命の飴
小笠原寿夫
第1話
イントロダクション
噺家として、生まれてきた。噺家の息子としてではなく。
私は、四歳の頃から、ほとんど言葉を話さなくなった。それでも、やはり噺家として、成功した。それは、ひとえに母親の影響が大きかった。母親は、私の片親としてではなく、友達として、私に接してきた。他の大人とは話ができないのに、なぜか母親とは、うまく話せた。
「あの線香が、ちょうどたちぎれでございます。」
そんなサゲの落語がある。茶屋町で遊ぶ町人が、最後に花魁から言われる台詞である。そんなこともお構いなしに夜通し話し続けた。
片一方が喋れば、もう片一方が相槌を打つ。そうして、話はどんどんと飛躍していく。
話にオチをつけるのが、私の役割であることが多かった。
母親は、話の構成はうまいが、落とすのは下手だ。だから、私が最後にツッコミを入れる。
殊、笑いに関しては、母親は天性のものを持っている。そうして、私をくすぐり続けた母は、もちろん、まだ生きている。
「なぁ、あんた、お母さんが死んだらどうするつもり?」
「高笑いするわ。」
「私があんたぐらいの年の頃は、もう働いてたんやで。」
「時代が違うやん。」
「あんたとおったらあんたのアホがうつる。」
「当たり前や。あんたの子や。」
当たり前の会話にちょっと毒を効かせるのが、ツッコミのポイントだということを、小学生に把握できていた。無理なく。自然に。それが、他人となると、そうはいかない。本音と建前が効かなくなるのである。マザコンという言葉があるが、それとはまた、ニュアンスが、違う。親友と言った方が正解なのかもしれない。
「あんた、外ではよう喋らんのに、家ではよう喋るなぁ。その面白さ、外でも発揮したらええのに。」
「おかんやから喋れんねん。」
「なんで?」
「おかんやから。」
母親には気を使わない。気兼ねなく喋れる。どこの地方に行ってもそうなのか。それとも関西特有の文化なのか。
父親と弟には、翻して、気を使った。父や弟が、母に気を使っているくせに、私が歯に衣着せぬ物言いをしてきたことに対するある種のコンプレックスからくるものなのかもしれなかった。父の親父ギャグと弟の毒舌、それから母の明るさの中で私は、育ってきた。
家族の中で、一番面白くないのが、この私という訳だ。
幼少期
枝雀落語とドリフのコントを観ながら、成長した。歴史に踏襲されてきた笑いの遺伝子が、そこには組み込まれていたし、私は、それを朧げに見ては、笑った。今、振り返ると、彼らに共通する笑いは、データ云々に関わらぬ豪快さと綿密に仕組まれたオチに至る。そこに哀愁を加味することで、子供だった私に、いずれかの恐怖と寂しさを植え付けた。上方落語と、東京の舞台。対極にあるようだが、笑いという文化に関しては、国境を超えていける共通点がある。
「洒落たんなぁ。」
これが、大阪落語に代表されるサゲの中核である。そのままではなく、何処かにひねりを入れる。説明しようとすれば、出来なくもないが、するだけ野暮だというのが、その笑いの特徴であり、東京などでは、それを粋と呼ぶ。世界で暗号化理論なんかが幅を利かせるずっと以前から、そこには暗黙の了解があった。
「コノオッサンオモロイ」
この記号だけを残して去っていく。これが、枝雀さんとドリフターズの志村けんさんを結びつける唯一の共通した特徴だった。噺家は、噺だけを残して高座を降りる。
「お後がよろしいようで。」
というのが、その起源であろうと思う。
ところが、このお二方は違った。噺だけに留まらず、その噺家、もしくは、コメディアンの性格をほんの少しだけ加味してから、それを舞台に残して去る。だから、また次回が楽しみになる。
いわゆる、一見さんを常連客にしてしまえるだけのパワーがあった。何よりも、幼少期の私を虜にした二人の天才は、私を形作る全ての要素になったと言っていいと思う。
