第38話 ナシェ
晩餐準備の折、ナシェはわくわくしてテーブルの下で足を動かしていた。
厨房担当の修道士が前に皿を置くのも、今日のメニューが苦手なハーブでマリネした鶏肉であっても、ナシェは気もそぞろで気づきもしなかった。
どんな人なんだろう。
車からおりた人は、そのままドミニク修道士、パウル修道士に連れられて院長さまの部屋へ行ってしまった。
ここに、しばらくいるのかな。
この村にいると、いつも同じ人ばかりにしか会わないから、たまに里帰りした村の男の人や行商の人が来ると、ナシェはどきどきする。
それは村人も同じで見慣れぬ人が来ると、みなが一斉に出てきてその人を取り囲む。
この村の外での話をみんな聞きたいのだ。
修道士たちが部屋に入ってきて、テーブルに着きだした。
このケダン教会にいるのは、ファンデイム修道院長、キャンデロロ副修道院長、長老修道士たち、ビルケナウ、ソビヤンコ、サムの3人、カール修道士、ドミニク修道士、パウル修道士、そしてナシェの9人だ。
ファンデイム、ドミニク、パウル、そしておそらくあの人の席が空いている。
はやく来ればいいのに、とじれったく足首を曲げたり伸ばしたりしているナシェに、カール修道士は目をぱちぱちさせて、大人しくしなさい、と合図を送った。
肩をゆすってカールに合図を仕返し、下を向いたナシェはようやく皿の上のメニューが大嫌いなものだと気づいた。
厨房担当のソビヤンコ修道士に文句を言おうと、口をとがらせ顔を上げたナシェはそのまま息をのむ。
ちょうど、ファンデイム修道院長を先頭に、ドミニク、パウル、そしてあの人が入ってくるところだった。いつの間にか皆と同じ修道士のローブを着ている。
うわあ、高い。
ナシェは目をみはった。
パウルさんより、高いや。
こんなに背が高い人は初めて見た。
ファンデイム修道院長が立ち止り、みんなにむかって言った。
「みなさん、彼は修道士を志し、グレートルイスの東オルガンから、ここ、ケダン教会へやってきました。ヴィンセント、みなに挨拶を」
院長は彼に前へ出るようにとすすめた。
ローブのフードを被ったままだった彼は、一歩前に出てフードをとった。
「ヴィンセント・エバンズと申します。よろしくお願いいたします」
ナシェは口をぽかんと開けてヴィンセントに見入った。
かあっこいい。
行商の人がもってくる雑誌の写真に出てくる人みたいだ。ううん、あれよりかっこいいや。
パウルさんもかっこいい方だけど、この人と並ぶと普通になっちゃうな。
ナシェはヴィンセントの顔を見つめるのに必死で、院長の話をまるで聞いていなかった。
「聞こえないのですか、ナシェ」
大きめの声でファンデイム院長が言った。
は、と気づくと、その場の全員がナシェのことを見ていた。
「はい」
びっくりして、ナシェは立ち上がる。
「なんですか、院長さま」
「ヴィンセントさんに、ご挨拶しなさいと言ったのです」
ファンデイム院長は眉をひそめた。
「あ、はい。……僕は、ナシェです。……はじめまして」
あわてて名乗ったナシェの顔をヴィンセントはまじまじと見つめた。
ナシェは目がチカチカした。
「ナシェ君は、おいくつなのですか」
よく通る心地よい声で、ヴィンセントが聞いた。
「もうすぐ8歳になります」
キエスタ語で答えたナシェは、ヴィンセントがキエスタ語で質問したことに気付く。
キエスタ語がもうしゃべれるんだ。
ここの修道士の半分は、キエスタ語はカタコトだ。長老三人にいたっては、キエスタ語習得をすでに放棄している。
キエスタ語がそれなりに扱えるのは、ファンデイム院長、ドミニクとパウル、そして子供のナシェだった。今までは。
「ふた親を亡くした子です。生まれた時から、ここにいます」
ファンデイム院長が言った。
ナシェが座り、隣のカール修道士が立った。
順々に名を告げていき、副院長のキャンデロロで最後になる。
キャンデロロは、もとグレートルイス東海岸出身の漁師だ。彼の顔のシワは、海上の陽射しを浴びてきたため、他の誰よりも深く刻まれている。なおかつ、若い時に喧嘩をした際につけた傷が額から片頬に斜めに走っており、なかなかの凄みがある。
「キャンデロロです。よろしく」
キャンデロロは普段通りのしかめ面で挨拶した。
「以上が、この神の家の兄弟たちです。皆さん、新しい兄弟を歓迎しましょう。ソビヤンコ、今日は晩餐にワインを出してください。ヴィンセントが来た祝賀会です」
ホ、とドミニクが喜んで音なしで手を叩いた。長老たちも顔を見合わせて微笑み、カールは口笛を吹いた。パウルも心なしか嬉しそうな表情である。
しかし、キャンデロロ副院長だけは相変わらず苦味ばしった顔を変えようとはしなかった。
ソビヤンコがワインを手に厨房から戻り、皆の杯に注いでいく。最後のナシェの杯にも、
