2 常盤町の流星館
「どうだった?」
次に会ったとき、彼女は長いスカートを履いていた。少し裾が汚れているが、大事に着ているみたいだ。
「いや、びっくりしましたよ。じいちゃん、あんな出前授業みたいなことやってるなんて全然知らなかった」
「うふふ、そうでしょう。おじいさんが体調を崩されて、ここをお孫さんに譲ったって聞いてね、絶対これを届けなきゃって思ったの。で、その前に、おじいさんが選んだお孫さんに、最終チェックしてもらおうと思って」
彼女は、今日はチケットを買わなかった。その代り、ロビーに腰を下ろして星也に向き直る。
「で、どうだったかな。これ、映画好きのおじいさんに見せても、笑われないかな?」
「え…えと…」
星也は口ごもった。自分には映画の知識なんてほとんどない。多分、これに映っている中学生たちの方がいろいろよく知っているはずだ。
「…俺は、いいと思いました。詳しいことは何も言えないけど、じいちゃん、喜ぶと思います」
「そう、良かった!」
彼女はそういうと、満足そうに微笑んだ。その満足そうな顔の中にさえ、冷たい影のようなものが差し込む。
「…お姉さん、どうしてこのDVD、届けてくれたんですか?学校の先生とか?」
「ううん、まさか、違うよ。私はこの映画館のファン。昔ね、ここのおじいさんにいろいろと良くしてもらったんだ」
こんな美人と、いろいろ?まさか映画を半額で見せてやる以上のことに、及んだと言いきれなくもない。何せ、孫に「少年であれ、命を燃やせ」と教え込んできた変わり者のじいさんだ…。
「ねえ、おじいさんは入院しているのよね?このDVDとプリント、届けてもらえないかな」
彼女は星也の邪推など気づいていないようで、無邪気にお願いしてくる。
「…いいですけど、ご自分で行かれなくていいんですか?直接渡したいでしょう?」
「ああ、そうなんだどね。私も病院通いの身でさ、私じゃなくて主人なんだけどね。あの人、近々東京の大病院に転院することになったの。この編集作業に思った以上に時間がかかっちゃって、結構いまギリギリな感じなんだよね。だから、あなたにお願いしようかと思って」
主人。彼女の年齢を想えばちっとも驚くことではないのだが、それでも星也は意外な感じがした。だって彼女には、世帯感というか生活感というか、そういう現実的なにおいが一切しなかったのだ。
「そうなんだ、それは、残念です。もっと通ってほしかったのに」
「あはは、ありがとう、私ももっと通いたかったな。なんかここ、来るたびにいい感じになってない?」
彼女は壁いっぱいの絵や棚いっぱいの映画雑誌を見渡しながら、満足そうに深呼吸した。
「うん、私がお世話になってた頃なんて、もっとずっと寂しかった。でも、そんなところも好きだったんだけどね」
彼女は天井を見上げる。長い年月のせいで、黒い天井には転々と白っぽいシミがある。
「ほら、星みたい」
星也も見上げた。色あせの原因は定かではないが、母はカビじゃないかと言っていた。映画好きの叔父さんと2人で大掃除をしたものだ。懐かしい感じがして、星也も大きく息を吸い込む。
「ここ、私好きだったの。古くて小さくて、でも無限の宇宙みたいでしょ。私、銀河鉄道の芝居をやるなら、絶対この映画館が良かったんだ。疲れたときにここに来て、ぼんやり映画を眺めたら、まるで星を眺めているみたいに思えたことがあってね」
そういう彼女の目は、ここじゃない、ずっと昔の在りし日に戻っているみたいだ。
「…じいちゃんも、そう言ってました」
星也も、口を開く。
「正確には、じいちゃんが先代の支配人から聞いた話なんですけど、星座の物語って、世界最古の映画みたいだって」
「…星座?」
「そう。あの星とあの星を繋いでできたこの形は、きっとこういう物語があって、だから空に召し上げられて今も輝いているんだっていう」
「ああ、確かに」
彼女はまた上を向いた。ぼやけた星々に光などない。
「じいちゃん曰く、物語を持った星が空に昇って、みんなそれを見ていろんなことを想像してっていうのは、映画のものすごく小さな始まりなんじゃないかって。季節ごとに見える星が変わって、時々流れ星が見えたりして、今の人にとっては退屈かもしれないけど、昔の人は、今の映画を観るような感覚で夜空を眺めていたんじゃないかって」
「…そう、だから、ここは『流星館』っていうのね」
そういう彼女は泣いているように見えた。
扉が開いて、二人ともはっとしてしまった。そうだ、今は営業中だ。
「すいません、今、なんかお勧めのやつありますか?」
入って来た二人のうち、少し武骨で;声の低い方の青年が、星哉に聞いた。
「おい、お勧めとか言って、困るよ俺、ホラーとか苦手だし、歴史ものとか絶対寝るし」
彼より少し背の低いほうの青年は、少し高い声でそう抗議した。
「いつまで高校生みたいなこと言ってんだよ。暗闇平気なくせに、ホラー苦手とかなんだよ」
二人で地元に帰ってくるのなんか久しぶりなんだからさ、この映画館行こうぜって言ったの、お前だろ?
「ああ、ホラーも歴史も苦手なら、これなんてどうです?」
星哉は、昨日から上映し始めた旅行の映画を指さした。
「これドキュメンタリータッチですけど、完全なフィクションです。人間ドラマが面白いですよ」
「お、じゃあ、これにします」
「はい、2枚で、1600円」
やっすいなー、ふつーの映画館じゃ一人1500円だぞ?もう学割効かないもんなー、くそー高校生くらいからもう1回やり直したいよなー。
取り止めのない話をしながらスクリーンに入っていく彼らを見送ってから改めてロビーを見渡すと、もう彼女の姿は消えていた。
あの2人と話している隙に、帰ってしまったのか。星也はため息をついた。既婚者だし、十も年上だし、今更何をする気にもならなかったけど、でもあの星の話はもっとしたかった。あの流れで、自分の名前は祖父が付けたもので、『ほし』に『なり』と書いて星也であると教えたかった。そして、彼女の名前を聞きたかった。
その週末、映画館を臨時休業にして、星也は祖父に会いに行く。
映画を通じで、人を繋げる。完全な創造者でも完全な消費者でもない、ただの提供者である我々が、大好きな映画にできることはそれくらい。そう言っているのは、誰かの撮ったじいちゃんだった。この短い映画を、早くじいちゃんに見せてやらなければ。
プリントの束はへたくそな手紙で、常連のおばあちゃんから小学生まで、流星館のファンが愛を綴ったラブレターだった。彼女がどうやって大勢にこの手紙を依頼して、それを取りまとめてきたのかはわからない。
でも、もし彼女がこの町を旅立ってしまう前に、もう一度流星館を訪れてくれたら。山ほどの手紙と短い映画を届けてくれた彼女に、『じいちゃん、これ観たよ。手紙も読んだよ』って伝えることができるかもしれない。
星也は歩く。別に彼女に恋をしているわけじゃない。あの映画館が特別好きなわけじゃない。でも、これをじいちゃんに見せたい。そしてそのリアクションを観たい。それを、彼女に伝えたい。中学校の子どもたちにも、手紙の主にも、伝えたい。
星也は歩く。特に意味もない、利益もない自分の欲望を抱えて。でも、この欲に理由何てなくていいのだ。意味なんてなくていいのだ。今はただ、じいちゃんに見せたい。その衝動のまま、星也は歩く。
「少年であれ」そう言ったのは、じいちゃんだ。
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