上岡龍太郎の軌跡
私の笑いの原点を大きく覆したのが、上岡龍太郎その人である。他人を笑わせずに、笑いをここまで熱く語れる芸人さんは数少ない。
笑いの歴史を私に、伝授してくれた、謂わば、影の師匠がこの人だった。PAPEPOTVという深夜番組で、鶴瓶師匠の独特のキャラクターを上手に駆使しながら、コアな笑いを浸透させていく。この手法を、後に使い、成功させたのが、松本人志である。
それまでのキャラクター重視の笑いから、所謂、プロデュース的な笑いを、寧ろ、笑いをプロデュースできる人材を輩出した人は、やはり天才、上岡龍太郎その人ではなかったか。
「相手を美味しくしておいて、あとで自分が料理する。」
この手法は、実は笑いを革命的なものに変えた。その脅威は、萩本欽一さんの頃からあったようだが、そこに毒をつけ足したか否かが、お二人の圧倒的な違いであった。「この男、完璧。」それを植え付ける作業を成し遂げたのが、この男の功績である。
日本のお家芸「義理と人情」
吉本新喜劇と松竹新喜劇は、私が子供時分に上方芸能を彩る二大組織だった。吉本興業がチームワークの笑いであり、舞台の笑いとするならば、松竹芸能はスターを育てる笑いであり、映画を撮る企業だと思う。それぞれに特徴がある。松本人志さんが、著書で藤山寛美にはなりたくない、と書かれている。喜劇人ではなく、面白い人になりたい。それが理由だそうだ。ところが、これを一歩間違うと、恐ろしい。面白さだけを追求していくと、世の中からは外されていく。常識と笑いの間で苦悩することになる。だから、面白いことを演じることは簡単だが、面白い人になろうとするのは危険な作業なのである。幸いにして、松本人志の周りには笑いを熟知した人間が集まっている。だから、笑いで攻撃しながら、笑いに守られている状況である。そうして、民主党が出来上がった。
面白ければなんでもいい。そういう国に日本は、なってしまった。
自民党の魅力
話は逸れるが、民主党と自民党には大きな差異がある。ヤクザか否か。この一点に尽きる。自民党はヤクザ。民主党の医者といったところだろうか。ヤクザの膿を医者が治療する。この当たり前の作業を国会はやっている。ところが、いつの間にか暴力団は排除され、日本は医者だけの国に変わった。患者がいない国に医者だけが存在する、というのが、日本の現状である。日本は健康になり過ぎた。治療薬には毒しかない。その毒が、自民党である。
自民党のペーソスは?と聞かれることがある。金。と答える人は、大半だろうが、毒。と答える人もそう少なくはない。おっさん政権は必要不可である。
笑わせて笑わせて
人はなぜ笑うのか?幸せでも不幸でも人は笑う。泣き笑いというのが、不幸な笑いかというと、あながちそうでもない。
人が声を立てて、泣いているということは、大声を出して笑っているのと、同義なんだ。
それが最近になって分かってきた。不幸のどん底でも人は笑う。人間とは、そういう生き物だし、それは人が飯を食うぐらい当たり前のことなのである。どん底の人間は、果てしない未来に手を差し伸べて笑っているのかもしれない。きっと幸せなことが待っているかもしれない望みを持って。
エレガントな解答の果てに
数学と法律学は、完璧であり、誰にも変えられない。では、笑いはどうか。答えはない。根本にある哲学に近い。その哲学を駆使しても、いずれにせよ、笑いは不完全なものである。故に単純な答えから派生してきた笑いを元通りに戻すのは、もう無理だろう。笑いを考えるのに、笑いは必要。毒を洗い流す薬を作るのに、毒が必要不可欠なように。毒を以って毒を制す。血で血を洗う。動物は、この作業をクリアしてきた。
マウンテンゴリラの習性
何故、マウンテンゴリラなのか?