「ナシェは、半分だけ」
と、ソビヤンコが言って注いでくれた。
「では」
副院長のキャンデロロが食前の祈りをささげ、晩餐が始まった。
「ヴィンセントはキエスタ語が堪能なのです。本日の食材は、彼のおかげでいつもの半額で仕入れることができました」
ドミニクが早速、笑顔で語り出した。
「ほう。それは素晴らしい」
長老の一人、ビルケナウが言った。
「どこで習得されたのかな」
もう一人の長老、サムも続ける。
「カレッジでキエスタ語を専攻しておりました」
ヴィンセントは答えた。
「それだけではない。彼はキエスタ各地の方言も使い分けることができるのです」
ドミニクがまるで自分のことであるかのように得意げに話す。
「はあ、それはまた。どうやって」
カールがナイフで肉を切る手を止めて、ヴィンセントに聞いた。
「……キエスタ各地出身の友人がおりました。彼らとの交友で学ばせて頂きました」
「最近ではキエスタの留学生も増えてきたのですな。喜ばしいことです」
カールは笑みを浮かべて、
「どちらの大学かな。実は東オルガンに親戚がおります……」
と身を乗り出してヴィンセントに話し掛けた。
ナシェは杯をくわえてワインをちょびちょび舐めながら、ヴィンセントを観察した。
こっちを見てくれないかな。話し掛けてくれないかな。
期待を込めてヴィンセントを見つめるが、彼は皆からの問いに答えるのでいっぱいだ。
それでも彼から目を離さないでいたナシェは、ふいに彼の表情が固まるのに気付いた。
咀嚼を止め、目の前の皿にヴィンセントは目を落す。
それは一瞬のことで、すぐに彼は表情を元に戻して咀嚼を始めた。
けれどもナシェには分かった。
ヴィンセントさんもこのマリネが苦手なんだ。
そう思うと嬉しくなって、ナシェは思わず微笑んだ。
その時、ナシェの視線を感じたのかヴィンセントがこっちを見た。
ナシェの胸が飛び上がる。
びっくりした拍子に、くわえていた杯を落としてしまった。
「バッキャーロ! ナシェ、お前」
すかさずキャンデロロ副院長の叱責がとぶ。
「ごめんなさい」
あわてて倒れた杯を起こすが、テーブルにはこぼれたワインが小さな水たまりをつくっていた。
「これで拭きなさい」
隣のカールがハンカチを差し出す。
ナシェはお礼を言ってテーブルを拭き始めた。
やっちゃった。
ヴィンセントさんに行儀が悪い子だと思われたかも。
頬を赤く染めて、ナシェは拭き終える。
ちろり、とヴィンセントを見ると、彼は再びドミニクの賛辞を受けていた。
「……それで、彼が店主に値段を掛け合ってくれたのです。今まで言葉が通じないからと、聴く耳を持たなかった店主が渋々顔で交渉に応じてくれました」
「バッキャーロ、ドミニク、てめぇ、今までなめられ過ぎなんだよ。買い出し当番、三年やってるくせしやがって」
キャンデロロの声が段々と大きくなっている。
キャンデロロの顔を見ると、赤く染まりつつあった。
実は彼はかなりの下戸である。
ワイン一杯ですぐ酔える体質なのだ。
「すみません。しかし、私にはキャンデロロ様のような威厳は皆無ですので……」
申し訳なさそうにドミニクが謝る。
「だいたいパウル、てめぇがついてながらなんだバッキャローめが。そのでかい図体はハリボテか」
「申し訳ありません」
パウルは儀礼的に謝罪する。
「しかし、これからはヴィンセントがいてくれるので心強いですね。彼だと安心できます」
にっこりとドミニクが笑った。
「バッキャーロ、ドミニク。お前もヴィンセントにしっかり値切り方を教わりやがれってんだ」
「はい、それはもちろん……。ヴィンセント」
内緒話をするように、ドミニクはヴィンセントに小声で言った。
「キャンデロロ様はバッキャーロが口癖なのです。あなたも、これから言われるでしょうが、気になさらないように」
「そうそう。彼にとっては、挨拶と同じようなものなのです。東海岸では、ご機嫌いかが、はバッキャーロと言うらしい」
聞いていたカールが笑顔で口を挟んだ。
「バッキャーロ! カール! お前たちがヘマをしなければ、こんなにオレも言わなくて済むんだよ」
そう言うキャンデロロの顔は真っ赤だ。完全にアルコールが回ったらしい。
その時、ヴィンセントがキャンデロロの顔色を見て、問うた。
「……バッキャンデロ様は、お酒が弱い方なのですか?」
その場の全員が目を見開いた。
ドミニクが開いた口を手でふさぎ、ナシェが、あ、とつぶやき、パウルが吹き出すのをこらえようと口を歪ませるーー。
「バッキャーロ! 俺の名前は、キャンデロロだ!」
キャンデロロ副院長の怒声が響き渡った。
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