第10話/5

 


  通り雨が過ぎ去るのを待って、スズは再びロンドンの街に出た。


 湿ったアスファルトが、真綿のように音を吸い込む昼下がり。雑踏に紛れ、足取りに迷いなく、解明された迷路を進むように歩いて行く。


 以前、散々に引っ掻き回したロンドンの象徴――時計塔ビッグベンを望む大通りを、何食わぬ顔で。


 歴史の長い仕立て屋のショウウインドウの前で一旦足を止め、飾られている、のスーツを無言で数秒眺めてから、店と別の建物の隙間にある路地裏に足を向ける。


 一戸分を歩くごとに届かなくなっていく陽射しと都会の喧騒。建造物同士が生む、無数の十字路を最初は右に曲がり、次は直進。左に曲がり、次はまた右。


 見せる分にはよろしくない空調の室外機や、開かれる予定が数年先もずっと未定の窓。路地裏だからという理由から、表通りのように洒落たものではない塀。そういった現実的にも“社会の裏側”に属する通りを――その瞬間を撮影されたとしても何ら違和感のない男が進んでいる。


 そして、表通りの喧騒と明かりがトンネルの出口のように小さく、続いた先に一度見えたところで、更なる深みへと左折。最後に手入れをされたのが不明なほど痛んだ道路の途中にある、下り階段を降りていく。



 区画的には地下一階。塗装の剥げた鉄扉。ノブは付いているものの、収監所に似たそれに特段思うところもなく握り、押し明ける。


 老人の呻き声めいた軋みを上げて、扉はスズを歓迎した。



――鉄の布を、杭のミシンで裁縫しているような音がする。オイルと金属、火薬の匂い。ガタが来ているように見えて、この空間を切り取った鉄扉はまだ現役で、相応の防音しごとをしているらしい。


 空気の循環性の悪さと、この場で行われていることのせいで温度差は外と比べて二桁プラスに届きそうなほど。スズはネクタイを緩めながら、屋内だというのに張り巡らされたフェンスの向こうで作業に没頭する人物に声をかけた。


「……その様子じゃ、まだ迎えは来てないようだな、だ」


 がががががが、と騒音と火花を撒き散らしている作業の手を止め、防熱・防光用のマスクを外し、その老人はスズを見た。――声はきちんと届いていた様子。


「なんだ、関節用の油が入用か? 坊主」


 その、坊主、という呼び方に僅かに顔を顰めるスズに、老人はク、と喉の奥で笑いを噛み殺す。


「お前さんのことは、まだ“ハローグッバイ”程度にしか英語を喋れなかった頃から知っとる。それこそ王様の遣いで店に来ていた頃からだろう?」


「……そうだな、あの頃はもう少しアンタにも髪があった、だ」


「カカカ! 老い方を選べよ坊主。ま、そんな生き方をしてちゃ追い先なんざ考えなくても先に迎えが来るだろうがな。そら、注文品ならそこだ」


 顎で示された場所に、まるでマーケットで買い物をしたかのような日常感。フランスパンとリンゴや缶詰などが入っていそうな茶色い紙袋に、油紙や布でくるまれた幾つかの品が、詰められていた。


――時代に逆行しているかのような武器工房。その主である老人が言うように、この場所と老人との付き合いは長い。現在、彼が生活を共にしている少年や少女、青年と比べてもずっと、だ。


 フェンスに統一感なく飾られた銃器。コルクボードにピン留めされている古ぼけた写真と注文票。もはや出すことなど適わないであろう、そもそもにしてどうやって入れたのかさえ不明な、動作しない一台のミニ・クーパーこっとうひん


 天井から吊り下がる橙色の電球は半数が事切れていた。


 それらの、並ぶ品は変わっても変わることのない雰囲気に懐かしさを覚えながら、スズはスーツの裏から紙幣を一束取り出し、老人が座った黒いテーブルに置く。


「嬢ちゃんや坊主どもは元気か?」


「あぁ」


 老人はろくに確認もせず、作業着のポケットに札束をしまい込み、胸のポケットからくしゃくしゃの煙草の箱を取り出し、折れかかった煙草を摘み出す。それを銜えたところで、ばちん、と散る火花。


 スズの点けたオイルマッチの火に片眉を上げて、煙草に火を点して紫煙をひとつ。


 その後で自分の煙草にも火を点けたスズを見ながら、言った。


「地下暮らしのワシの耳にも届くくらいに、最近はこの辺もきな臭くなってきてな。今はまだ路地裏の鼠みたいに、脛に傷を持った連中ばかりが知るような噂話の類だが」


「……それなりに派手にやっているつもりではあるんだが、だ」


「お前さんたちの事じゃないわ! そっちは耳が痛くなるほど聞いとる。ワシらは儲かるが、特にお前さんだスズ。少しは度を弁えんか」


「前向きに検討のほど、できうる限り善処したい所存、だ」


「なんだそのクソみたいな言い回しは。そんなもんYesかNoで良いだろうに」


「ジャパニーズジョークというやつだ、だ。それで、おれたちでないというなら、何が起きて……いや起きてないのか? とにかく、なんだ、だ。仮にも此処はだろう、だ。おれたち以外に何かするのは、不思議の国ワンダーランドくらいしか見当が付かない、だ」


 ふーっ、と鼻から紫煙を排出させ、老人は剥げ上がった頭を撫で付けながら、


「それが解からんような莫迦か、解かっていてやるような莫迦かは知らんがな。何でもかんでもお前さんたちを基準にするな、ミリオンダラー。

……なんでも、夜のロンドンに出るって噂がな。少し前から流れ始めた」


「…………」


「なんでもそいつは……、なんだとよ」


「…………」


「…………」


「…………爺さん、アンタとは付き合いが長い、だ。おれもブリキの兵隊と呼ばれているが、人の心をまだ持っている部分もある、だ」


「おう。探し物が見つかって良かったな。わしゃオズのジジイじゃないぞ」


「老人に優しい医者の心当たりもある、だ。紹介しようか、だ」


耄碌もうろくなんざあと二十年は先だわ! 今すぐその眉間に目玉増やして懸賞金受け取っても良いぞ坊主」


「わかった、わかった、だ。やれやれ、だ」


「……ま、前時代的な与太だがな。一応耳に入れておけ、スズ」


「…………あぁ」


「銀の銃弾も買うか? 安くしとくぞ」


「そいつはその吸血鬼とやらの今後次第、だ」


「なんだ、つまらん。前の客はもう少しジョークが効いたぞ、坊主」


「おれには吸血鬼云々より、わざわざ此処に足を運ぶ客が居た方が驚きだ、だ」


「ウチをなんだと思ってんだ。まあ、珍しいには珍しいけどな。最近は送り付けが主流で――お前さんたちのせいでルートが一個潰れたんだぞ、解かってるのか? あぁ?」


のことならお門違いだ、だ。店じまいした魔女にでも言ってくれ、だ」


「連絡が付けば言っとるわ。その客もセシリアのお嬢ちゃんと比べても別嬪さんだったけどな。…………おい、なんだその顔は」


「……いや。……その、なんだ、だ」


 こんな穴倉に客、ましてやセシリアウィッチ=デュンゼ以外に若い女が訪れる方がよほどの衝撃だった、とスズは言い淀んだ末に、滅多に出さないで旧知の老人に打ち明けた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る