それはさておき、サルは敵から身を守る為に、木によじ登った。それから、どうしたか。木の上で永住する為に、木の実を摘まんだ。これが、如何に重要で、不可欠なことかを今から説明しよう。動物は、従来、四つ足で行動する生き物である。その動物が、初めて、手というものに気づき、如何にして、指というものに気づいたか。それが、一連のこのサルの所作に他ならない。指先を操り、サルは、木の実を食べた。礼節を重んじるという意味で、箸を使った。これが、人類の進歩である。人は、美味しいものを食べると、笑顔になる。本当に美味しいものを食べると、笑ってしまう。そこに理由はない。笑い声を聴きたいが故に、人は、料理ではない何かを作った。料理を作る前段階の基本の心得である。これが、笑いという料理の副産物である。
笑いは礼儀。
これに尽きる。
力こそ正義
議員さんの手で、この国は作られている。一度、街頭演説中の議員さんと、握手してみて欲しい。その握力は、生半可なものではない。眼力も然りである。国を変えようとするには、人間本来の力が必要である。饒舌に話せるから、議員になれるというだけではない。人の上に立つためには、体力は、人並み以上のものが、必要になってくる。その上で、この国を思う気持ち。それが、国を動かしているのである。腕力。何物にも変えがたい、その力が、この国の原動力になっている事は、紛れもない事実なのである。
問題を解決する力
日本には、常に問題が山積している。山積みになった問題に、どのように立ち向かうのか。これは、菅民主党政権の時代に、何度も繰り返されていた言葉である。政治とカネの動き。それは、間違いなく、政治家に付き纏う問題である。カネにまみれた政治家が、どうして偉いのか。それは、カネがこの世を動かしているからに他ならない。心の動きがカネを作る。カネがものをいう時代は、今も昔も変わらない。
では、私はどうか。小銭持ちである。大金持ちの振りをした、節約家である。知恵を絞るという事は、全国民に言える、最大の課題ではあるが、それだけではない。
知恵。知識。感受性。
それを以ってしても、解決できない問題もある。それは、やはり、熱意だと思う。誠心誠意、この国を良くしようという考え方が、結局、この国を良くする。
私の提言
この国を支えているのは、何であるか。独自性だと思う。誰かの受け売りかもしれないが、人と違う事をする。他国にはないものを作り出す。海外では、日本というのは、変わった国だという認識が根強い。何故、暴動が起きないのか。偏に、トップがしっかりしているからだと言わざるを得ない。職場で、学校で、家庭で、人はそれぞれに一生懸命生きている。
何かを作り出す仕事。それに加えて、心の動きがある。心は光をも超えるスピードで伝播する。人が人を思う心は、何物にも変え難い、人生の極意である。苦労の果てに、幸せが待っている。それが、パン食い競争だとしてもである。
病は気から
私は、眠れない夜に、つまらない事を考える。それから、眠りに就く。夢を見るためである。潜在意識の中にある、その工程は、脳の中で、夢を作り出す作業に他ならない。
人間、皆、夢の中では天才だ。どんなに苦難の時でも、夢を見れば、それが解決することが、多分にある。現実を生き抜いてこそ、夢は活性化する。それが私の持論である。
寝ることは重要。
睡眠の中では、人は、自分の世界に浸れる。現実を整理するのが、夢の作業である。想像力を膨らませて、寝る。大変な作業ではない。少し考えてから寝る。寝るために、人は、食事をし、行動する。そこに、人間の原点がある。
独り相撲の論理
口喧嘩は、手を出した方が負け。これが、一人芸の特徴である。そういう意味では、私は、もう負けている。
独り相撲とは、土俵を敷いて、一人で相撲を取る姿を見せる芸である。そういう意味では、誰も傷つかないし、誰も傷つけない。本人は、心の傷を負うかもしれないが。
蔵の宝より、身の宝。
身の宝より、心の宝。
心技体とは、相撲の心得であるが、財身心は、笑いの心得なのかもしれない。どれが欠けても笑いはできないし、仏法の精神にも繋がる。
笑いの伝家の宝刀は、実は、仏法の心得なのかもしれない。
優しくなれれば、人は笑顔になる。それが、どんなに暴力的であろうとも。
落語とは、業の肯定
立川談志師匠の残した言葉である。人間、眠たくなれば、寝るし、お腹が空けば、飯を食う。
