第49話 女神ネーデ
ドアをたたく音がした。
机に向かってテス教の聖書を読んでいたヴィンセントは振り向いて返事した。
「はい」
ドアを開けたのはパウルだった。
無表情の彼は常に不機嫌に見える。
暗い照明の中で、浅黒い肌の彼の表情はいつもに増して読み取りにくい。
ばさっ、と彼がヴィンセントの寝台上に手に持っていたものを投げた。
ヴィンセントが目を向けると、それは新聞だった。
問いかけるようにパウルを見上げるヴィンセントにパウルは淡々と告げた。
「あなたがキャンデロロ様と糸を買いに行った時です。その前にキャンデロロ様が私におっしゃった。……えらくその写真にご執心のようだからな。なんに使うかは知らねえが、買って後で渡してやれと」
ヴィンセントはため息を軽くついて微笑んだ。
あの方は。
人をよく見ている。
「お礼はキャンデロロ様に。では」
一言言い置いて、パウルは後ろ手でドアを閉めようとした。
「もう一部、買ったのでしょう?」
彼の背中にヴィンセントは声をかけた。
おどろいたようにパウルが振り返った。
彼の両頬に垂れる編まれた髪の束が、軽く彼の頬をうつ。
「ちがいますか。あなたの分も」
ヴィンセントの言葉にパウルはとまどった様子を見せる。
「せっかくいらしてくださったんですから。少し、話でも。パウル様」
ヴィンセントが立ち上がり、座っていた椅子を寝台の傍らに置いた。
パウルは下唇を噛んで思案しているようだったが、体をこちらに向けると部屋に入った。
椅子をすすめるヴィンセントに首を振り、パウルは寝台に腰かける。
ヴィンセントはかすかに笑って椅子に座った。
「……彼女のように美しい女性は初めて見ました。だからです」
寝台上の新聞に目を落し、言い訳のようにパウルは告げるとヴィンセントを見た。
「はい」
同意して頷き、ヴィンセントは口もとを緩ませる。
「彼女はグレートルイスの女優か何かですか」
パウルが再度新聞に目を落とした。
紙面の半分が彼女の写真で占められている。
口を少し開き、こっちを向いている顔は怒っているような悲しんでいるような、どちらともとれない表情をしていた。
「いえ。そうではないようです」
ヴィンセントは答える。
「記事を読みました。……ゼルダ人の子を宿すなんて、彼女はどうかしている」
パウルがとげのある言葉を吐いた。
「生まれてはいけない子です。それが分っているのに何故」
ヴィンセントは新聞を取り上げると膝の上に置き、見下ろした。
「誰が見ても美しい女性ですね」
ヴィンセントがゆっくりとつぶやくと
「……女神ネーデは、そんな方ではないかと」
パウルがぽつりと言った。
言葉に出した自覚がなかったのか、自分の顔を見てくるヴィンセントに、パウルは我に返ったようだった。
「いえ、こっちの話です」
あわてて目をそらすパウルをヴィンセントは見つめる。
「よろしければ教えていただきたいのですが。……神々の名前に、私はあまりにも無知です」
願い出るヴィンセントをパウルは見返した。
しばらくヴィンセントと目を合わせていたパウルは視線を彼の膝上の新聞に落とし、口を開いた。
「……女神ネーデは、キエスタ西部でとくに信仰されている女神です。非常に美しく、愛と子孫繁栄、豊穣の神ともされます。男神のラミレスとはよく対にされます」
パウルは写真の彼女を見たまま続ける。
「女神ネーデはテス教から派生した唯一の神ではないかと言われています。実在した女性が、この地で神となったのです。彼女はテス教の使徒の中での唯一の女性であり、使徒から外された唯一の人物でもあります。幻の使徒とされている彼女の名は、アネッテ」
パウルはヴィンセントに目を戻した。
「彼女の名は聖書に出て来ません。存在を消されたからです。彼女は賢明でふたりとはいない美女だったそうです。そして聖ギールを深く慕っていました。……ある時、ギールを面白く思わない権力者が彼を無実の罪で捉えました。そのとき彼女は、彼を救うのと引き換えに権力者を含めた十人の男と寝ました」
パウルはヴィンセントの瞳の奥を強く見つめる。
