第50話 テス教の祭日

 朝から空はよく晴れ渡り、ケダン山脈はいつも以上に鮮明に見えた。

 鷲が何匹か弧を描いて頭上を飛んでいる。

 ナシェは井戸の水で顔と手を洗うと息を大きく吸った。

 ソビヤンコ修道士とヴィンセントが焼く菓子の甘いにおいを胸いっぱい吸いこむ。素敵すぎる幸せな匂いに胸がときめく。口いっぱいお菓子を頬張るのを想像して、ナシェはほっぺたが緩むのを感じた。


 今日は、年に数回あるテス教の祭日だ。

 教会側がお菓子を用意し、村人たちが食べ物を持ち寄る。

 先生がここに来て初めての祭日だ。


 ナシェは丘を駆け上がった。



**********


 昼過ぎにケダン教会の前には机が並べられ、その上にはご馳走が並べられた。


 羊の塩茹で。羊肉と野菜、薬味を小麦粉の皮で包んで茹でたもの。薄いクレープのような生地のパン。チーズ。ドライフルーツ。

 これは村人が持ってきたものだ。


 鶏の香草焼き、白パン、野菜スープ、そして小麦粉、砂糖、バターと卵で作った焼き菓子。

こちらは教会側が用意したものである。


 飲料としては教会側はワイン、村側は馬乳酒を用意した。これはお互いの好みがはっきりと分かれており、ほとんどが自分たちが用意した側を飲んだ。

 あとはキエスタ茶が大量に大鍋に準備された。


 キエスタ茶とは乳に湯を加え少量の塩を入れたもので、主にキエスタ北部、西部で飲まれる。

 ヴィンセントはキエスタ茶を最初ひと口、口に含んだときはこれも有りだとは思った。

 しかし三口以上は進まなかった。

 余計に喉が乾きそうに感じたからだ。


 大量に積まれた焼き菓子を我先と手を伸ばして頬張る子供たち。

 ケンカして走り回る子供たち。

 祭日はいつもワクワクする。


 ナシェは隣のアキドと立て続けに焼き菓子を口に放りこみ顔を見合わせて笑った。

 ヴィンセントが弾くオルガン演奏に、ビルケナウ修道士が指揮する修道士たちによる聖歌が流れている。

 意外ながら、キャンデロロ修道士の美声が目立った。もしキャンデロロが機嫌良く酔えれば、このあとにも彼が歌うヨランダの地方歌が聴けるかもしれない。

 いつもならその後は声自慢の村人の独壇場になるのだが、今日は違った。


 修道士の聖歌が終わると、子供達がヴィンセントのオルガンの周囲に集まる。

 ナシェとアキドも食べかけのお菓子を置いて駆け寄った。

 ヴィンセントのオルガンの音に合わせて、子供達が観衆に向かい礼をしたあと、曲が始まる。


 キエスタの国歌だ。

 戦後作られたこの曲はキエスタ北部の民謡をもとにアレンジしたものだという。

 子供達が元気に歌い出した。


  草原に 日は映えて

  神々の宿る霊山

  ケダン山脈はよろいたつ

  ああ 我が祖国 キエスタ

  神々の 恩恵あれ


  砂漠に 露は落ちて

  砂丘に 月のぼる

  いにしえより つたわる

  ああ 誇りある一族の子らよ

  明日をつくる 力とならん


 歌い終わり再び音に合わせて子供達が礼をすると、ドミニクの猛烈な拍手の後、観衆が手を叩いて子供たちを讃える。

 子供たちが解散し、のど自慢の村人が歌い出した頃、ヴィンセントはキャンデロロたちのもとに戻ってきた。


「よくやった。ヴィンセント。てめえが歌を指導したわけじゃないけどな」


 ヴィンセントの肩に腕をまわして引き寄せ、彼の頭をわしゃわしゃと撫でてキャンデロロが言う。

 ヴィンセントの髪は帽子で隠す必要のない長さまでにはなった。修道士のスタイルになるまではまだ当分かかりそうだが。


「はい。サム様とビルケナウ様のおかげです。私では歌の指導は到底」

「ちげえねえ。何の歌か分からなくなるところだったな」


 はっはっはっ、と大口で笑ってキャンデロロはヴィンセントの背中をたたく。


「村人はキエスタ国歌を知らない者がほとんどです。素晴らしいと思います」


 ファンデイム院長が微笑んで言った。


「キエスタの国歌は他国の国歌と比べても名曲だと私は思います。子供たちが歌わないと意味がない」


 ヴィンセントはキャンデロロが渡すワインの杯を受け取りながら答えた。