至極、当たり前のことなのだが、それを業と言ってしまえば、それを肯定するのが、落語家である。志ん生は、業の体現者だと、立川談志師匠は、書いたが、落語を研究し続け、遊ぶだけ遊んだ上で、舞台をフラという形で表現したのが、古今亭志ん生その人である。フラとは、芸を突き詰めた上であとに残る最高の芸なのである。それを、人は、天才と呼び、玩具として面白がる。
人は、皆、一人では生きていけない。ただ、芸人は違う。一人で生きて、一人で死ぬ。当たり前の事だが、重要な事である。
やさしさライセンス
言わずと知れた松本語録の一部である。
優しくなくっちゃ強くはなれない。
やさしさライセンスには、そういった意味も含まれている。フリオチフォローのフォローの部分だろうか。
芸人のプライド
芸人は、頭がいい。そして、プライドが高い。故に扱いが難しい。
「よっ!日本一!」
と寄席に行くと、真打ち登場の場面で聞かれる事があるが、それもこれも、落語家ならではのプライドを傷つけてはいけない客のマナーなのである。
客は、落語家の迫力に圧倒されて、初めて喜びを覚える。
さて、私の落語は、何処にあるのか?答えは、まだ出ていない。
部屋のベランダで、タバコを吸っている時、それが、ひとつの落語だったり、ただの激励だったり、することがある。私の部屋の間取りは、変わっていて、ベランダのすぐ横に、テレビがある。テレビの片隅で、タバコを吸っている状態である。そこで、私は、タバコを吸っている。タバコを吸っている時だけは、私は、自分勝手なことを考えられる。それをお天道様が見ているから、それが、落語に繋がるという認識である。私の落語とタバコは、 切っても切り離せない。タバコが苦手な方は、話すしかない。それでも落語を好きだと言ってくれるのならば、と言ったところだろう。誠に卑怯だが、それが、真実である。
尊敬する人を否定する
酢豚の作り方。これは、他の誰も真似できない、中華料理の最難関なのだそうである。何故、酢豚か?酢豚は、可愛がっていた豚を殺し、酢と甘酢あんかけをベースに調理する。火の通り加減、味つけ、盛りつけに至るまで、最善の努力をする。可愛がった豚を食うという発想は、中国人ならではである。
笑いはどうか。ひとつ、言えることは、料理と笑いは、常に進化し続ける伝統技術だということだ。大阪人に「笑いとはなんですか?」と尋ねると、「スパイス」と答える人が、多い。そう。笑いとは、スパイスなのである。穿った視線から物事を見る視点。本気の嘘を真剣に喋る姿勢。客をドッと笑わせられる瞬発力。これが、笑いの極意である。世界中、どこへ行っても、文化は違えど、笑いは存在する。そういった意味に於いては、人間にとって、暴力や欲求を笑いに変える力は、平和に於いて、必要不可欠なのである。
酢豚に戻ろう。
自分が愛した豚を殺して食べようという、その発想そのものが、笑いに直結している。笑いは0円。経済を考えたときに、これ程までに美味しいビジネスはない。
明石家さんまは、桂三枝師匠に憧れて、芸能界に入った。
松本人志は、島田紳助と闘いたくて、吉本に入った。
では、私は?と聞かれると、少し返答に困る。
笑いは、酢豚。
美味しいものを求めて行った結果が、なんとなく笑いに繋がった。そう言わざるを得ない。天性の技術は、自ずと備わっていた。単に、湧き上がる自信だけが、そこには、あった。
それが、答えで、それが理由である。湧き上がる自信、それを作り出す要素は、やはり、家庭と学校の往復による、裏表だったようにも思う。
落語は、聴くから始まる
草かんむりに、落語家という文字を当てて、菊(聴く)と読む大喜利の答えがある。まさしく、その通りで、落語家は、師匠から噺を聴き、それを客が聴く。明石家さんまさんが、人の話を聞いて、相槌を打つ。それに付け加え、軽いジョークをかます。落語家本来の姿勢である。松本人志さんも、同じ作業をしておられるが、多少の差は、ある。押しの芸か、引きの芸かという事である。明石家さんまさん、島田紳助さんが、押しの芸、とするならば、松本人志さん、浜田雅功さんのお二方は、引きの芸である。自分達が、楽しんでいながら、客を惹きつけるスタイルである。このとき、漫才は、大きくシフトした。
島田紳助さん曰く、ダウンタウンの芸は、チェンジアップだそうである。緩めの球を、タイミングを外しながら、客を惹きつける。かなり、高度な芸当である。
さて、私の芸風はどうか?
