第51話 素描画

 キャンデロロは少量の酒ですぐに酔う割には、なかなかつぶれないという厄介な体質をしていた。

 夕方にはいい感じに酔い、ヨランダの叙情的な歌何曲かで美声を披露してくれたのであるが、その状態が片付けをし、皆がめいめいの部屋に戻って就寝した現在まで続いている。


 厨房で皿洗いしてる時にパウルとドミニクが、とりあえず持ち上げてひたすら呑ませろ、と助言をくれた。臨界点がくると一気に眠るらしい。ただ、その予兆が全くないのでなかなか先が読めないということだった。

 ソビヤンコがこっそりウォッカの小瓶を持たせてくれた。

 味がもう分からなくなってるだろうから適当に隙を見てグラスに混ぜろ、ということらしい。


 飲酒は禁じられてはいないとはいえ、普段から節制第一のテス教だ。

 こういう祝日などの特別な時に一気にたがが外れるのは仕方ないと思うが、それなら普段から適当に酒を嗜んでいる方が身体には負担がかからないのでは、とヴィンセントは思う。

 ワインを一本抱えながらドアをノックし、キャンデロロの返事を確認して部屋に入る。


「おう、来たな」


 寝台に座っていたキャンデロロがヴィンセントを見た。

 そちらを見やったヴィンセントは彼の後ろの壁に目が釘付けになる。


 壁にかかっているのは、白い壁の家が建ち並ぶ海辺のヨランダの写真。

 そして、隣には一枚の素描画。


「ああ、これか?」


 キャンデロロが気付いて後ろを振り返った。


「どうでえ、なかなか男前だろうがよ。若い時の俺はよ」


 ヴィンセントはゆっくりと絵に近づいた。


 上半身裸で煙草をくわえ、こちらを鋭い目つきで見ている男。

 額から頬にかけて傷がある。

 首から肩にかけて筋肉が盛り上がり、日々の労働で鍛え抜かれた身体だと見てとれる。


「その頃ならパウルが三人いたって今日の勝負には負けてねえ」


 キャンデロロが言った。


「……今と、そんなにお変わりなく」


 絵に目をやったままヴィンセントがつぶやいた。

 キャンデロロは笑う。


「バッキャーロ、ヴィンセント。さては、パウルたちに俺をおだてろとか言われたのか」


 ヴィンセントは答えず、絵の右下に視線を移動させる。


「ベンジャミン」


 書かれているサインを読みあげた。


「おう。ベンジャミン=ホワイトっていう、画家の卵に描いてもらったんだ。そのときはな」


 キャンデロロは愉快そうに話す。


「それがどうでえ。今じゃ、奴は世界の巨匠だ。知ってっか、アルケミスト=タスケスっての」


 ヴィンセントは頷く。


「まあ、座れや」


 キャンデロロに言われるままに、ヴィンセントは彼の前に位置する椅子に腰を下ろした。


「かなり値がつくんじゃねぇかと思ってな、教会の修繕費用にとってた。まあ、おまえのおとっつぁんか、おっかさんが寄附してくれたおかげで、売らずに済んだけどな」


 もう一度、彼は絵を振り返る。


「あの時はまだ、奴は若僧で可愛らしいもんだったぜ。今じゃ、カラスみてえな痩せたジジイになっちまったけどな。絵のコンクールかなんかで賞をとった特典で、グレートルイスに短期留学に来たと言ってたな。目をキラキラさせてよ、ひたすら港でスケッチしてた」


 ヴィンセントがワインを注いだグラスを、キャンデロロは受け取る。


「……あの国の人間は、見りゃすぐ分かる。みんなバカみてえに姿勢がいいからな。てめえみてえにな、ヴィンセント」


 ヴィンセントが彼を見ると、キャンデロロはグラスを持ったまま、こっちを見ていた。

 彫りの深い奥まった眼が、自分を見据えている。


「たいしたもんだと思ったぜ。あの国の教育ってのはよ。……酒場に連れて行ったベンジャミンに、酔った勢いでなんかやれって仲間とけしかけたら、店のピアノでいきなり演奏をおっ始めやがった。あの国じゃ、誰でも一曲は弾けるそうじゃねぇか」


