第54話 SKY WORLD


 ケダン山脈のふもと、ナシェたちの住む村から車で3時間走らせた場所に、カルスト地形がある。


 石灰分を多く含んだ地下水が地表に湧き出で、台地上に石灰の沈殿を果てしない時間繰り返した結果、目をみはるような絶景が誕生した。

 あたり一面を白い石灰が覆いつくし、段差のあるところは過去にあった植物上に石灰が沈殿して、白滝の流れるような景観を造りだしている。

 この大地を歩いていると、まるで雲の上を歩いているような気になる。


「先生、こっちです、こっち」


 先に歩いているナシェが手を振った。隣のアキドも手を振る。

 周囲の風景を見つめることに必死なヴィンセントは、足が止まりがちだった。


「素晴らしいですね」


 歩みを止めて、もう一度、ヴィンセントは四方を眺め渡した。

 石灰のクリームでくまなく塗り固められている、棚田状の大地。

 そこかしこに小さい湖水が存在し、それらはすべて色が違う。

 エメラルド、パールグリーン、アイスブルー、セルリアンブルー……。

 光の角度の加減や、水深、水質の状態によって、色が変わるとされている。

 一日のうちでも、太陽が移動するにしたがってそれぞれの湖水は様々な姿に顔を変える。


「話で聞いてはいましたが、これほどとは思いませんでした」


 隣のパウルにヴィンセントは告げた。


「キエスタ神話では、ここはラミレス神がネーデ神のためにつくった別荘だそうです」


 パウルが言った。


「好色なラミレス神ですが、意外に彼女には嫉妬深かった。ほかの神々と彼女が浮気するのを恐れて、この美しい宮殿を造り、彼女を閉じ込めようとしたそうです。しかし、彼女は籠の中は嫌いだったようで、たびたび逃げ出しました。ケダン山脈を越えた、キエスタ西部に。それでも、最後には必ず彼女はここ、ラミレス神のもとへと戻ってきました。彼女は、ラミレス神との間に多くの子供を産みましたが、ときたまには別の神や人間相手の子供も産んだそうです。ラミレス神はあきらめて、自分の子ではない子も、自分の子と同じようにわけへだてなくここで育てたといいます」

「……おおらかすぎると思うのですが」


 パウルの話を想像して、ヴィンセントは感想を述べた。


「元来、子供好きな神です。まあ、自分にも浮気癖はあったのですから、お互い様ではないですか。最愛のネーデ神を失うことを一番恐れたのかも知れませんが」


 パウルは歩き出す。


「運転していただいてありがとうございます。帰りは私が運転します」


 パウルに続いて歩き出し、そう言ったヴィンセントにパウルは振り返る。


「結構です。あなたの運転では、ナシェとアキドが酔うのが目に見えています」


 少し傷ついた様子のヴィンセントに、パウルはかまわず前に向き直った。


 明け方に、自分の運転でケダン教会を出発した。

 車内でナシェとアキドが歌いだしたときは勘弁してくれ、とは思ったが、まあそれなりには楽しめた。

 教会をはなれ普段とは違う場所にいるというだけで、開放的な気分になる。

 キャンデロロを始め、年上の修道士たちの目がないというのが一番の理由だと思うが。


 ヴィンセントが回復して良かった。

 まだ多少の手足のしびれがあるが、徐々に改善してきているという。


 彼が休んでいる間、教会の皆の負担が一気に増えた。

 ヴィンセントが来る前の生活が、何故上手くまわっていたのか不思議なくらいだ。

 とりあえず食事の味のレベルが落ち、食事の時間は皆の落胆ぶりが激しかった。

 昨夜からヴィンセントが復活したので、夕食時にはファンデイム院長がワインを出した。

 昨日の野鳥のファルシは絶品だった、と思い出してつばを飲み込むパウルに、ヴィンセントが後ろから話しかける。


「パウル様はここは何回目なのですか」

「4回目です」


 パウルは背で答える。


「1回目はカール様が来られた時、2回目はキャンデロロ様、3回目はドミニクさまが来られた時です。新しい修道士が来た時に、一緒に連れてきてもらいました。そう思うと、あなたを今までここに連れてこなかったのは申し訳ないと思います」

