第16話/10 アリス・オン・ワンダーランド



 開店は日が沈んでから。もちろん客は入っておらず、そのジャズバーのフロアは本来、マスターもいない静寂だけが佇んでいるはずだった。


 なのだが、今その空間には五人の人間が静かな談笑をしていた。


 ひとりはバーのマスター。それから今夜このフロアで演奏を予定している三人組のジャズユニット。残りのひとりは足しげく、というほど積極的には訪れない、けれど長い間……世の中の流れと共にこのバーに通い続けている老人、オズだった。


「なんだ……お前さんたちが今日演奏するとわかっていたなら孫を連れて来たんじゃが」


 オズが肩を竦め、大げさに嘆くポーズだけすると三人は顔を見合わせてそっと笑った。


 ――壁掛けのテレビモニターにノイズが走る。デタラメに表記を変えながら落ちていく数字の列は電子の雨のようだった。


 次には、退屈なニュース番組は熱狂を孕んだ空の決戦へと差し変わる。


 カメラ搭載の飛行ドローンが複数。映し出すシーンは、アクション映画の終盤じみた地上戦と、その争いの後方を治めたスピーカーを持った少女。当事者たちより白熱する声は遥か上から降り注ぎ、そこへ向かう、大空へと咲いた七枚の光の翼。対峙する赤と青の少女。切り替わるそのシーン全てに、その場の五人は何事か、と目を剥いた。


 ……やがて、オズはため息を吐くと、汗をかいたロックグラスをゆっくり揺らして、僅かに氷の溶けたウィスキーを一口。


「……やれやれ。まぁだそんなところを飛んでおったか。本当に物分りの悪い小僧じゃて……」


 身の丈に合わない巨大なボードに振り回され、その度にロッドを突いては修正をし、それでも空を目指すジャックの姿に、出来の悪さを褒めるような語調で言った。


「では、が?」


「あぁ、儂の不肖の孫じゃ。アレはひどい。儂はそんなつもりでボードを創ったわけじゃあ、ないんだがのう」


 サックス吹きの男に答えてから、魔法使いは自らの為した奇跡の動機を口にする。


「……どうして、ひとはなどと思ったのだろうな?」


 空への願望。重力からの開放。


 それは、生活圏を広げる獣としての本能――ではない。ヒトという種は、生き抜く為に翼を生やした始祖の鳥とは根本が違っている。初めから空を飛ぶことを前提に設計された昆虫とも違う。


「だから、ソレは未開への挑戦ではなく――かつてからこその『郷愁』なのだろうよ」


 その背に翼があった過去は無い。その腕が羽ばたいた過去もない。


 それ以外の方法、それこそ古代の魔法か――それとも、肉体的ではなくもっと高次の意味でかはオズには解らない。それでも人類は『飛行していた過去があった』と言いきった。


「……だから、貴方はFPを?」


「おかげで過去に一悶着あったんじゃがな?」


 笑う。地上の覇を得るために空を飛ぶすべを求めるなんざ無粋の極みだと。



「空は広いからの。カレンはその辺、ジャックの奴よりいたろうよ。のう小僧? お前さんが乗るそのボードは、お前さんの為に創ったわけじゃあないんだ。さっさとソレに気づかんと醜態を晒す羽目になるぞ」


 素人目に見ても危うい飛行。自らが手がけたのボードは乗り手を主と認めず暴れ続け、目指すその先を映し出したカメラの向こうで、自らが手がけたのボードを乗りこなす少女を見て、また少し笑った。



「……驚いた。アレはそれこそ、駄目なモノじゃったが。あのお嬢ちゃんには舌を巻くのう……」



 そのFPには名前がない。データ収集に耐えた人材はたったの一人。不老不死をうたうチェシャ猫の遺したソレを基に、今日こんにちのFPボードがあると言っても過言では無い。


「ますます分が悪い。ドロシーのお嬢ちゃんも、まぁ……アレじゃあ駄目だな。面構えが鋭すぎる。空は、もっと愉しんで飛ぶものじゃろうに」


 テレビから視線をきる。隣にいた三人組は、いつのまにかステージに立っていた。


 今度は何事か、と小さく驚く老人に、三人のジャズユニットは悪戯が成功したような笑みを浮かべて答えた。


「ここからでは届かないことはわかっていますが、どうにも熱が抑えられない。だから、今になって後悔を」


 今日の出演は、夜のこのバーではなく、のように、あの舞台でやれば良かったと。


 そして告げる。


「祝勝会をするのなら是非お呼びください。



 始まる演奏。届かないとわかりきっているエール。M/A/Dの三人は、それでも届けようとするかのように、オズとマスターしかいないフロアで最高しずかに熱の入ったセッションを始めてしまう。


