第39話 聖ギールの化身

 午後のケダン山脈を眺めながらナシェはアキドの隣に座った。


 ケダン山脈は気だるく、吹く風は心地よく頬をくすぐる。

 目の前のヤギたちはおもいおもいの場所で寝そべっている。

 草の上で寝転がっていたアキドはナシェが渡したパンを受け取って起き上がった。


「新しい人が来たろ」


 アキドがパンにかぶりつきながらナシェを見る。


「サヒヤさんが言ってた。背が高くて色が白くて、ラミレス神のようだって言ってたぜ」

「うん。かっこいい人だね」


 ナシェもアキドと半分こしたパンをちぎりながら口に放り込む。


「僕は聖ギール様みたいだと思ったな。たぶん、聖ギール様ってあんな感じだよ」

「わっかんねーよ誰だ、ギール様って。テス教の使徒のだれかか? 覚えてねえよ」


 もぐもぐ、と口の中をパンでいっぱいにして、アキドは言う。


「八人の使徒で一人だけ、妻を持たなかった方だよ」

「……あーいたな、拾って育てた養子が百人いたっていう人か。そりゃだれも嫁にこねーだろ」


 アキドは水筒から水を飲み、ナシェに渡す。


「自分の子でもねえのに。たいした人だよ」

「ギール様は、美丈夫で女の人から求婚はひっきりなしにあったらしいんだ。それを断り続けて、子供らを育てたんだって。頭のいい人で、五つの国の言葉を話せたらしいんだ。王が、他の国と話し合いをするときには必ずギール様を呼んだって」


 テス教はグレートルイスの国民の三割が信仰する宗教だ。

 国民の七割が信仰するメイヤ教とは主とする神は同じである。


 宗祖トーラを始めとし、八人の使徒を聖人とする。メイヤ教はトーラの弟子である使徒五人を主に支持し、テス教は残り三人の使徒を支持する。


 トーラの弟子五人の使徒はいずれも華やかな職につき、子だくさんでもあった。子供たちは、王族、貴族、その時代の権力者、商人といった一族と婚姻関係を結び、強大な力を得ていった。

 彼らは芸術家を擁護し、そのおかげで中世のグレートルイス文化は大盛したといっていい。

 ちなみに、グレートルイスの華麗なる一族、ベーカー家はその子孫のうちの一つである。


 反対にギールを代表とする残りの三人の使徒たちは、学問、倹約、勤労の代名詞であった。

 メイヤ教徒は、ストイックな人物を揶揄するときにギール派という言葉を使う。


 昔から貧しい階級層や学者や教育関係者の一族がテス教を支持してきた。

 移り変わる時代の波により、減少するテス教徒の状況を危惧し、隣の国キエスタに信者獲得をもくろんだのはもう百年ほど前の話であるが、いまだに布教の方は芳しくない。

 それよりも後から来たカチューシャ教の方がキエスタの信者を増やしているという。


 カチューシャ教は何と言っても、おおらかである。

 なにしろカチューシャ教徒であっても、他の宗教を信仰してもよい。

 二股、三股をかけてもいいですよ、というのがカチューシャ教の最大の特徴だ。


 三百を超える神がいるのがキエスタだ。

 地方により重きを置く神に多少違いはあるが、三百の神に優劣はない。

 さきほどの話に出てきたラミレス神はそのうちのひとつの神だ。

 美しい若者の神で恋、子孫繁栄を司る。

 女好きが過ぎるため、女神ばかりか人間の女性にまで手を出して子供をなした神でもあるが、愛きょうがあり、神々や人間からも人気の神であった。


 唯一神のテス教やメイヤ教とちがい、カチューシャ教がキエスタの神々のうちの一人に受け入れられたのは、考えてみれば自然である。


 アキドは五歳になる前までは、ケダン教会が出す焼き菓子目当てによく教会へ来て、修道士の説話を聞いていた。だからテス教について全く知らないわけではないが、大きくなって足が教会から遠のいた今、テス教の知識は頭から締め出されつつあった。


「ヴィンセントさんて言うんだ。もうキエスタ語が話せるんだよ。東部や南部のキエスタ語も分るんだよ」


 ナシェが話すとアキドは素直に驚いた。


「すげえな。なに人だよ、その人」

「な、すごいだろ。ギール様みたいだろ」


 ナシェはうれしくなって得意げに言った。


 キエスタ語は地方の方言が強く、同じキエスタ語とは思えないくらいのものもある。

 ナシェたちは北部に住むキエスタ民族だ。ケダン山脈を越えたところに住む、西のキエスタ民族とはそう言葉は変わらなく、通じることが可能である。

 しかし、密林に近い東部、砂漠の南部のキエスタ語はもう別の国の言葉としか思えない。


 一度、行商で東部のキエスタ人が来たことがある。

 一生懸命に話してくれたのに申し訳ないが、村人たちにはちんぷんかんぷんで何をいっているのかさっぱりわからず、彼が気落ちして帰って行ったことを覚えている。



「ドミニク修道士が、ヴィンセントさんに学校の先生をやってもらったらどうか、って言ってるんだ。まだどうなるかわかんないけど、もし学校が始まったらアキドもおいでよ」

「やだよ、めんどくせえ」


 アキドは鼻を鳴らした。


「教会の固い椅子に座って、ひたすら字の練習させられんだろ。ケツが痛くなっちまうよ。オレはここで昼寝してるほうがいいや」


 ナシェは残念そうな顔をした。

 アキドが字を覚えて本を読んでくれたら、いっしょにその話ができるのに。

 面白い話がたくさん本には載ってるのにな。


「お前がオレに読んでくれればいいだろう。今までそうしてくれたじゃんか」


 ナシェの表情を見て、解したアキドがそう言った。


「アキドが読んだ本の話をいっしょにしたいんだよ。僕が朗読すると、僕が好きな登場人物はアキドも好きになっちゃうだろ。それだと面白くないよ」

「わっかんねー。おんなじ奴を好きになって、どこがだめなんだよ」


 アキドは不思議そうに言う。

 ナシェはどう説明したらいいのかわからず、ため息をついた。


「本を読めたら、ヤギの番してるときに昼寝以外で本を読むことができるんだよ。時間なんてあっという間に経っちゃうよ」

「昼寝してても、時間ならあっというまに経つぜ。別にそこまでヒマじゃねえよ」


『ヒマが一番の贅沢、富める者にも貧者にもそれは平等』

 と、アキドは決まり文句を言う。

 キエスタの古語だが、これだけは今でもよく使われる言葉だった。


 富裕層には皮肉を込めて、それ以外の者にはもっと働けよ、という意味をこめた言葉である。


「もっと、量が多い菓子を出してくれるんなら、学校に行ってもいいけどよ。どうなんだ?」


 アキドはおどけた調子で言った。


「わかんない。ソビヤンコ修道士に言っとくよ」


 ナシェは考え込みながらそう答えた。

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