第13話/6 レイチェル
そのFPボードの名称は<ヒルズ>という。名機<サンデイ・ウィッチ>や<NASTY>と同じ、スカイフィッシュシリーズのひとつで、完全な初心者用のボードと言えた。
カラーリングは艶の無い白。裏面に入っているロゴも塗装ではなくアピールの薄いレリーフ仕様で、どちらかと言うのならこのボードを愛用する場合、シールやパターンなどを持ち主が貼ったりしてデコレーションする方に流れている。
その、汚れを知らない純白がガレージの屋根から飛び発った。
淀みなく吸気機構から空気を吸い込み、後方から光の粒が推進力の残滓として流れていく。
私をして、それは見事――いや、流石としか言いようのない、どこまでも飛べてしまいそうなほどに、鮮やかな単身飛行だった。
今、この
メモリーに最重要項目として記録されている会話を再生する。
……まだ、幼い顔立ち。クセのある紅茶色の髪の奥から、不安げな瞳がカメラを覗き込んでいる。
これで、本当に大丈夫なのか、と。言葉はなくとも機体に触れる指先の震えがそう伝えてきた。
私は電子音を鳴らし、応える。
『お任せください。私は、その為に生まれたのです』
別の場面に切り替わる。
それは、機械の私をして、死んだような目をした少年の瞳だった。
涙を流したわけでもないだろうに、では睡眠不足からか。その瞳には常に濃いくまがあった。その理由は現在と変わらない。
彼が、FPライダーたちにとっての頂点。空そのものであった頃から、アイラインでも引いたかのように、それはずっと残っていた。
私の
家人の全てが寝静まった後になって、彼は空を飛ぶ練習をしていた。
そして、最初の一人が目を覚ますより前に練習を終え、短い眠りを補給する。
私の操縦席の中で朝を迎えることなんて何度もあって。だから私はそれを良くない、と窘めつつも、否定をできないでいた。――Error.
――ランスロット。空の王者の名。
喜びと不安。期待と予測。彼の飛行は、ヒトが憬れるだけの理想があった。
そうして、当たり前のように空へと上がった彼は、当たり前のように墜落した。
彼ほど空を飛ぶ、という行為に関して素質を持った存在も……また、現在それ以前の問題に封鎖されている者もいないだろう。
――五秒。自らの片足を失った私の主が空を飛んでいられる時間である。
その五秒間がどれほどヒトを魅せても、自由になった、と酔いしれるにはあまりに短い時間だ。
仰向けに倒れたまま動かない。私は思わず声をかける。
「Pi。マイスター、お怪我はありませんか」
「……だいじょうぶ。治らないのは一つだけさ」
どこか自虐的なジョークを含めて、彼は身体を起こした。頭についた芝を払い、ため息をつく。
その一つが致命的であることを、他でもない彼本人が誰よりも理解していた。
「今日はもう疲れたな。……ねえ、レイチェル」
あるいは、その甘えは。失ったことでやっと手に入れられた、子どもらしさなのか。
緩慢な動作で操縦席に乗り込み、
「Pi」
「たまにはフルオートで飛んでよ。ハイネの迎えの時はやってくれたじゃないか。図書館の時も」
「Non.私は貴方の翼です、マイスター。FPボードと変わりはありません。貴方が飛ぼうとしなければ、私は羽ばたかない」
「冷たいな、レイチェル」
「キーはお持ちでしょう? ご主人様。当機を冷たいと仰るのでしたら、どうぞその手で熱を入れて下さいませ」
「エンジン音で皆が起きちゃうよ」
「では、可能な限り静かに鳴きましょう」
敵わないな、とため息をまた一つ。挿入されたキーが右に90度回る。
『HT2S<R>起動――システム、全て良好。……オペレーションの選択はどのように?』
「意地が悪いなぁ、レイチェル。何か嫌なことでもあった?」
「Non.これと言って、特にはございません」
「……フルマニュアルで」
「良い選択です、
そうして、私は私を彼に預ける。私の両翼が風を掴みながら走り出す。
離陸は白鳥のような美麗さで。いったい、その瞳には何が見えているというのだろう。五秒の後の墜落が約束されていたとしても、彼の離陸はFP、私ともに淀みが無さすぎた。
「マイスター。ゴーグルを」
「……あぁ、うん」
首に下げていたゴーグルを装着して、追い縋る者の居ない夜空の中を、ゆっくりと旋回飛行する。
――そのゴーグルが贈られた日を思い出す。
『また、空を飛ぶんだねっ!』
きっと彼は気付いていない。私は知っていて、黙っている。
プレゼントを差し出したドロシー様のその手が震えていたことを。
「……得がたい物です。どうか大事になさってくださいませ」
「うん?」
いいえ、なんでも。
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