 キャンデロロはヴィンセントから目を外し、グラスの中のワインに目を落とす。


「まあ、いい。……最初はどうなるかと思ったが、てえしたもんだ、てめえはよ。ナシェはてめえに懐いてるし、パウルだって年がちけえ兄貴ができて嬉しいはずだ。ドミニクなんて、毎日が妄想の連続で大満足ときてやがる」


 ワインをひと口飲んで、キャンデロロはヴィンセントの瞳を見つめた。


「ヴィンセント。……てめえは、ここにずっと居ろ。本国には帰るな」


 ヴィンセントは数秒の沈黙のあと、口を開いた。


「……いつからですか」

「さっき、言っただろうが。バッキャロー。見りゃ、すぐ分かるってな」


 キャンデロロはグラスを窓辺に置くと、身を前に乗りだしてヴィンセントを見上げた。


「てめえが、何処で何をしていたかなんてことはどうでもいい。こっちに来ちまったんだからよ。ここで、てめえがどういう人間になるかだ。大事なのはよ」


 キャンデロロは続ける。


「その点は、もう俺は心配してねえ。充分、お前に見せてもらった。……まあ最初は、お前を東オルガンに帰すよう、院長に進言したけどな」


 ヴィンセントは視線を下に落とす。

 キャンデロロはその様子を見ていたが、窓に目をやった。


「……戦後、ベンジャミンそっくりの野郎と国で会った」


 キャンデロロがつぶやいた。

 ヴィンセントは驚いて顔を上げる。


「分身、てんだっけ。あの国では。同じやつが何人もいやがるんだろ。……微妙に見かけが違うし、俺のことを覚えていなかったからそうだと思った。戦後の混乱期だ。国に紛れ込んでもおかしくない。俺は通報した。それが国民の義務だと思ったからだ」


 キャンデロロは顔を横に向けたままだ。


「通報する前、奴は懇願した。だが俺は聞く耳を持たなかった。俺の選択は間違ってなかっただろう。今、考えてもな。……だが、もし、だ。奴が、避妊手術してたとしたら? いや、するつもりだったなら?……俺が、通報しなけりゃ、グレートルイスで奴はただの無害のジジイで暮らしてたはずだ」


 キャンデロロが目頭を指で押さえた。


「……あの国で脱走兵は重罪だ。リンチぐらいじゃ、済まねえ」


 息を吐くと、顔から手を離してキャンデロロはこっちを向き、笑った。


「ずいぶん、湿っぽくなっちまったな。飲むか」


 ヴィンセントはキャンデロロが持つグラスにワインを注ぎ入れる。


「キャンデロロ様は、いつこの教会にいらしたのですか」

「戦後、8年だったか。俺はまだ新しいもんだ。カールの野郎の後にきた。ドミニクが来たのは今から5年前だ」


 ワインをぐい、と彼は飲み込む。


「もともと俺の家はテス教だ。兄貴が三人いるし、所帯を持つような女もいなかった。修道士になると言ったら、冗談だろうと皆に笑われたもんだ。このツラじゃな。だが、ここに来た。……刺身が食えねえのはつれえが、違う人生始めるならそれなりにいいとこだと思うがな」


 キャンデロロはヴィンセントに笑いかける。


「さあ、なんでも聞けよ。今夜だけなら何でも答えてやんぜ」


 ヴィンセントはそんなキャンデロロの顔を見つめた。


「……では、聞いてもよろしいですか」


 ヴィンセントは間をおいてたずねる。


「その、刺青の女性のことを」

「そうきやがったか」


 キャンデロロは眉をひそめて苦笑する。


「まあ、いい。酒の肴には、ちょうどいいしな。代わりに、てめえもヴィンセント。……どうやって三人もの女をひねり出したのか、白状しろ」


 ヴィンセントも苦笑した。

 パウルが話したのか。

 存外、彼はおしゃべりなものだ。


「はい」


 長い夜が今から始まろうとしていた。




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