第16話/3 スタンド・バイ(2)


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 結論から言うと、彼はその日の朝に寝坊をした。


“スネイクス・リトルクラウン杯”の当日。その日も夜遅くまで、ちっとも自分に馴染まないFPボードと格闘をし、自分から「睡眠は大事だよ」と忠告をした少女カレンのことさえ棚上げの夜更かし。


 その目覚めは、無言の揺さぶりから始まった。


「…………?」


 ゆさゆさと、スプリングの壊れたベッドで眠る身体を揺さぶられている。


 まだ眠っていたいと身体が覚醒しかけた意識を手放そうとしている。


 ゆさゆさ。


 ゆさゆさ。


 身体を揺する誰かは根気良く、だんだんと強くオレを目覚めさせようと試みる。言葉はない。


 これでは車で眠っているようなものだ。聞こえてくるのは息使いと、小さな世界の営みの音だけ。とても心地良い――そう、いよいよ羊とバクがタッグを組んで二度寝を誘発する段になって、相手は暴挙に出た。


 クワァーーーーン! 甲高い金属音。


「……っ!?」


 一気に目を醒ます。何事か、とベッドから跳ね起きるとそこには――


「……おはよう、カレン」


「おはよう」



 フライパンと、コーヒーケトルを両手にそれぞれ持ってジト目でオレを見るカレンの姿があった。どうやらフライパンの相方にお玉レードルは見つからなかったのでコーヒーケトルをぶつけて音を鳴らしたらしい。


「ごめん、朝弱くて……って知ってたか。いま何時?」


 カレンは珍しく不機嫌……違う。これは怒っている顔だ。オレを見て、


「……ぃ……?」


 と、朝っぱらから底冷えのする声で同じ言葉を発すると、両手の目覚ましアイテムを床に置き、レトロな目覚まし時計――両肩にベルが付いているやつだ――を抱えて見せてきた。


「げ」


 時刻は朝の八時をとっくに回っている。別段、日常生活からみればそう遅い時間ではない――無いが、今日はそれに適用されない。だ。


 件のFPライダーたちの大会の開催時間は午前十時。あと二時間。


 この翠の楽園エメラルド・エリュシオンと同じアメリカの西海岸に属するカナンヒルズは属していると言っても遠い。アメリカ西海岸だけで極東の島国がいくつ入るのだろうか。ぶっちゃけてしまえば


 そんなわけで寝癖を直すのももどかしく、先日遺憾ながらオズと三人で買い物に行って手に入れた服に袖を通す。朝ごはんはどうしようか。


 どたばたとスラムにある我が家を走り回る。老人の朝は早い、というがオズが目覚めた気配はない。


 ここから街に出るのに三十分、タクシーを捕まえて電車に駆け込んで、カナンヒルズの最寄まで。もちろん海に面したあの丘にまで線路が通っているはずもなく……そこから更に車を使って一時間。


 解りやすく詰んだ。オレの参戦は始まる前に終わる。


 プライベート丸見えの、ドアの紛失した仕切りから部屋に戻り、プレゼント用の包装をされた箱をふたつ、悪いとは思いながら乱暴に掴んで出る。


「ん」


 目の前に差し出されるトースト一枚。ありがたく受け取って銜え、だけどどうしたものか、と考えながら箱をリビングのテーブルにひとつ置く。先に置いてあったアルミのカップのコーヒーは若干冷めていて、味は悪いけど飲み込む分にはとても助かった。


 くいくい、と袖を引っ張られる。カレンが目で「こっち」とオレを促す。ああ、そうだった。ボードはガレージに置いてあるから取りに行かなければならない。


 足早に家を出てガレージに向かう。カレンと一緒にシャッターを上げ、埃が朝日にキラキラ光る。


 壁にかけてあるFPボードとロッドを一緒に両手で掴み、いっそここから飛び立てれば……などとオレには分不相応な甘い考えを巡らせていると、後ろでばさり、と布が取り払われる音がした。