「いずれは子供たちによるキエスタ神話の劇などを出来ればと思います。その時はパウル様に御指導願いたいのですが」


 ヴィンセントの言葉にそばで聞いていたパウルは驚いて彼を見た。

 ヴィンセントが笑顔でこっちを見てくる。


「それはいい。パウル、よろしく頼みますよ」


 ファンデイム院長が同じく笑顔でパウルに向かって言い、パウルは頷くしかなかった。



*********


 のど自慢の村人が歌う間、皆は存分に食べて飲み、会話を楽しんだ。

 キエスタ語が堪能なヴィンセントに村人たちは興味をそそられ、次々に話しかける。

 一人一人に応じていたヴィンセントだったが、そのとき近くで話していた二人の村人の会話に耳を疑った。


「あの、すみません。今の言葉をもう一度」


 ヴィンセントはその言葉を言った二人のうちの一人に声を掛ける。

 突然、ヴィンセントに話しかけられた男は面食らいながらも応えてくれた。


「え、なんだい。今かい? 『暇が一番の贅沢。富める者も窮する者もそれは平等』かい?」

「はい。それはどういう意味なのですか?」


 ヴィンセントは真剣な顔で聞く。


「昔から言う古い言葉だよ。ヒマなやつによく言う言葉さ」


 聞いていたもう一人の男が答える。


「それがどうしたんだい、先生」

「以前、キエスタの知人に去り際に言われたことがあったのです。その時はどういう意味か分からなくて」

「そりゃそいつにバカにされたんだよ先生。今度、奴にあったらお返しに言ってやりな」

「そうですか」


 納得がいったのかヴィンセントは頷いた。


「せんせい」


 下から声がして、ローブを後ろから引っ張られるのを感じた。

 振り返って見下ろすと、子供らが見上げていた。


「せんせい、来て。いま、みんなで勝負してる。せんせいも勝負して」


 子供たちは単調な歌に飽き始め、何やら遊びを始めたようだ。

 引っ張られるまま子供らについていくと、パウルの姿もあった。

 横にしたワインボトル二本の上に平らな板が橋渡ししてあるのが二組、用意してあった。


「この上で長く立っていられた方が、勝ち」


 子供達がパウルとヴィンセント、二人を取り囲んで言った。




 ……三十秒後、板に乗ったまま微動だにしないパウルが、呆れた声でヴィンセントに言った。


「あなたは出来ることと、出来ないことの差が激しすぎやしませんか」


 いくらやっても五秒と立ってられないヴィンセントの姿に、子供たちは笑い転げる。


「これ以外なら、なんとか」


 少し悔しげに答えるヴィンセントに、パウルは眉をわずかに動かして板から下りた。


「じゃあ、次は何ですか」


**********


「せんせい、弱い」


 青空の下、周りにいる子供たちが笑ってはやし立てた。


 ヴィンセントは呆然と自らの腕を見やる。

 小机を挟んで前にいるナシェは、心配そうにヴィンセントを見上げて言った。


「先生、大丈夫?」


 ナシェに腕相撲で負けた。

 ナシェの前にやった相手、パウルには瞬殺されたことは仕方がないにしても、だ。

 まさか子供のナシェに負けるなんて。


「また、手が痺れたとかそういうことですか」


 横で見ていたパウルが言った。


「いえ」


 力なく首を振って、ヴィンセントは椅子から立ち上がる。


「お、面白そうなのやってんじゃねぇか」


 キャンデロロが気づいてこっちにやってきた。


「どうぞ」


 キャンデロロにヴィンセントは席を譲る。


「よしパウル。てめえ、相手しやがれ」


 勇んで袖をまくりあげるキャンデロロの腕には、薔薇と女性の名前の刺青があった。

 パウルは言われたとおり応じる。

 勝負が始まり喝采する観衆を尻目に、ヴィンセントはカールたちが座る席へ戻った。


 サムやビルケナウと共にワインを楽しんでいたカールは、ヴィンセントの視線に気づいて言った。


「どうしたのかね。ヴィンセント」

「カール様。後で、ご相談があります」


 サムやビルケナウは、キャンデロロたちの勝負に気を取られている。


「ここじゃ出来ないのかね」


 頷くヴィンセントに、カールは声を落として言った。


