* 23 *

 2時間くらい保健室で寝て、午後から教室に戻って授業に出た。

 話しかけるなオーラを出していたら、クラスメイトは空気を読んだみたいなのに、冨永だけは休み時間中、ずっと横でしゃべり続けた。

 教室に顔を出したのは、やはり3年の女子で、延々とその先輩について語る冨永に、適当に相槌あいづちを打って聞き流していた。


 そんな話、どうでもいい。


 6時限が終わった時には、冨永のおかげでやり場のない鬱憤うっぷんがかなり溜まっていた。

 生徒たちが昇降口へ向かう中、第1校舎へ足を運ぶ。むしゃくしゃ気分を静めたくて、身体が向かったのは美術室。

 部屋の中に入ると、目まずを引くのは名本さんの絵。

 大きく枝を広げて、季節を過ぎた白い花が存在を誇示こじする。

 少し右に視線を移すと、視界に入り込んだ女子生徒の背中に驚いて立ち止まる。

 長いストレートの髪を高い位置でひとつにまとめた姿は、馴染なじみになりつつある。

 窓枠に身体を預ける形で、外を眺めている名本さんの後ろ姿。少し顔を左の方に向けて、校庭を見つめていた。

 とても、真剣に。

「面白いものでもある?」

 窓に近寄りながら彼女の背中に声をかけたら、名本さんはひどく驚いた表情でこちらを見返る。

「ボーッとしてたので、ビックリしましたぁ」

 名本さんは左手を首の真下の部分に当てて、深々と息を吐き出す。

 大げさな反応だけど、それが彼女らしい。

「ごめん。驚かした」

 名本さんの真横にたどり着いて、謝罪を口にする。

「…で、何を見ているの?」

 名本さんが見ていたらしい方向を見ると、グラウンドでサッカー部が練習を行っていた。土埃つちぼこりだらけになりながら、張り切って身体を動かす彼らを何となく見ていたら、のんびりとした名本さんの声が届く。

「サッカー部の人たち、頑張っていますねぇ」

「練習、大変そうだよね」

 首肯しゅこうしていたら、疑問が頭の中に浮かび上がった。

「美術部って、いつ活動しているの?」

 サッカー部の練習から校外の風景に、視線を移動した名本さんに問いかける。

「今は、中間試験の前なので休みですが、基本的には自由です。他のみなさんは、火曜と木曜に来ていますねぇ」

 オレの目をまっすぐ捕らえて、名本さんはは答える。

「そうなんだ」

 部活動にそんなに熱心じゃないのか、放課後の美術室では、名本さんと小谷野にしか会ったことがない。

 他の生徒のいない、この空間を気に入っているから、邪魔をされたくなかった。


 図書委員の当番、火曜と木曜にしようかな。


「この時期の緑って、キレーですよねぇ」

 思案していたら、脈絡のない言葉が耳に入る。名本さんの目線を追うと、正門の横から道を挟んで校舎に沿って植えてある芝生の中の木々を見ていた。

 数本の桜の木は、青々とした葉を茂らせている。


 若葉色、草色。なえ色。

 萌黄もえぎ色。


 様々な緑色を指しながら、するすると色名が出てくる。

 色の名前をたくさん知る彼女は、オレが言う『緑』には色んな種類があって、それぞれ名前があることを教えてくれる。

 名本さんが見せてくれる風景は、キラキラと鮮やかな精彩せいさいで心に残る。

「名本さんって、色の名前詳しいよね」

「好きだからですよ。好きだから、調べて覚えるのですぅ」

 前から感じていたことを言葉にしたら、自信に満ちた表情で名本さんが笑う。


 他人に対してはっきりと言えるなんて……。


 チリッ。

 胸の片隅かたすみが、ひりつく。

「すごいよね、名本さんって。そこまで打ち込めるものがあるなんて……うらやましい」

 思ったままを名本さんに伝える。

「そうですかぁ。森井くんも、何か見つければよいのですよ」

 無邪気に話す名本さんに、胸に痛みが走る。焼けるような。

 名本さんの顔を見ていられなくて、顔ごと反対側に向ける。

「誰もが。名本さんみたいに、自分のやりたいことができる環境じゃないから」

 言ってから、我に返った。


 八つ当たり、だ。

 よく知る感情。できのよい姉にいだく、勝手な思い。


 ……嫉妬しっとだ。


「はい。それは、両親に感謝しています」

 全く気にしていない口調。名本さんの方を見ると、屈託のない笑みを浮かべていた。

 その表情を見て、自己嫌悪におちいる。


 ――あぁ。敵わない。


「名本さんって、すごい人だね」

「そんなことないです。森井くんの方が、名本よりずっとすごいですよ」

 慌てた口調の名本さんに、オレは「何で?」と尋ねる。

「勉強ができますし、何でも器用にこなすじゃないですか。名本からすれば、森井くんも綾子さんも、すごい方なんですよ」

 そう言って、名本さんは笑い顔を見せる。

 天真てんしん爛漫らんまんな表情に圧倒されて、視線を名本さんから外した。

「勉強ができるだけで、何の取り柄もない」

「人より頭がよいことも、ちゃんと取り柄ですよ」

 その言葉に、名本さんの方に顔を向けると、彼女は穏やかな笑みを口許に浮かべていた。

「勉強できるだけじゃあ、ないですよ」


 ロウソクに火をともしたような、ふわっとした笑顔。

 暗闇の中で、ゆらゆらと優しく光る炎みたいに。


 心の奥が、温かくなる。

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