第1話/2


 ――がらん、と装飾の剥げたコンクリートが崩れて、その近くで汚れまくった頭を乱暴に掻く姿があった。彼は頭に付いたモノを払うと、次いで服の埃じみた汚れもぱんぱんと叩いて立ち上がる。来店時にはサングラスを着けていたのだが――いや、今もかかっているのだが、右のレンズは粉々で、左のフレームは耳にかかっていなかった。ファッションとしては勿論、本来の用途である日差し避けの意味をもう成さないのなら、彼はサングラスをかけているとは言い難かった。


 被害は大破サングラスの他には多少の擦り傷だけということを見ても、彼はこの地獄の中で数少ない幸運な存在だった。他にも何人か無事とは言えないまでも幸運な誰かはいて、それにどれだけの数字を掛け算すれば良いのかわからなくらいに不幸な誰かがいた。


 ポケットを漁ると、数本折れてはいるものの、これまた無事だった煙草の箱から一本取り出して、同じように無事だったデュポンのライターで火をつける。もちろんビル内は禁煙だったが、煙草一本の火と煙なんか比べ物にならないモノが突っ込んで来たので今更とやかく言われることは無いだろう。寧ろそれをとがめる余裕のある人間は皆無である、と言った方が正解に近かった。


 見渡して惨劇の度合いを改めて認める。絢爛けんらんを誇っていた新築ブランドビルの面影はもう皆無と言って差し支えなく。金満家と、この日この場所で、ある一品だけを目当てにそれ以上の金を持って来ていない普通の人間との差は全くと言って良いほどなく。味の良し悪しで言えば悪い意味で平等だった。


「ひでぇなぁこりゃ」、と灰をその場に落としながら視線も落とすと、気絶から覚醒したのだろう、ロケットランチャーがぶち込まれるまで自分と話していた店の女性店員がいた。


 視界から入ってくる情報の浮世離れ加減に、脳の理解が追いついていない様子。軽く塗った化粧にこれまた軽く上乗せされた黒いすす。ぽかんとした表情はあと数秒から数分もすれば恐怖か恐慌か、どう転んでも良いそれにはならないだろうが、そんな顔になるのだろう。


 その女を、煙を吸って吐くまでの間にざっと上から下まで流し見る。主立って重症になり得る傷は見当たらなかった。それは良い、と煙を吐きながら軽く頷く。それは良かった。でなければと言うものだ。


 ――そう。彼は日常が地獄に様変わりするその瞬間。自分の身だけでなく彼女の安全も確保しようと試みたのだ。


 着弾から発生するオレンジ色の極光と、その後目を潰さんばかりの破片はサングラスが文字通り守ってくれた。次いで起こるであろう壁、更には天井の倒壊などを危惧し、押し倒すように床に倒れる。その際に彼女の口を手で塞いだのは悲鳴を殺すため。



 これがただのテロならば犯人が侵入してくる確率は低いが、ならば話は違う。武装して踏み込んでくると確信していた。事実その予想通りに事は運んで、彼女が悲鳴を上げようものなら、マシンガンの銃口はこちらを向いていただろう。


 幸運にも犯罪者たちは彼らに気付くこともなく、目当ての品を奪って帰って行った。咄嗟とっさの判断にしては上々の出来栄えだろう。


 彼は自分が庇った女以外に興味が無いのか、瓦礫とガラスを時折どかしながら歩いて、最後に犯罪者が何かをしていた男性の元まで行った。


 哀れ、その男性店員は腰が抜けたまま動けないでいる。その胸ポケットに今回の惨劇を巻き起こした本人が挿したであろうカードを見つけ、了解を得ようともせずに抜き取ると「はッ!」と馬鹿にしたように笑って、煙草をその場に捨てた。靴で踏み消す。そしてまたポケットを漁り、今度は携帯電話を取り出した。


 が、その画面を見て口をへの字に曲げる。液晶画面は横一直線にヒビが入っていて、それどころか電源が入らない。


 少しだけ考えて、彼は女の所に戻った。彼女は少しだけ現実を理解し始めたらしく、目には怯えの色がありありと宿っていて、身体は小さく震えていた。そんな彼女に対し、彼はしゃがみ込んで言う。


「あー。大変なとこ悪ぃけどさ、携帯貸してくれねえ? 俺の壊れちまったンだよ」

 

 彼女は答えない。答えられない。


 日常、非日常ときてこの男が言った日常くさいよくある台詞に追いついて反応できるほど、彼女の脳は非凡なものではなかったから。


「じゃ、勝手にっと」


 遠慮なく彼女のポケットに手を突っ込んで携帯電話を探す男。


 よくわからない。よくわからないことが続いて、少しだけ彼女はほくほく顔で「あったあった」と自分のポケットから携帯電話を取り出した男を落ち着いて見ることが可能になった。


「あ、あの……」


「覚えてる番号っつったら……ぁん?」ボタンをプッシュしながら視線だけが合う。


「……なに、が……あったん、ですか」


「ん? あー……思い出したは良いけど誰の番号かわかんねぇなこれ。まぁ身内だよな、きっと。……あぁ悪ぃ。何があったかっつったら、なんかロケランぶち込まれたみてぇだよ」


