第13話 ハタハタのダンスと和江さん
ハタハタの光る体を見ていた。
踊るように泳ぐ群れの姿を見つめる。
すばしっこい姿が、キレのあるダンサーに思えて、和江は水槽に顔を近づけ、笑顔で、見つめていた。
(このままずっと、見つめていたい・・。)そんな気分だった。
足元には花柄の刺繍がついた黒いリュックが、時間とともに暖かくなった。
電車とバスを乗り継ぎここに来た。
なぜ?きたのか?一人できたのか?
あのね、それは、どうしても来たかったから。
理由はこれだけ。
暖かい春の日差しの中、足がここにたどり着いた。
泣かない。泣かない。と思いながらも、水槽のしずくのように涙が出る。
あのね。
あのね。
お父さん。
ごめんね。
なんでもないよ。
毎日、あの部屋に通う日が続いた。
「おはよう」と挨拶しても、もう「おはよう」と返す言葉も聞こえない。
暖かい日差しの入る病室には、新しい患者さんがいるのかな?
見知らぬ顔になっているだろうね。
私が来ても、だれも、あいさつする顔見知りはいないだろうね。
閉め切ったクリーム色のカーテンを開けると、点滴をした夫の武史がいた。
「お父さん。おはよう」と話すと、目が動きこっちをみて「おはよう」と話す。
「今日は早かったね」
「雪が雨に変わったよ。そろそろ春になりそうね」
「お天気がいいわよ。」
武史は和江が話す言葉に、ひとつ、ひとつ,うなずきながら笑った。
乾いた唇を湿らせたガーゼでふき取る。
血の気のひいた冷たい手をなでる。
狭いこの場所は二人だけの場所。
武史は大腸がんだった。
退職後、受けた血液検査で、肝臓がんの疑いがあった。
肝臓がんから見つかった大腸がん。
大腸から転移して肝臓へ。
残りわずかの命の炎を二人は見つめた。
一日、一日が大切な時間。
五分進む時計も、当たり前に過ごしてきた一日も、貴重な時になった。
お別れの時が進む。
安江は62歳。
武史は65歳。
「まだ若いよね」
そう、まだ人生の幕を閉じるのは早い。
せめて二人が80代になってから。
がんの進行は速かった。
宣告されてから3年が過ぎた。
「もうだめかも」の日も。
調子が良い日も。
そして抗がん剤が効き、希望の日もあった。
おしゃべりのない静かな部屋。
詰所近くの部屋は、看護師さんの足音と、器具を運こぶ車の音がする。
春夏秋冬。
季節が変わるごとに何度も入退院を繰り返した。
いくつもの部屋を変わり、おそらくこの部屋が最後の部屋になるだろう。
透き通ったプラッチック製のアンパンマンのコップが眩しかった。
日差しが当たると、光る。
入院した日に、慌てて買ったな。
病院の近くにある西松屋で、買った。
今思うと、このコップでよかった。
武史は起きると目に映るかわいいアンパンマンに元気をもらうだろう。
「昔、あっちゃんが小さいころ、アンパンマン好きだったよな~」と、次男坊を思い出し笑った。
笑顔の日、つらそうな表情を見る日。
そして物静かな日。
「お父さん」と、話しかける声が少なくなるほど、眠る日が続いた。
静かな、静かな、部屋で、やせた体に呼吸器をつけて、眠るように武史は息を引き取った。
何度も、何回も、通う病院には、もう武史の姿はない。
和江は、初めてこの病院に来た日を思い出していた。
電車に揺られてゆらゆら。
手すりがゆれる。
前後にゆれる革の輪。
滑るように、滑らかに電車は走る。
行きつけの小さな街の病院で、がんの疑いがあると、言われたあの日、すぐに予約をとり大きな病院へ来た。
入院と手術を進められた。
二人は売店でお茶を買い、ジッーと、お茶の銘柄を眺めた。
窓の外には、大きな雪の粒が落ちていた。
「寒いね。」
「今年は、雪が早いね・・・。」
電車は滑るように、前へ、前へ、スピードを上げて走る。
和江は変わる景色を眺め、あの日のことを、思い出すごとに、じんわり涙があふれた。
武史は、和江の心配をして、年金の計算を始めた。
どこまでも一家の主として、家族の生活を考えた。
「桜を見たいな・・・。」
ぽつりと言葉を吐いた。
残り僅かな命の炎と、通り過ぎる街の景色。
今を生きる時間。
和江は、毎朝、レースの編み物と、紅茶をリュクに詰め込んで、坂の上にある病院へ向かった。
ホスピスは、人生の最後を迎える静かな場所。
家族たちは,みんな同じ苦しみを味わい、それでいて受け止めている。
「いま、なんじ?・・・。」
「午後4じすぎ?」
「・・・早く、迎えにいきなさい」
「なに?」
「あっしと、こういち」
もうろうとした武史の記憶の中で二人の息子がいた。
保育園に迎える時間を思い出しているのか?