「つまり、彼女の美貌は並外れていて、それほどの価値があったということです。ギールは解放されましたが、彼女はその時男たちのうちの誰か、父親が分からない子を身体に宿していました。彼女はトーラから追放を言い渡されました。……伝説では彼女は子を宿したまま、キエスタ西部に行き着いたとされています」
パウルは少し表情を和らげた。
「……ここからは、キエスタの神話になります。キエスタ神話では、美しさゆえに悪魔に囚われて、悪魔の子を産まされていたネーデをラミレスが助け出し、神々が住むケダン山脈の頂上に連れて行きました。彼らは愛し合い、子供をたくさん産んだ。その子供達がキエスタの山々や、川、湖になったとされています。……実際のアネッテもそのように幸せだったことを祈ります。……その後生涯、妻を娶ることのなかった聖ギールですが、私は彼女への罪悪感からではないかと考えます」
「テス教の使徒が、キエスタの神となったとは。知りませんでした。アネッテとは、神がかった美しさの女性だったのでしょうね」
ヴィンセントは応えた。
「ですから、西部の女性は他の地域の女性と異なり、美しく着飾ります。着飾ることがネーデ神を讃えることになるからです」
パウルは言い終えて一息ついた。
「……あなたは、女性と関係を持ったことはありますか」
次のパウルの質問にヴィンセントは目を見開いた。
「あなたはテス教徒ではない。昔とちがい、今はテス教も妻を持つことは許されています」
パウルが付け足した言葉におされて、ヴィンセントは頷きで質問に告白した。
「何人の方とですか」
「ひとり、いえ、ふたり……あ、いや、さんにん」
途端にパウルの眉が不快そうにひそめられる。
「覚えていないものなのですか」
「あ、いえ、別に酒に酔っていたとか、そういうわけではないのですが」
ヴィンセントは糾問されているような気になってくる。
「あなたの帰りを待つ女性がいる訳ではないのですか」
「……はい。そうです。残念ですが」
ヴィンセントの言葉にパウルは表情を緩ませた。
「あなたほどの方もそういうものなのですか。意外だ」
珍しくパウルは口の端をあげる。
「じゃあ、本国に戻らなくてもいいのではないですか。あなたはこの生活に順応しているようだし」
「そうですね。それもいいかと、最近は考えることもあります」
ヴィンセントは頷いた。
「もしかしたらこの生活が、本来私が求めていたものではないかと。そんな気がすることもあります」
ヴィンセントが膝の上の新聞を持ち上げた。
持ち上げた矢先、新聞は手を離れて床に落ちた。
「どうしたのですか」
「あ、いえ、今手先が痺れまして」
ヴィンセントは答えて、床に落ちた新聞を拾った。
「サソリなんか食べるからではないのですか」
パウルは自らの手を揉むヴィンセントにあきれて言った。
「ちゃんと毒のある尾は取ったのですか」
「店の方が取ってくれたと思うのですが。どうでしょう。……身体はいつも通り火照りますが」
パウルは苦笑する。
「それでは失礼します。あなたは今日の運転で疲れているでしょうから」
立ち上がるパウルにヴィンセントはあわてて言った。
「いえ、よろしければ神々の話の続きを請いたいのですが。テス教についてはここにある書物から学べますが、キエスタの神々についてはお手上げ状態ですので。もし、パウル様がよろしければですが。……キャンデロロ様がおっしゃったように、今夜はなかなか寝られそうにありませんので」
パウルは再び苦笑して腰を下ろした。
「良いのですか。かなり話しが長くなりますが」
「ええ、勿論です」
そう返事するヴィンセントにパウルは幾分くだけた様子で話しだした。
「始まりは、すべてケダン山脈です……」
目に耀きを浮かべて話すパウルを見て、ヴィンセントは彼がテス教と同様にキエスタの神々も愛してることを感じとった。
***********
ヴィンセントの部屋のドアの前で、ナシェはノックしようとした手を止めた。
今日は無理かな。
中から聞こえてくるのは、パウルさんの声だ。
時折聞こえるヴィンセントの声に、彼らの話が弾んでいるのが分かる。
こんな楽しげな声で話すパウルさんなんて初めてだ。
少しうらやましいと思いながら、ナシェは静かに部屋の前から立ち去った。
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