第12話/13 電海妖精-Sylph-

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 ――息が苦しい。脳に回す酸素が足りない。紫陽花テキストは地上で喘ぐ魚のように口を開いては閉じ……その生理反応を笑った。


 なにを馬鹿な。電脳世界に入水タイブしているとはいえ、自分の身体は現実世界にある。そんなことは解っているので、呼吸を阻害するソレを、手の甲で拭う。


 鼻から零れた、べっとりとした血が手を染める。つまり、呼吸の不備はそういうことで、別段おかしな話じゃあない。


 現実に生きている時以上の情報処理に、普段サボっていた脳味噌が悲鳴を上げただけ。どうせ10%も使用していないのだ。この程度で根を上げられても、頭の持ち主としては困る。


 鼻が詰まったのなら口で。大きく深呼吸をして。で踊る妖精の首を、一刻も早く――たい、という欲求に従ってプログラムを走らせる。


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 空間に降り注ぐ、0と1で構成された『雨』。


 触れればハッキングに用いている妖精シルフのアバターを、触れる傍から蚕食さんしょくしていく攻性防壁プログラムの雨。隙間無く展開されているわけではない。寧ろ隙間があるからこそ攻めあぐねる。どちらも電脳情報戦において埒外らちがい甚だしい。傘を差して、そのプログラムを捕捉空間内に展開、雨を象って降らせる、などという離れ業を行う紫陽花テキストも。そして――現実ではありえない挙動で、というシルフの度を二つ三つばかり超越した情報処理能力も。


『――そうか。そっか! これが、これが<レイニィ>か! あっはは! ねぇ、なんでそんな、今まで大した魅せ場も用意の!? こんなプログラム構築できるのは電海せかい広しと言ってもキミ以外いないだろう!』


『アッハッハッハそれを難なく避け続けるヤツに言われたくねぇー! 一応マジモンの必殺なんですけどこの雨ェー! なに、ほんとに生身でコネクトしてる? どんな風に脳味噌弄ったらそんな動き出来るんですかね<シルフ>さんはぁー! あ、ところでに気を付けた方がイイッスヨ?』


『ッ!?』


 ばちん、と妖精シルフの右足から迸った電流が彼女リズの眼球にスパークを引き起こす。電脳世界に意識を潜入ダイブさせる最先端技術のリスクがこれだ。万が一こうして破壊プログラムが操作しているアバターに作用しようものなら。その情報ダメージは形を変えて現実の人体に影響を及ぼす。この『雨』に全身を撃ち抜かれた場合にリズ――エリューゼロッテ=ランバートがどうなってしまうかなどは想像に難くないし想像したくない。


『いったた……あっ長靴履いてる! ずっこいぞ<レイニィ>!』


 けれど非難をぶちまける口調には愛嬌があった。その余裕――あるいは生来の気質に紫陽花テキストは口の中に溜まった血を飲み下す。


 ――コレは、遊びの介在して良い相手ではない。人間離れしていることに疑問ももう持つな。


『あーしんど。諦めて帰ってくれないっすかねー。気まぐれな妖精らしく。アンタみたいな人外と比べてこっちはもぅマジ無理。。。なんすけど!』


『ナンデ?』


 こてり、と小鳥のように可愛らしく首を傾げる妖精のアバター。本当にさっさと終わらせてログアウトしたい紫陽花テキストが雨の密度を増やす。それにして、電脳世界ですら目を疑うような速さで雨と雨の隙間を抜け、一息に<レイニィ>の元へと肉薄する。


『ボクはまだ何もゲットしちゃいないんだぜ、レイニィ。探し物は見付かっていない。まだまだ遊び足りないし、だからそれじゃあ帰るに帰れない』


『いや、その探し物にさっぱり見当つかねーんですよねこっちは! なに、たまたまオレがいるからこんな防壁張ってるけど基本的にマリオンの帳簿なんて見ても面白いモンないっすよ!?』


 狼狽する間に中空に出現するバケツのポリゴン。くるりと反転。雨などという生優しいものではなく、触れれば即座に情報を抹消する瀑布がシルフに垂直落下し迫る。


 キスできそうなほどに近づいていたシルフは一歩分の隙間を空けて、彼我を断絶するような二進数の滝越しに、尚も続けた。


『……シラを切ったりしないでね? チェスの<ナイト・ザ・アルク>はどこ?』


『……はい?』


 滝が流れ終わるのを待たずに、シルフの腕がその攻性防壁プログラムをして伸びる。彼女にとっては知る由も無い話だが――予想外過ぎたその人名に、彼の本体がリアルで咽る。


『シラを切るなって言っただろ! どこやったんだよユミ=コウノミヤを! こっちはこれでも必死なんだぞ! 吐け、さっさと吐かないとキミにして記憶を漁っちゃうぞ!』


『いや名前は知ってるけど! え、なにマジでオレらそんな見当違いで追い詰められたの!? ディッセンさんヘルプ! なんかルナ活動以来の濡れ衣着せられてる!!』


 迫る腕に外聞も無く喚き散らす紫陽花テキスト。シルフはまさか――という疑念を浮かべる。


 まさか、? チェス最高の駒を?


『――いい。もうほんとに直結しちゃう。何歳までオネショしてたか腹いせに世界中にバラ撒いてやる』


『世界屈指のハッカーのクセにやること小っちぇなアンタ!? ――ところで話は全然変わるんだけど傘は剣派? それとも銃派? オレは断然、








 ――シルフの時間が止まる。極限にまで集中した情報収集能力が現状を把握する。


 <レイニィ>のアバターが持つ傘の、柄が分離している。右手に移ったその柄の先は刀身だ。水平にこの妖精のアバターの首を胴体から分離させようと奔っている。


 これまでに無い速度。軌道上に存在する彼自身の降らせた雨のプログラムをも切断しながら閃く。――意識が凍る。タイミングは完璧だ。。この自身の操るアバターの処理速度をして、デバイスとして用いた五つの指輪をして、回避が出来ない。現状では、この意識の速度に電脳げんじつの身体が追い付けない。


(参った。こんな相手は初めてだ。魔術師ウィザード級ハッカー。同じ区分の相手とは何度も遊んだけど――こんな風に追い詰められたことなんて、一度もないや。)


 その手際。幾重にも張り巡らせた戦術。相手が余裕をかましている内に懐に入らせ、これしかないという機を逃さずに必殺の一手を鮮やかに抜き放つ。


 0.001秒先の未来に見える、首無しになった自分を想う。反省するには充分過ぎる時間だった。



 ――ミリオンダラーの四番。【人魚姫】DIVER=DIVA。『妖精事件』を引き起こした史上最悪の『妖精級ダイバー』は最低五人いるとされる。

















 


 刹那に迫り来る終末に、シルフ――現状、は。



 ――――



『――――――』


 完全にった。そう、確信できたのに。


 刃から伝達される反攻アンチアタックプログラム。その情報密度、情報量は海底三万マイルの水圧に似て、紫陽花テキストのアバターから彼の脳に過負荷となって押し寄せる。




「アッハッハッハ、――――やっぱ、人間じゃねえわ、」


 ばつん、と自身のブレーカーが落ちる音を、真っ赤になる視界の中で聞く。


 もはや孤独な戦場と化していたルナの事務所の中。終ぞ椅子から立ち上がることもなく、両耳と両目から血を吹き出した紫陽花テキストの意識と共に、<レイニィ>のアバターは虚数の海に爆砕ログアウトした。



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