「…………店を早く開けるか?」


 オズの問いに、マスターは。


「いいえ。たまには占有も気分が良い」


 大人の味わう幼さを優先させた。



 /


 <レイニィ>紫陽花テキストの手により全世界に繋がれた回線は、大多数の人間を巻き込み、またごく少数の人間の要望に応えてその決戦を映し出す。


「……セイラ、頑張って……!」


 両手に汗を握り、画面に食いつく友人も。



「姐さん! 発注が山のように来てンですけど!?」


「黙ってな! 今イイとこなんだ……そうだろ、嬢ちゃん」


 椅子を明け渡し、仕事に打ち込んでいた前任者も。



「はーッ! はーッ! くそっ、なんでボクがこんな役……!」


「らっしゃっせー……急ぎです?」


 舞台から降り、あとは流れていく他人の物語のエキストラでしかなかった誰かも。



「お。映像付きが来た。誰か知らないけど良いコトしてくれるなあ。良い夢が見れそうだ」


 約束が果たされて何より、と頷く猫も。



「……ねえベディ、どうしてぼくはあそこにいないんだろう。娘の応援くらい、行っても良かったと思うんだ」


「貴方がマフィアの王様だからよ、アーサー様。アタシだって貴方の側近じゃなかったら行きたかったわぁ」


 重責を嘆く家族もすべて、確かに視線と心を奪われた。



 /


 Cチェシャから譲り受けたFPボードの原型アーキタイプ。着色さえもされていないそれに、アリスは<ワンダーランド>と名前を付けた。


 ヒトを空へと飛ばすための機構でありながら、人体にかかる負荷をまったく考慮していない出力と操作難度の高さ。


 それを、暴政を敷く女王のようにねじ伏せて、アリスは誰より高い場所に今、立っている。


 視線の先にはドロシーがいる。決意を宿した瞳はいっそ痛々しく、トレードマークの赤いワンピースは太陽よりも傷からこぼれる血を連想させた。



「……これは、わたくしの落ち度ね。ごめんなさい、ドロシー。今の貴女に、なんてやっぱり無理。……さぁ、かかって来なさいな」


 ……青い少女は、それを悔やんだ。やっぱり自分たちでは、それは荷が重いことらしい。望んで良いのなら、もう一度、憎まれ口を叩き合いながら、笑って飛びたかった。


 かつて憬れを奪った目の前の少女を、幼さから恨んだように。


 今、少女の隣にいない少年の不在と共に、自分の役者不足を恨んだ。



「――――ッ!」


 吸い込んだ息も吐かず、二度目のカットイン・ヴリューナクを繰り出すドロシー。


 目を閉じる。光の槍は時間を食らうかのように、一直線に――胸が、軋みを覚えるほどの真摯さで迫り来る。




 アリスは歌うように、不思議を口にした。


「……Eat me」


 ――瞬間。ドロシーの視界から


「Drink me」


「――――え?」


 声が真後ろから聞こえた時、少女は走るを完全に断たれて墜落していた。




『ワンダァァァァァァ!!! 幻のトリック!! <シャドウレィト>だッ! 生で拝めるたぁ思わなかった!! 勝利の女神は、<WonderLand>のリーダー、アリスに大喝采だぁぁぁぁぁ!!!』



 影すら遅くシャドウレイト


 僅かな急降下で敵の死角を取って、を走り、急上昇。直角に相手の道を断つそれは、間違いなく


 FPの黎明期、理論上でのみ可能とされ、実際はこの瞬間まで目撃されなかった――ランスロットでさえ繰り出すことのできないとされた、DJマシィの言葉どおり幻のトリックだ。


 達人の一閃に斬られたという自覚のない肉体のように、一拍の間を置いてから<サンデイ・ウィッチ>は血を吹く代わりに光の粉の噴出を止めた。


 慣性までも奪われ、唐突な自由落下に遠のいていく飛行船。



 手を伸ばす。遠近感が出す錯誤では、この手を閉じれば掴めるくらいに小さくなったゴール。


 忘れていた息を吐き出して、ドロシーは。


「……ボード・スパイラル」


 自らの翼を、射出した。


 重たかったのは、何より自分自身だ。代を換えてもドロシーと空を飛び続けた<サンデイ・ウィッチ>は、主の重さが消え失せ、泣き叫ぶような速度で天へと向かう。



『ヤケクソ気味の最後の一手! だが今度はきちんと決まったァ! 再び追いついた双子のティー! 渾身の<ツイン・エッジ>が日曜の魔女のをシャット・アウト!! ――――ッ! 決着ゥ!! これはもう決着だよな! あとはこのゴールに辿り着くだけ! FPライダー最強の座はアリス率いるチーム<WonderLand>に決定だぁぁぁぁッッ!」



 遥か上で見下ろしながら、アリスは言い放つ。



「……海で頭を冷やしさいな、ドロシー。貴女の理由が解ったら、また取りにおいでなさい。王冠を」



「…………ばぁーか」


 その言葉を吐く時だけ、昔のように少女は笑い。


「理由なんてもう、どこにも無いのよ。空はあたし一人だけで飛ぶには、せますぎるわ」


 己が無力を、甘んじて受け入れた。


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