2-5「ヴァン・ヴェトリーガ」
「そんじゃまぁ……一服も済んだことだし、ここからは真面目に商売の話といこうか」
葉巻に火を着けてからさほど時間も経たないうちに、おっさんがそう切り出した。
「あ? もういいのかよ?」
予想以上に早い休憩の終わりに俺は少し驚く。
「小休止だって言ったからな? それにそろそろ夕暮れだ。腹が減る前には仕事を終わらせたいんよ」
散々好き勝手喋っておいてあんたがそれを言うか……自由なおっさんだ。
早々に用件を済ませたいのは元々の俺の願いだっての――。
「ならさっさと本題に入ろうぜ? 俺もまだ、今夜の世話になる宿が決まってないんだ。これ以上、長話されたら野宿になっちまう」
俺は苦笑しつつ言った。
実際——。人の出入りが盛んな首都では夜が訪れる頃には
数日間、野宿をしてきた身としてはいい加減、暖かい部屋とふかふかの寝台で休息を取りたい。湯浴みもしたい。
首都にまで来て路上で一夜を過ごすことなんざ絶対に勘弁だ。
それを知ってか否か、おっさんはハハッと笑い――「そうなっちまったら流石に青年が可哀想だ」と言っては帳場の引き出しから一枚の羊皮紙取り出した。
「じゃ、こっからは皮肉も駄弁も無しだ。お互い、真面目に取引といこうじゃないの……青年」
おっさんの黒い瞳がぬるりと突き刺さる。
同時に、肌に纏わりつくような――殺気とはまた違った――異質な雰囲気が、部屋全体に満たされていくのが感じられた。それは正しく、このおっさんから発せられている気迫そのものだ。先程までのちゃらけた空気は既にない。
……なるほど、〈
俺は気を引き締めると、差し出された羊皮紙を受け取った。
それを眺めると羊皮紙の上部には名前と年齢、出身地を記入する欄があり、その下には〈
一、我らの存在を部外者に伝えてはならない。
二、我らとの関係を部外者に知られてはならない。
三、我らから得た情報を他者への売却は勿論、他者に伝える行為の一切をしてはならない。
四、我らを裏切るような真似をしてはならない。
五、以上の事項を厳守せず、我らに損害を被った場合、その命を以てして償うこと。
これら全ての誓約を理解し、受け入れた上で我ら〈
読み終えてみればなるほど。
これはなかなか……
「さて、どうする青年——今ならまだ退き返せるぜ?」
たるんだ
まぁ、何が言いたいのかは良く分かる。ようは
それで俺がびびるような人間だと思っているんだろうか……このおっさんは?
だとすれば俺も随分と嘗められたもんだ。
「何の為に此処に来たと思ってんだ? 退き返す選択肢なんざ始めっからねぇよ」
そう言って俺は誓約書を置き、手を差し出しては書くものを要求した。
おっさんはいつもの表情に戻すとフッと笑い、胸ポケットに差し込まれた羽根ペンを手に取っては俺に渡した。ついでに字を書く為に必要な液瓶も帳場に置かれた。
俺は羽根ペンの先を液瓶に浸し、名前と年齢、出身地を誓約書にさらっと書き上げる。
あとは五指の印判だが――。いつの間にか細身の
俺はそれを左手で拾い上げ、刃先を右手の親指に押し当てる。
刃先が親指の腹に食い込み、一瞬の痛みと共にプッと血が溢れて滲み出た。
「躊躇しないねぇ青年は」
目の前で様子を見ていたおっさんがくっくっと面白そうに肩を揺らす。
何が面白いんだ。と内心で思いつつも相手にはせず、血に滲んだ親指を左手の五指全てに押し当てて血を塗りつけた。
最後にその五指を誓約書の右下余白部分に押し付ける。
これで誓約は完了のはずだ。
「これでいいんだよな?」
俺が聞くと、おっさんは誓約書を持ち上げては内容を確認した。
「姓が書かれてないが理由があるのか?」
やはり、ここでもそこは聞かれるか。
検問の時でも思ったが姓が名乗れないってのは意外と面倒だ。
「逆にそこまで書く必要があるのか?」
名乗るつもりはないが一応、必要性は聞いておく。
「いや、別に書きたくなければそれでいいさ。強要はしない。ただ、同名の奴と区別がつきやすいのと信用できるかできないかの問題だけだ」
「ってことは、俺は信用ならないって言いたいわけだ」
「否定はしねぇよ。事実、今まで姓を名乗らなかった奴らの多くは誓約を守らなかったしな。信用してないのは本音だ。だから青年……誓約だけはちゃんと守れよ? 破れば俺達に〝処理〟されちまうぜ?」
「回りくどい言い方だな。素直に殺すと言えよ」
「こっちの方が雰囲気あるだろ。少なくとも冗談には聞こえないはずだ」
「あんたが喋ると何言っても冗談にしか聞こえないけどな? まぁ、肝に銘じておくよ」
俺の軽口に「一言の多い青年だ」と言って、おっさんは肩を
それから誓約書を丸めると紐で括り、帳場の引き出しにしまい込む。
俺はというと、自身の荷物袋を漁り、適当な布を見つけては
簡易だが止血にはなる。時間が経てば傷も塞がるだろう。
「そんじゃまぁ、リヒト君——」
出し抜けに名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。
「今日から君を〈
大袈裟に両手を広げては、演技くさい口調でおっさんがそう言った。
そして馴れ馴れしく握手を求めてきている。
あまりよろしくはしたくねぇな。と思いながら俺は、無言無表情で仕方なくその肌色の悪い手を取った。
「ちなみに俺の名前はヴァン。ヴァン・ヴェトリーガだ。気軽にヴァンと呼んでくれていいぜ?」
「あぁ、分かったよ。おっさん」
「……分かってねぇじゃねぇか」
これにはおっさんもたまらず苦笑した。
「ま、それなら俺もお前さんのことを青年と呼ぶことにするよ」
「どうぞお好きに。その方が俺もしっくりくる」
冷ややかな俺の言葉を受けて、おっさんは頭を掻いた。
「——全く。初めましてからやっと互いの名を知れたというのに、この青年は……」
呆れたと言いたいのだろう。しかし、おっさんはそこまでは言わず話を続ける。
「そんで青年。わざわざ首都にまで来て、俺から何を聞きたい? 街の美食情報か? それとも最近、商人たちの間で話題になってる儲け話か? まさかまさか、惚れた女の名前が知りたいとかじゃないだろうな?」
「どれもこれも違ぇよ。つうか、そんなこと此処に来なくたって自分で調べが付くだろうが」
「じゃあ、何が聞きたいんだ?」
問われて一瞬、俺は言い澱んだ。
怯んだわけじゃない。ただ、そうかと。もしかしたらここで、復讐すべき男と親友二人の行方を知ることが出来るのだと。そう思い、ハッとしてしまった。
「どうした青年?」
急に時でも止まったかのような俺の様子に、さすがのおっさんも心配した口調になる。
俺は一度だけ頭を振ると「いや、なんでもない」と伝え、言葉を続けた。
「おっさん。俺があんたから知りたいのは、とある三人の行方についてだ」
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