「分かりました。今夜にでも私の部屋へ来なさい」


 歓声があがった。

 勝負がついたようだ。


「はあ、パウルが勝った」


 サムが杯をかかげて言った。


「パウルに乾杯」


 乾杯、と同席の者は唱え杯をかかげる。


 キャンデロロがパウルの肩を抱くようにして引きずりながら、戻ってきた。


「やられたぜ、バッキャロー。オレがここに来た時はてめえは今のナシェぐらいだったのによ」

「年には勝てんな、キャンデロロ」


 ソビヤンコが厨房から追加のワインを机に置いて言った。


「今日は、果たしてキャンデロロ様の歌は聴けるのでしょうか」


 ドミニクも皿に盛った追加の食べ物を机に置く。


「おう。ヴィンセントが来て最初の祭日だからな。お前のために歌ってやるぜ、バッキャロー」


 キャンデロロがヴィンセントを指して宣言した。

 カールが口笛を吹く。


 その時、いままで流れていた曲調ががらりと変わった。

 この地方の弦楽器を鳴らしていた村人が激しく弦をかき鳴らす。

 とたんに村人たちが次々に踊り出した。

 リズムの速い騎馬民族特有の曲だ。

 素早い足使いが特徴のこのダンスは、見るからに難易度が高そうである。


「始まりましたよ」


 ドミニクが曲に乗って体を揺すりながら言った。


「私たちは無理だ。ドミニク以下の若者は参加しなさい」


 ファンデイム院長が穏やかに笑う。


「行きますよ、ヴィンセント」


 声をかけるドミニクにヴィンセントは固まったままだった。

 皆の目が彼に集中する。


「なんだ、てめえ。踊ったことねえのか」


 キャンデロロの言葉にヴィンセントは答える。


「歌と同様だとダンスは評されたことがあります。……ワルツだけは練習して何とかなったことはありますが」

「ワルツぅ? 王子さんとお姫さんが、ズンチャズンチャするあれか?」


 キャンデロロの大声にヴィンセントは頷く。

 似合いすぎるだろ、と心中であきれてつぶやくパウルに隣のドミニクが、がっ、と自分の腕のローブをつかんできた。


「分かります、分かりますから。ドミニク様。落ち着いて」


 自分を見上げて訴えてくるドミニクにパウルはため息をついて答える。


「そりゃ残念です。ここにはワルツが踊れる女性はいない。と、言いたいところですが」


 カールが言った。


「男子校にいた私には、授業で女性役をしたことがあります。……どうですかな、ヴィンセント。私をリードする気はお有りかな?」


 手を差し伸べて、カールはいたずらっぽく笑う。

 その手をヴィンセントは観念して取った。


「ほれ、ワン、ツー、スリー……」


 カールの掛け声で二人は皆の前で踊り始める。


 かけ声を引き継いで、サムとビルケナウが指揮を取り始めた。

 踊っている村人たちの中にはふたりのダンスに気付き、踊りをやめて眺める者もいた。

 子供たちには二人を真似する者も出てきた。


「いや、俺が見てもあれは何とかなってるレベルじゃないだろ。なあ、おい」


 眺めていたキャンデロロが隣りのドミニクに同意を求めた。

 しかし、ドミニクは妄想に浸りきるのに夢中でキャンデロロに答える余裕はない。


「はい。私も彼は下手だと思います」


 仕方なくそばにいたパウルが答え、吹き出した。


 ナシェはアキドと腹を抱えて笑った。


 楽しい。

 見たことない踊りを、先生とカール様が踊っている。

 カール様はやけにくねくねと芝居がかった動きをするし、ぎこちなく踊る先生の様子が必死なのも面白い。


 ひと段落して二人がポーズを取り、ダンスを終えた。


 村人を含めたその場の全員が拍手する中、脱力したヴィンセントにキャンデロロが声を投げた。


「バッキャーロ、ヴィンセント。てめえが勝負できるのは酒だけだな。今晩、俺の部屋に来い。相手してやんぜ」


 助けを求めるようにドミニク、パウルを見たヴィンセントに、二人はぶんぶんと首を振って断った。


「おや、じゃあ今夜はお預けですな」


 まだヴィンセントの手を取ったままのカールが笑って言った。

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