「いえ、大満足です。ナシェの言うとおり、痛みの記憶が吹き飛んでしまいそうです」


 ヴィンセントが弾んだ声で返した。


「先生、ここだよここ」


 前で、二人を待っているアキドが叫んだ。

 大きく段差がある大地の隙間に人ひとり入れるくらいの穴があった。


「洞窟です。あの中に入ります」


 パウルが言い、身をかがめて先に穴の中に入った。

 長身のパウルにはかなりつらそうだ。

 彼よりまだ高い自分は更にきつそうだ、と思いながら彼に続いて入ったヴィンセントは、狭いのは入り口だけで中は広いことに気づいた。

 姿勢を正しては立てないが、頭を低くして歩けるぐらいの天井ではある。

 ナシェ、アキド、パウルの順に歩いていくのにヴィンセントはついていった。

 真っ暗ではない。ところどころに穴が開いて、光が漏れているようである。

 どこまで歩くのですか、と聞こうとしたヴィンセントは前に見えてくる景色に息をのんだ。


 ぽかりと、天井が大きく丸くあいていた。

 見えるのはキエスタの澄み切った深い青い空だけだ。

 そして、その下にはその空をそのまま映したような泉が広がっていた。


 石灰を含んでいるせいで、泉の透明度は限りなく高い。

 かなり水深は深いのだろうが水質が澄み切っているために底が浅く見える。

 見る場所の立ち位置によって微妙に色が変わる。

 その泉の奥にも二つ、小さな泉があった。

 一つは淡い紫に、もう一つはエメラルドグリーンに輝いていた。

 光の加減や水質、藻に含まれる成分の違いだろうか。

 神秘的な光景にヴィンセントは立ちつくした。


「『SKY WORLD』と、グレートルイスの冒険家が名づけました」


 傍らに立つパウルが言った。


「キエスタ神話でもほぼ同様の意味です。『捕まえた空』と呼びます」


 パウルの説明をヴィンセントはぼんやりと聞く。


 上も下も、空の色一色だ。

 自分の体さえも青く染まり、この空間の一部に取り込まれたかのような気になる。

 静謐な、何ものにもとらわれない、天上の世界。

 重力を失った身体が無限の境地へと放り込まれる。

 とめどなく、広がる、果てのない青。


「聖地とされ、聖者の修行の場とされたこともあります」


 ナシェが得意げな顔でヴィンセントを見上げた。


「ね、先生。まるで空を見下ろしているみたいでしょう」


 高い声でそう言ったナシェは、ヴィンセントの顔を見てそのまま声を失った。


「うえっ、先生、泣いてんのかよ」


 アキドも気づき、驚いた声を上げる。


 これにはパウルも仰天してたじろいだ。


 ヴィンセントの頬を、静かに滴形の水がゆっくりと伝う。

 彼は平常通りの表情だったが、その目から涙だけが流れ出していた。


 美観に感動して泣くなんて、一体いつの時代の王子……と、胸の内でつぶやこうとしたパウルはやめた。


 王子ではなく彼だから泣いたのだ。


 パウルは苦笑した。



 **********



「あまりの美しさに感動しました」


 キエスタの青空の下、白い大地に座り込んで、バケットを食べながらヴィンセントは照れたように言った。

 彼の伸びた前髪がゆるやかに波打って額にかかり、微風にふかれて揺れていた。

 もう少しで目に届きそうな長さである。

 陽光に透かすと黒に近いこげ茶に見える彼の髪はかなり明るい茶色になった。


「先生は泣き虫だなあ」


 アキドが口の中をパンでいっぱいにしながら、もごもごと言う。


 今朝、ヴィンセントがつくった弁当だ。

 昨日の野鳥を割いたものと葉物野菜、ピクルスをバケットにはさんである。

 飲み物は水を水筒に用意してきたが、アキドが自ら持ってきた水筒にはキエスタ茶が入っているようだ。


「ナシェの言った通り、元気が出ました。今後の目標ができました」


 ヴィンセントがナシェの顔を見て笑いかけた。

 なにかがふっきれたような、すがすがしい笑みだった。


「良かったです。目標ってなんですか」


 ナシェは聞く。


「あの景色を、見せてあげたいと思うひとがいます。そのひとを、いつかここに連れてきたいと思います」


 三人から少し離れて、バケットを食べていたパウルがこっちを見た。


 ナシェはヴィンセントから何かを感じて言った。


「そのひとって、女のひとですか」


 ヴィンセントは微笑んでうなずいた。

 その笑みは今までナシェが見たことのない笑みだった。


「そのひとは、先生の恋人ですか」


 ナシェの問いに、ヴィンセントは首を横に振った。


「じゃあ……」


「先生の片思いかよ。だっせー!」


 アキドがナシェの言葉を引き継ぎ、元気に声が響きわたった。




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