* 52 *

「いつ、引っ越すの?」

 避けられない現実。

 意を決して問いかける。

「明日荷物の整理をして、それが終わり次第です」

「…そっか」


 ――今日が、最後。


 もっと話がしたかった。

 同じ景色を見ていたかった。


 ――せめて、もう少しだけ……。


 話題を探して、手に持つ絵に目が留まる。

「この色は何て言うの?」

「『暝色めいしょく』とか『暮色ぼしょく』って言います」

 紫を含んだ紺色を指して尋ねると、名本さんはさらりと答える。いつもと変わらない口ぶり。

「…めいしょく」

 初めて聞く色の名前。

「はい。夕方のほの暗い空の色のことです。泣きたくなるくらい、幻想的でキレーなんですよ」

 いつもと違う響きを含んだ声が心にかかり、冬空の絵から目を離す。左にいる名本さんを見ようとした視線が止まる。

 南側の壁の中央。

 さっき覚えた違和感が舞い戻ってきた。


 そこにあった夜桜の絵が、別の絵に変わっていた。


 緑一色で、えがかれた絵。

 木々や芝生と、色んな緑の中で本を読む男子生徒の姿。

 濃い緑、淡い緑。

 黄緑色。黒に近いグリーン。


 単色画。……モノクローム。

 前に、名本さんが教えてくれた。


 その絵に近づくと、絵の下に名本さんの名前と『首夏しゅか』という単語の書かれた紙が貼られていた。

「首夏って、どういう意味?」

 初めて聞く言葉。

「夏の初め、という意味です」

 名本さんが教えてくれる。

 鮮やかな緑色は、確かに初夏のイメージにぴったりだった。

「どうですか?」

「すごく綺麗。初夏って感じがする」

 感想を求める名本さんに向き直り、率直に答えた。

「ありがとうございます」

 名本さんの喜色満面な面差しに、胸が締めつけられる。


 ――やっぱり……好きだ。


「それとですね。この絵を、森井くんに差し上げようと思いまして」

 そう言って名本さんがオレの目の前に突き出したのは、あの『花明かり』の絵だった。

 嬉しい気持ちより、驚きの方がまさった。貰っていいのだろうか。

「この絵は、森井くんに持っていてもらいたいのです。森井くんに誉められて、すごく嬉しかったので。……だから、貰ってもらえますか?」

 手にしている夜桜の絵に目線を落としながら、名本さんが告げる。

「ありがとう」

「名本のこと、忘れないで下さいね」

 絵を受け取ると、名本さんがそっと囁いた。

「うん……」


 忘れられるわけがない。


 そよそよと心地よい風が室内を通り抜けて、名本さんの顔が左の方に向く。

「森井くん、見て下さいっ」

 興奮気味の名本さんの声に釣られて、彼女が指差す方に目をやる。


 西の空。

 所々に晴れ間が見えて、グレーの雲が太陽の光で朱色に輝く。

 雲と雲の切れ間から差し込む光の筋。黄金こがね色に輝く陽の光が街に降り注いでいた。

 天使の梯子。

 その表現の通り、空と地上を結ぶ。


 鼻の奥がつんと痛くなる。


 ――涙が出るくらい……神々しい。


「…名本は、もう行きますね。さようなら」

 そう言って机の上に置いてあるバッグを持つと、名本さんはおもむろに歩き出す。

 相変わらずの出し抜けに、二の句が継げないまま、左右に揺れる焦茶色の長い髪を見つめた。

『数年後、偶然再会して。お互い独り同士だったら、貰ってあげますね』

 名本さんが立ち去った室内で、無邪気な声が浮かび上がる。

 いたずらをする子どものような面持ちで、名本さんがつむいだ言葉。

「…約束」


 消えてしまいそうなこの約束が、君とオレをつなぐ架け橋になることを願う。

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