 男はボタンをプッシュしながら頭を掻く。


「あの、あの、たすけ……てくれた、んです……か?」


「旦那のだなこりゃ。まぁ良いか――おう。無事なようで何よりだよ、姉さん」

 

 コールを開始した。


「あの、ありがとうございます……でも、その、貴方は……」


「さて、出てくれるかねぇ……ん? 俺がどうかしたかい」


 煙草を咥える。


「その……」


 彼女は、男の服を指差した。真っ赤と言えるほどに染まっている。それが血の斑点にしか見えなくて、まるで真っ白なシャツに咲いてしまった真っ赤な薔薇にしか見えなくて。


 電話が繋がるまでの間に、男は笑った。気の良い笑顔だった。仮にこんな状況で心理学でいうところの吊り橋効果がなくとも、こうやって赤面してしまうくらいの、少しだけ悪そうで、それでも邪気のない、そんな笑顔。

 

 単純な処理しか出来ないほどに追い詰められた彼女の意識は、ただ【格好いい】という単語を出して、彼女自身それが間違っていないと思った。


「動転してんだな。落ち着いたらよく思い出せよ姉さん。俺のシャツは元々こうだったろ?」


 真っ白なシャツを、血が染めてしまったわけではなく。


 男のシャツは元々――真っ白な下地に、真っ赤な薔薇を幾つも咲かせた派手な柄だった。


 それと黒い蛇柄のパンツに、長めの金髪。今となっては意味を無くしたサングラスを外したせいで見える、茶色を更に薄めた金色の瞳と相まって、肉食獣的な雰囲気を持っている格好いい男。


 ――記憶が追いつく。そう、こんな事になる前から、こんな男だった。


 地獄のような現実に、日常と変わりない姿で電話をしている男を見て、涙が出そうになっていた。記憶が戻って来て、彼が自分に何を求めて来店したのかを思い出す。


『財布を新調したくてよ。姉さん、何かお勧めのやつあるかい? 俺に似合いなのを、選んでくれよ』


 その財布があったコーナーは木っ端微塵で、彼の期待に添えなかったのを、場違いに、申し訳なく思っていると、少しだけ乱暴な声が耳に入ってきた。


「あぁ旦那? あぁそう。借りモンで電話してる。ちょっと聞いてくれよ、ロケランぶち込まれたんだけどさ。そうだよ買い物して来るっつったろ、今日。そしたらいきなりでよ。財布買えないわサングラス割れるわで最悪だぜまったく。で、携帯もぶっ壊れちまってバドの番号わかんねえから旦那から頼むわ。……ぁん? そうだなぁ……俺一人でも良いけど、ちぃぃぃっとばかしキレてんだよ。ここは総出で完膚なきまでにってカンジなんだが、坊と姫は? おうわかった。で、悪ぃんだけど坊とバドにこの番号にかけてくれっつっといてくれ。あ? 相手の名前? ははは! ご丁寧に名刺、残してったぜ。そうそう。この辺に【大強盗】なんて一組しかいないっつーの! そんなわけで、チャオ」


 そしてまた目が合った。


り。暫くこの携帯、貸してくれねえかな? ちゃんと返すからさ」


 灰を落としながら男に請われ、思わず頷いてしまう。


ありがとさんグラッツェ。……さ、て、と。そんじゃあまぁ、行きますかねぇ」


 そうして背伸び。彼女は思わず、


「あ、あの……お客様?」


 と声をかけてしまった。


「ん? 俺がどうかしたかい」


「お客様の、お名前を伺っても、よろしいでしょうか……」


「俺の名前? はは、そりゃあ今度、ベッドの上でゆっくりな……と言いたいところだが……」


 かかってくるコール。


「もしもし。あぁ……旦那に聞いたろ? そうそう」


 瞳が、暴力的な色を灯して細まる。ジャケットの裏から、それ以上に暴力的な銀色の塊――拳銃を取り出して、軽いキスをする。


「……ぼう、ショウタイムだ。気合入れていこうぜ」


 電話を切って、再度彼女に視線を移した。


「俺のことな。って呼ばれてるよ。ありふれちゃあいるが、こういえば当たりが付くかねぇ」


 その笑顔は、第一印象どおり、百獣の王を連想させ、やっぱり格好いいなぁと思ってしまい――


「――のレオ、な。自分で言うのも何だが、ちったぁ知れた名前だろう?」


 ――ほうけたまま、彼女の表情は固まってしまった。 


 そうして男――レオは悠々と出口に向かって歩き出す。それを、彼女に浮かんだ疑問が呼び止めた。


「……どうして?」と。


 レオは足を止めついでに、砕けたショーケースの中から無事だったサングラスを取り出し、かけて振り向く。似合うかい? と問うように。


「どうしてって、そりゃあ……で派手にやらかされちゃあ、な? そういうガキんちょどもには、しっかりと教えてやんなきゃなぁ。色々とよ。ははッ」


 今度こそレオは出口に消えていく。


 姿が見えなくなって、震えが思い出したように戻って来て、思わず彼女は両腕で自分を抱きしめていた。


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