* 10 *
胸の奥の方が、もやもやする。
高橋さんは謝ってきたけど……。
ついさっき。
それを受け入れて、水に流すようなことを言ったのは、自分自身。
それでも、彼女に対する嫌な気分が胸の内でくすぶる。
――実は、オレは心が狭いのだろうか?
頭と、気持ち。どっちも冷やしたい。
今はまだ高橋さんと気軽に話すことはできなさそうだし。
こんな気持ちのまま、まっすぐ家に帰る気にもなれず。
知らないうちに足が4階に向かっていた。
美術室の前まで来て、何しに来たんだろうと自問自答する。
思い浮かんだのは、夜桜。
そうだ、まだ見せてもらっていない絵がある。
思いついたら、いても立ってもいられなくなった。
明かりの点いた室内を、そっと
他の部員がいたら、帰ろう。そう決めながら。
窓を全開にした部屋の中に、屋外のさざめきがかすかに聞こえる。
名本さんは窓近くの椅子に座っていた。
スケッチブックを抱えて、何かを
今まで見たことのない、真剣な眼差し。
一心不乱。
こんな表情もするんだ。
のほほんとした彼女の
そのギャップがとても印象深く、オレの中に鮮明に残る。
不意に、名本さんが目線を上げて、こちらに向ける。
「森井くん。お疲れ様です」
何で? とか、なく。
驚きや、不可解でもなく。
オレがここにいる事実だけを受け止めて、名本さんはおっとりと笑いかける。
「図書委員の方は、終わったんですか?」
「うん。さっきね」
彼女の疑問に答えながら、美術室の中へ歩を運ぶ。
「もしかして、坂上先生に用ですか? さっき職員室に行ってしまいましたよ」
「あっ、そうなんだ。……名本さんの絵を見せてもらおうかな、と思ったんだけど」
青木先生も会議だって、言ってたっけ。
少し、残念に思う。
「本当ですかぁ?! ちょっと、待ってて下さい。準備室から拝借してきますね」
スケッチブックと鉛筆を近くの机の上に放り出した名本さんは、あたふたと立ち上がるとそう告げるなり美術準備室に駆け込んだ。
その
視界の中に、名本さんが持っていたスケッチブックが入る。
何を
「お待たせしました」
準備室に入った時の勢いそのままで、画用紙を持って戻ってきた。
何だか、とても嬉しそう。
その口調に、オレの意識はスケッチブックから離れた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
オレの前にのばされた手にある絵を受け取ると、名本さんは楽しげな足取りで窓際へ歩いていく。
名本さんの背中から手の中の絵に、目の向きを動かす。
前に、坂上先生に見せてもらった満月の絵と同じ、A1サイズの大きさ。
下部には、暗い色合いで
光の当たり具合だろうか、雲のオレンジ色の濃淡で、質感が見て取れる。
―――あ…。
頭の中に、情景が浮かび上がる。
鮮やかに。
『茜雲、と言うのですよ。キレーですよねぇ』
初めて、名本さんと会話をした日。
鮮烈な印象を持った。
あの時の光景が、今眼前に絵として存在する。
――今日も、また。
美術室の南側の窓を見る。
窓のサッシにもたれかかって外を見つめる、長い髪を高い位置でひとつにまとめた後ろ姿。
何もしゃべらないで、飽きることなく眺めている名本さんは、景色と一緒にのどやかな空気も満喫しているみたいだ。
何を見ているのだろう。
色彩豊かな絵を
彼女が「
静かに名本さんの隣に歩み寄る。
そして、同じ方向に視線を向ける。
そこは、西の空に
雲も、木々も。建物も。
全てが夕日の光を受けて、朱色に輝いていた。
赤みがかった黄色。
「…すごい、オレンジ色」
心に浮かんだことをそのまま言葉にすれば、「あはは」と名本さんは楽しそうな笑い声を上げる。
その声に
大きな丸い目を三日月の形に細めて笑う名本さんの姿があった。
笑い終わると、名本さんはすうっと右手を持ち上げて、夕日の光を指す。
「夕映えの色を『
「…夕色」
夕日の色に染め上げられた景色に目線を戻して、名本さんの言葉を繰り返す。
言葉が、残る。
ふと誰かの視線を感じて、左下を向く。
校庭では、サッカー部と野球部が練習をしている。
グラウンドの南側にあるサッカーゴールの近くで、輪を作っているサッカー部員。
談笑している彼らをよそに、1人の男子がこちらを見上げていた。
素朴にして単純そうな表情。
―――山谷だ。
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