私は、一人で考えて、ネタをするというよりは、輪の中で、自分のスタイルを模索していく人間だと思っている。時に、翻訳したり、時に突っ込んだりしながら、他人の笑いを分かりやすく、聴き手に伝える。そういった意味に於いては、浜田雅功さんに、少し芸風が似ているのかもしれない。諸先輩方を引き合いに出すのは、いささか、恐縮ではあるが、究極の素人芸に近い。客になり、演者になり、時にサポート役に回る。
個人でも、動画を撮ったりさせて頂いているが、それよりは、喫煙所で、わあわあ言っている方が、性に合っている。
お金について
私には、経済観念があまりない。実は、これは、致命的な芸人の弱点である。大きなお金を持つと、貧乏性が、何処かに飛んで、大使いしてしまう。
昔の芸人さんは、借金の額が、半端ではなかったそうだが、今の芸人さんは、違う。ギャランティの問題だけで言うと、一人勝ちの論理が、まさに直接当て嵌まるのが、芸人の世界である。
芸のためなら女房も泣かす
そういう時代は、終わったのかもしれない。女性に優しく愛情を持って、接するのが、マナーであったりするのかもしれない。最近では、女芸人なんていう括りまで、出来ているのだから、女が闘う強い時代になったのかもしれない。
夫婦漫才
夫婦漫才についても、少し触れておこう。別れた後に、売れる漫才さんもいる。そういった意味に於いては、漫才コンビは、一人になってからが、勝負なのかもしれない。
私は、独身。
家族と別れる前に、一定の笑いの肝を覚え込まされた。笑いを語れるほど、私は、面白くもないが、経済を考えた上で、笑いというものは、必要不可欠になってくる。
面白ければ、買う。
それは、昔からの名残りで、今も昔も変わらない。
これが、笑いのDVDが売れる現状である。
日本の立ち位置
日本という国は、島国である。
島を守る事が、日本に課せられた使命である。
島取り合戦。
需要と供給。
健康上の注意。
笑いには、色々と副作用がある。
いい、悪い。それだけが、演者と客とのコミュニケーションだった時代もあったらしい。
スーパースターというもの
見事なものを見ると、人は、感動する。それだけ、人は、共感よりも敬意を払って、それを見る。時代を映し出したり、自分を投影させたりされる事が、スーパースターの役割なのである。
人が努力してもしょうがないことを簡単にやってのける。
それが、スーパースターに課せられた使命だし、その人は、全て人類を守ることになる。
愛情
人は、食べている時は、無防備で幸せである。食べる事は、生きる事。笑いの極意は、料理だったり、家計を支える経済感覚だったりする。
お母さんになる。それが、究極の笑いに課せられた使命である。
お父さんとお母さん
夫婦の間には、隠語が存在する。阿吽の呼吸というものである。長年、連れ添えばこその賜物である。
「あの、あれ、どこや?」
「そこにあるやないの。」
一言で会話が通じる究極の漫才である。
ネタをやらない理由
ネタは玄人のもの。トークは素人のもの。私は、素人だから、ネタはやらない。精々、落語を動画サイトに、配信する程度である。ただ、単純に仕事をすることが、ネタに繋がると考えているから。仕事をするということは、それで、お金を頂いている訳だから、それについては、プロでありたいし、プロであり続けたい。
私の本性
私には、肩書きがない。子供もいない。インディーズの作家である。これまでもそうだったし、これからも、そうあり続けたい。その中に残っていくものがあれば、それは、私にとって、最果ての生き様なのだと思う。その上で、一瞬のひと時を読者様と共有できればいい。
今だけは、そう思っている。
我々が、学校教育で学んできたこと
ひとつは、生き方。
もうひとつは、芸。
どちらが欠けても、その人は、存在し得ないし、その基礎の基礎を学んだのが、学校教育だった。
「教育とは、学んだことのうちに残ったものに他ならない。」
かの有名なアインシュタイン教授の金言である。