大学へ進学したときの冬やすみの話だろうか?
「わかったよ・・・。」
「・・気をつけていきなさい・・。」
「わかった・・・今行くから。」
「早く、迎えに行ってあげなさい。少し寝てるから・・。」
「わかった・・。」
涙で和江は、武史の顔が、見えなかった。
これが最後の言葉だと、とっさに感じた。
お別れの時間が近づいている。
もう、話すことは、ないだろう。
なぜか、そう思った。
看護師さんがドアのそばでうなずいてた。
点滴に、眠らせる薬を入れるという。
武史が目覚めることはないだろう。
このまま眠らせるように、命の炎が尽きるのをまつ。
やっはり、予感は的中した。
最後の会話。
最後の会話だった。
揺れる電車の先には水族館があった。
乗り込む人はみんな楽しそう。
ホスピスに向かう途中の駅に「たのしい水族館」の看板があった。
イルカとペンギンの写真とイラスト。
雪の日。
泣いた日。
あの日の最後の日。
看板の「イルカ」は、笑っていた。
人生は、はかなく短いもの。
武史と和江。
若い二人が出会い。
家を建て、子育てして、子供たちを学校へ通わせ、社会へ出す。
長くて辛いと思った仕送りの日々もあった。
今思うと、懐かしく、楽しかった日々。
ただガムシャラに、夫と二人力を合わせた。
武史の最後の朝。
「水族館」の看板の「みんなで来てね」のみんなが気になった。
なぜか?あの朝、気になった。
あのね。
雪まざる小さな雨で、涙で見えない。
イラストのイルカに、話しかけた。
イルカは、ただ、笑っていた。
「笑って」と、話しかけられる。
「遊びにおいで」と話す。
「いまは行けない」和江は返す。
数日後。
駅のホームに一人でただずむ。
見舞う相手のいない場所には行けない。
ホスピスには、もう行けない。
武史はいない。
仏間にある夫の写真を眺めるの辛いから。
(行こうよ。)(おいでよ)
リュックを背負い、いつもの電車に乗った。
行き先は笑顔のイルカが待つ「水族館」
人の多さに驚きながらも、若い人のパワーに元気をもらう。
笑顔、活気がある建物は、涙が無縁だった。
ひさしぶりに、眩しい光の中に、和江は入る。
一人で切符を買い。
懐かしい、変わらない水族館のゲートをくぐった。
海の底にいるような海トンネルをくぐった。
光る魚のお腹を眺める。
「わ~っ。すご~い」
思わず声がこぼれた。
群れをなしスピードを上げて泳ぐハタハタの群れ。
海の中で和江も一緒に泳いでいるように思える。
「ここは、竜宮城ね・・。」
和江が泣いていた日も、武史が雪を眩しそうに見つめていた日も。
ハタハタは泳いでいた。
強く激しく、ちから一杯に、群れにはぐれないように、ひたすら泳ぐ。
「きれい・・だね~君たちは・・。」
ヒンヤリとした水槽に指をのせる。
小さな魚は、生きている。
精一杯、生きている。
二人は一人になった。
悲しすぎる現実を受け止めれないまま、涙の日々を過ごした。
地方で暮らす息子たちは、心配していた。
「母さんは、大丈夫だよ・・。」と答える声が震えた。
ひとりの人が、いなくなったって、社会は変わらない。
和江の生活は変わったけど・・・。
洗濯した下着と、服をたたみ、タンスへしまうたび、仏間の武史の写真が悲しくなった。
「お父さんは、出張中だね・・。」
重い気持ちをごまかした。