「――――」


 振り向いて、言葉を失う。


 そこには脚立に上り、オレを見下ろすカレンと――













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 ――指先から伝わる温度。は目を醒ます。


 ディスプレイを撫でる掌。瞳鋼フォーカスが捉えたその顔からは、かつての幼さは抜け、クセのある紅茶色の髪の奥で、決意を秘めた瞳が私を見つめていた。


 自己を確認する――すべて良好……


 私は私の末端に至るまで、自身の意思が通じることに静かな歓喜を覚える。そして、再び歓喜を覚えられるこの現状にも感謝する。


 いけるか、と瞳が問う。


 ――お任せください。私は、その為に生まれたのです。



 ≪Pi.おはようございます、マスター・カレン。お急ぎでしょうか≫


 キーを挿し込まれる時間さえもどかしく、けれど私はいつも通りの声で窺う。


 こくり、と言葉少なな私のは頷いて肯定をした。


 ≪了解。HT2S、システム<R>オールグリーン。――レイチェルは、いつでも飛べます。どうぞお席に付いてください、マスター≫


 カレン様が操縦席に乗り込む。膝に乗せたのは彼女が私と――私が自身の機体を喪い、プログラム・コアだけになっていた時に――会話を行うために用いたキーボードだ。馴れた手付きでジャックを繋ぎ合わせる。



 /



 ≪Bibi.……あまり見つめないでください。カラーリングが済んでいません≫


 その、恥らうように窘める言葉を発した飛行艇――レイチェルに目を奪われたまま、貴重な時間を更に費やしてしまった。


「ご、ごめん。でもそのままの銀色もクールだ」


 ピ、という電子音。


 ≪お急ぎなのでしょう? 後部座席へどうぞ≫


 ボードを両手に抱えて、少し考える。


「……カレンが、レイチェルを? だいじょうぶ?」


 瞬間、ダカカカカと凄まじい勢いでキーボードが打ち込まれる音がした。


 ≪Pi.マスター・カレンから伝言です。『それはって言う。さっさと乗って』だそうです≫


「ご、ごめん」


 釈迦に説法、か。そりゃそうだ。何しろ、このレイチェルのAIシステムを構築したのがカレンなのだ。慌てて脚立を上り、初めて乗る後部座席に足をかけ……その前に、ポケットから出した箱をカレンに渡す。


「……?」


「プレゼント。この前街に行った時に買っておいたんだ。好きだったろ、カレン」


 シガレットケースよりも細くて長い箱には、ハーモニカが入っている。ばりばりと行儀悪く封を開けたカレンの後姿を眺めながら、操縦席と違って何もない後部座席に座り、長物ふたつを縦に抱え持つ。はみ出ているが飛行に問題ないだろうか。


 まあ、レイチェルなら問題ないな、と自己完結したところで、


 ぷー、と。息を吹き込まれたハーモニカが音を鳴らした。



 気に入ってくれたようで何よりだよ。



 /


 ガレージから飛び立つ銀翼を見上げ、老魔法使いはふん、と鼻を鳴らした。


 二人の若者が飲み終えたカップは仲良く、行儀悪くテーブルに置き去りにされている。


 その横。プレゼント包装された箱と、そこに挟まれた二つ折りの便箋が一枚。


 文は二行。たったの一文と、そして下段の隅に名前。


『熱中症注意。ありがとうオズ』


 なんとも贅沢な紙の使い方だ、と諦めの混じった嘆息。封を開けると、中にはつばの狭い、中折れのソフトハット。彼に合わせた濃い茶色を基調とした帽子は、歳甲斐も無くどこかに歩いて行きたくさせてくる。


「……ふん、坊主ジャックが一丁前に」


 誰も見ていないリビングで、独り気恥ずかしさから煙草を吸おうとして、灰皿だけを残し煙草の箱もライターも無いことに気付いて、やれやれじゃ、ともう一度ため息をついた。


 ヒビの入った姿見の前で帽子を被ると、なるほど。これは普段の作業着ばかりではなく、たまには自分もきちんと服を着ろ、という先日連れ出されたことの意趣返しに思えてくる。



 そうして、楽園に隠遁していた魔法使いは表舞台に立つこともなく。空に想いを馳せる若者達を見届けるでもなく。土産話を待つことを選び、それまでの時間を慣れ親しんだスラムではなく、雑多な人々の行き交う外界で過ごそうと思い、外行き用の服を着て外に出た。


 街には、実は気に入っているジャズバーがあり。


「……まだ早いと思って内緒にしといたが、お前さんの出来次第で連れて来てやろう。男を見せろよ、ジャック」



 ――彼の、そんな事後報告だけを楽しみにする、という目論見は外れた。もちろんその場での当事者などにはならず。そしてジャックにもカレンにもそのつもりもなく。


 まったく別の第三者の介入により、オズはその瞬間を、遠く離れたバーで目撃することとなったのだ。












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