は片手に本を持ち、もう片方の手は幼子を抱えていた。
顔を合わせた幼子とギールはお互いの額をつけている。
ビルケナウ修道士の指揮のもと、六人の修道士がパートに分かれて声を合わせる。
重厚な歌声は空気を震わせて溶け、ここを神の家と呼ぶにふさわしい空間を演出していた。
聖歌を終えた後、一息ついてファンデイム院長が口を開いた。
「皆に伝えたい事があります」
修道士たちがファンデイム院長の顔に注目する。
「テス教会本部から通達が来ました」
キャンデロロが声を出した。
「ヴィンセントの治療薬のことですか」
「いいえ」
ファンデイム院長は首を振る。
「そりゃそうだ。いくらなんでも、それは早すぎる」
カールが言い、
「それで本部は何と」
と、ファンデイム院長を促した。
「帰還命令です」
ファンデイムは短く答える。
「昨今、武装勢力による人質事件があまりにも多く、政府は今後身代金の要求には応じないと声明を出しました。それに伴い、今現在キエスタにいる全てのグレートルイス人は直ちに帰国するようにと。……教会側も私たちの安全については、今後一切責任をとらないとの通達でした。すべては私たちの自己責任であると」
ファンデイム院長の言葉に修道士たちは沈黙した。
「以前、この付近の地域でジャーナリストが拉致された事件がありましたね」
ファンデイム院長の問いにキャンデロロが答えた。
「はい。私とパウル、ヴィンセントがバザールからの帰り、その現場に出くわしました。院長にもその日に報告したと覚えておりますが」
「彼は助からなかったそうです。遺体は本国に送還されたそうですが」
ドミニクが、ひゅ、と息を飲んだ。
「ここに居る皆に聞きます。一人一人。どちらを選択するのか」
ファンデイム院長が修道士たちの顔を順に見渡した。
修道士たちはお互いの顔を見つめ合う。
「私はここに残ります」
最初に口を開いたのはサム修道士だった。
「帰国しても、私の家族はもう居ない。去年、亡くなった姉が唯一の家族でした。あとは血縁の薄い親類が少々いるだけです。別れた妻は再婚し、子供とは疎遠です。ほぼ他人のようなものだ」
サムの次にビルケナウが続ける。
「私も残ります。二年前、一時帰国した時に親族と再会しました。兄弟たちや子供、孫にも会えて私は幸せでした。ですが彼らの生活は独立しており……私は疎外感を感じました。彼らと私はあまりにも違いすぎる。ならば、ここで余生をむかえたい」
カールが声を出した。
「彼と同じく、です。独身者の私は一族の中ではアウトサイダーでしてな。それに帰国すると、たちまちボケるのが目に見えてます。今は村人たちのおかげでこのように私はボケずに済んでおるのです」
おどけた表情でカールは告げた。
「私は……帰国します」
ソビヤンコが言う。
「去年、息子に子供が生まれました。遅くに結婚し、五十手前で出来た子です。写真をみたが可愛い女の子でした。初孫に会いに帰ります」
キャンデロロが口を開いた。
「私は残ります。ご承知のとおり、カールと同じで独りもんです。再会を喜んでくれるような女も、もう居ねえ。アニキたちはもう死んじまった。……刺身が食いたいときはあるが、ヨランダにいる時に一生分は食ってきたはずです」
最後のドミニクに皆の視線が集中する。
「私は……帰国します」
消え入りそうな声で、彼はうつむいて言った。
彼の肩は微かに震えていた。
「私は命が危険にさらされるなんて、恐ろしくてたまらない」
「当然です、ドミニク。正しい選択です」
ファンデイム院長がドミニクの肩を抱いた。
「この国が安全だと証明されたら、その時に戻ってきてくださればいい」
ドミニクはうつむいたまま頷く。
ファンデイムが皆の顔を見て言った。
「私は残ります。……先の戦争で、妻にはとうに愛想を尽かされております。籍をそのままにしてくれているのが不思議なくらいです。子供も独立し家庭を持ちました。……私には、ここにもう一つの家族がいます。息子パウルと孫のナシェです。彼らのそばにいたいと思います」
修道士たちはもう一度、お互いの顔を確かめ合った。
「決まりましたね。近日、ソビヤンコとドミニクの送別会を行いましょう。ソビヤンコとドミニクは荷物を片づけ始めてください」
二人が頷くのを確認して、ファンデイムはあと一つの問題点にため息をついた。
ここに居ない、あと一人の者について。
彼はどうすべきか。
聖ギール像を見上げて彼は目を閉じた。
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