冷たい水槽を触ると、大きな魚が口を開けてこっちへ向かってきた。
「かわいいね」
その上には円を描くようにハタハタが泳ぐ。
群れをただひたすら眺めた。
水族館がこんなに素晴らしい場所だったなんて、思わなかった。
子供たちの小さかったことを思い出すから、来たくないと思っていた場所。
「ハタハタ・・・。だってぇ・・・?。」
文字を覚えたての小さな男の子が、後ろからくる若い母親に話した。
母親はベビーカーにのる赤ちゃんに、夢中になって相手にしなかった。
イラついた男の子は、さらに大きな声を出し話した。
「ハタ・ハタ。というおしゃかな・・。だってさぁ~」
小さな手には、クシャクシャになった水族館のパンフレットが握られていた。
和江は男の子に話しかけられた。
「そうだね。ハタハタというお魚だね。速いね」
男の子は嬉しそうに「うん」と話した。
「すご~い」
「そうだね」
「うん」
ハタハタは元気に泳いでいた。
前にむかってぐんぐん。
元気に、元気に泳いだ。
いつしか、和江も笑顔になっていた。
男の子に追いついた母親がきた。
「ありがとうございます」と話す。
汗がにじんだ額をみて、和江は昔の自分を思い出した。
手のかかる次男に泣かれ、なんど見知らぬ中年女性に助けられたことか。
「私も若いころ、おんなじだったのよ。小さいころは大変なのよ。」
暖かい小さな指が和江の指を握りしめた。
見上げた小さな男の子の瞳が、眩しかった。
かわいい大きな目が綺麗だった。
「ひらがな?読めるのね」
「うん」
「すごいね」
照れくさそうに笑う。
水槽の中では、ハタハタが、踊るように泳いでいた。
和江は光るお腹を眺めた。
元気に・・。元気に・・・。
残されたものは、いつまでも泣かない。
今を生きる。
今を元気に。
笑顔でね。
ガムシャラに働き、そして、子育てして、真っ黒だったスケジュールのカレンダーも、予定表も、引き落としされた通帳も、すべて頑張って生きてきた証。
「バイ、バイ」
手をふる男の子と母親の後ろ姿が、海の中に消えていく。
「バイ、バイ」
(バイ、バイ・・・。涙の私。)
和江は(今日、水族館へ来てよかった)と、思った。
これから、また、今を生きる。
(ハタハタのように元気に・・・。すばしっこく・・。踊るように・・。)
「ダンスでも習いに行こうかな~。」
ハタハタは忙しく動き回った。
(腹減ったな~)と話しながら。
泳いでいた。
(まってくれ~)と、若いハタハタ君は、必死に群れのスピードについていった。
大きな口のエイは、(バルるるるるる~)と、手を広げ(食ってやる!)と笑っていた。
パノラマ水槽の前の抱き合うカップルは、ようやく離れ、体を伸ばした。
「タケさん~お願い!」
「わかりました!」
台車に乗せた包装紙を運ぶ、男性が走っていった。
「キュキュユユユユユユウ~」と、館内放送が入った。
「イルカショーが始まりますので、ぜひ、おこしくださぁい・・・。ブツ。」
「いくぞ!」と手をつなぐカップルが小走りに走りだした。
一瞬、和江は、(顔見知りでないか?)と思った。
イルカショーへ向かう人が、急いで、プールへ向かっていた。
和江は、立ち止まり、ハタハタのお腹を見上げていた。
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