学校というところは、それを学ぶ場だし、その教育を存分に活かすのが、社会の場である。当たり前の事だが、私に、もし子供が生まれれば、私に残せるものは、形のないものしかない。愛情であり、生き方であり、芸である。
芸人の世界に、子供が生まれれば、その人には、やはり、親を超えて欲しいし、叡智なものになって欲しい。極論を言えば、天才を育てたい。
全ては、笑いのため
萩本欽一さんが、仰った言葉であり、これだけは、忘れないで頂きたいが、人間は、笑うという最大の使命を持っている。人は、何のために生まれてきたのか。その命題の答えが、笑う事である。
日本の伝統芸能を考えるシンポジウム
「どうも〜、南波ちゃんです!」
「風間ちゃんです!」
「二人合わせて、お笑い南風〜。ワォ!」
「夏と言ったら、やっぱりスキューバーの季節ですね。」
「スキューバー。女性の致死率10%と言われる。」
「それは、子宮がんだろ!」
「ベロベロバー、ベロベロバー。」
「産婆さんでもねえよ!」
「じゃあ、ぼくにスキューバーのやり方を教えてくださいよ。」
「わかりました。まずは、水中に潜ってください。」
「わかりました。ドブン!や〜、風間ちゃん、やっぱり海は広いねぇ。」
「何で水中で喋れんだよ!」
「あかんのかいな。」
「じゃあ、今から大事な事を教えますからね。」
「はいはい。」
「海には危険がいっぱいですから、危ないと思ったら、こうやって(手を振る)合図をしてください。」
「行きますよ、ドブン!」
(二人泳ぐ。)
「(手を振る合図)」
「どうしました?」
「人喰い・・・。」
「人喰い?」
「コンブ。」
「ただのコンブじゃねえか!」
「何か他のやつ教えてくださいよ。」
「わかりました。じゃあ、上にあがるときは、親指を立てて合図してください。」
「行きましょう、ドブン!」
(二人泳ぐ。)
「(親指を立てる合図)」
「どうしました?」
「いや〜、海は綺麗やねぇ。」
「そんな事で合図すんじゃねぇよ。(頭を叩く)」
「(手を振る合図)」
「テンパってんじゃねぇか!もういいよ。」
「お笑い南風!ワォワォ!もひとつおまけにワォ!」
「どうも、ありがとうございました!」
桜と笑顔
桜は生命短き故に、人々を魅了する。人は、生命長き故に、底果かとなく、醜い。醜いものを見る事が、結局のところ、笑いに繋がる。
そうして、私は、スーパースターになった。
笑わし隊が行く
日本が満州にお笑い芸人を慰問に送ったとき、エンタツ・アチャコという芸人さんが、兵士が一人ずつ死んでいく過酷な状況の中で、漫才をやっていたらしい。まさに、死と隣り合わせで兵隊を笑わせることは、大変な所業に他ならない。
人は、飯を食うのと、同じくらい当たり前に笑う。
笑いたいという欲求は、世界全土に共通する文化である。
我々に課せられた使命
人は、簡単に死ぬ。然し、生まれ変わることもできる。別の誰かとして、生きていく事もできる。
であるならば、私達に課せられた使命は、何かをくすぐり続け、何処か、こそばゆいところに触れ、子供達にそれを伝え続けていくことだと思う。
孫と玄孫
私に孫は、出来ない。玄孫とは、孫の孫の事である。その彼らが、どのような世界を見るのか。
多分、我々と変わらない風景を、もう一度、見るのだと思う。
まだ見ぬ世界は、歴史を踏まえれば、見えてくる。もしかすると、私の孫は、私本来の姿なのかもしれない。これを、仏法の世界では、輪廻と呼ぶ。
輪廻と解脱
歴史は繰り返す。その繰り返しから、抜け出す事を、解脱と呼ぶ。解脱とは、生を捨てること。死とは、また違う。全てから解脱したものは、六角を手に入れ、見るもの、聴くもの、触れるもの、匂うもの、味わうもの、感じるもの、全てが美しくなる。
仏になる
人間は、内面に必ず仏を持っている。どんな悪人にも、仏の御心は存在する。我々は、阿弥陀の如く釈迦をお護りする事を生業にする坊主である。
坊主である以上、仏になりたいと願う。
宗論は、どっちが勝っても釈迦の勝ちってえ独々逸がありまして、えー。
命の飴 小笠原寿夫 @ogasawaratoshio
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