第6話 7月26日

 焼けたトーストの香ばしい香りと、その上で溶けるマーガリンの香り。父さん、母さんのマグカップから漂うコーヒーの香りと僕に入れられた甘い紅茶の香り。ベーコンエッグから立ち上るベーコンの香り。様々な香りに包まれた中で、僕はテレビの画面を凝視していた。

 テレビでは、月野沼で死体が発見された事件についてのニュースが流れていた。撲殺され、白骨化した遺体の身元が判明した。数年前に行方不明になっていた五十代男性、古田島政憲こたじままさのりであるということだった。

 僕たちが調べている長岡直人が起こした無差別連続殺人の被害者で、行方が分かっていない二人のうちの一人……。あの事件は、まだ終わっていないのではないだろうか。

「瞬が真剣にニュースを見ているなんて、珍しいわね」

 母さんがトーストを頬張りながら、声をかけてきた。

「……うん、場所が近いからね」

「ちょっと、変なことに首を突っ込まないでよ!それに、月野沼には近付かない約束でしょ」

「大丈夫だよ」

 僕はそう言って、残っていた紅茶を飲み干した。

 月野市のほぼ中央に位置する月野沼には、昔から河童かっぱが出るという言い伝えがあった。子どもが沼に近付くと河童が現れて、沼に引きずり込まれるというのだ。二十一世紀の現代に信じている子どもがいるわけないと思うだろうが、月野市の子どもたちは無条件で信じ込んでいた。なにしろ、生まれてからずっと「月野沼には、河童が出るから近付くな」と言われ続けているのだから。実際に僕は生まれてこのかた、月野沼に近付いたことはなかった。

 ただし、子どもたちの間では月野沼とは呼ばれていない。「河童ヶ池かっぱがいけ」と呼ばれて、恐れられていた。河童が出ることと、月野沼の見た目が池、もしくは湖のようだったからだ。僕らが通っている月野小学校の四階建ての校舎の屋上から、遠目ではあるが望むことができた。僕の中で沼といえば、ドロドロとしていて水なのか泥なのか分からない。そんなイメージだ。しかし、校舎の屋上から見る河童ヶ池は、水面がキラキラと光り、とても沼というイメージとはほど遠かったのを覚えている。




 僕は身支度を整え、出掛ける準備を始めた。

「今日も雑貨屋さんの子と遊ぶの?」

「だから、カッちゃん、秀彦と自由研究してるんだってば!図書館に行くから」

 母さんは、いつもカッちゃんを雑貨屋さんの子と呼ぶ。カッちゃんの家は、商店街の中にある武田雑貨店を営んでいたからだ。

「自由研究ばっかりじゃなくて、他の宿題もやらないと終わらなくなるわよ」

「分かってるって。いってきます!」

 僕は母さんの口撃こうげきから逃げ出すように家を出た。自由研究だって、立派な夏休みの宿題なのに!

 自転車にまたがると、図書館を目指す。いつの間にか、図書館が僕らの集合場所になっていた。

 朝から容赦なく日が照りつけている。今日も暑くなりそうだ。自転車を漕ぐスピードを上げると、吹き付ける風が母さんの小言を吹き飛ばしてくれた。

 今日も僕が一番乗りだ。二人の姿は見えなかった。

 自転車置き場に自転車を停めると、入口近くのベンチへ腰を下ろす。ベンチの側には一本の樹が立っていて、青々とした葉を茂らせていた。そのおかげで、ベンチを日陰にしてくれていた。

 そこへ、一台の赤い自転車がやってきた。遠山あかりだった。

「おはよう!」

「おはよう、日下君。図書館だとよく会うね」

 遠山あかりは自転車を駐輪場へ置くと、ベンチまでやってきた。

 不思議なものだ。学校では、あまり会話を交わしたことがなかったのに。

「面白い本、見つかった?」

「そこそこ面白かったのは、いくつかあったんだけどね。まだ、読書感想文をどの本で書くか決まってないの。日下君は、自由研究のテーマ決まった?」

「あっ……、まだなんだ」

 とっさに嘘を吐いてしまった。自由研究のテーマが殺人事件なんて、変な人だと思われないだろうかと思ってしまった。やっぱり普通のテーマの方がいいのではないだろうか。

「そうなんだ……。自由研究のテーマって難しいよね。何でもいいって言われるとなかなか決まらないのよ。私もまだ決めてないし。……私たちって優柔不断なのかな?」

 遠山あかりは、そう言って笑顔を見せた。僕もそれにつられて、いつの間にか笑っていた。

 僕の視界の隅に、秀彦が自転車でやってくるのが見えた。

「早く決まるといいね、自由研究のテーマ」

「読書感想文の本もね」

 僕たちは、また笑いあった。

「じゃあね」

「うん、またね」

 遠山あかりは、図書館の中へと消えていった。

 それとすれ違いに秀彦がベンチへとやってくる。

「カッちゃんは、まだ?」

 僕はそれに、いつものことだと頷く。

 それからの数分間、昨夜のテレビ番組のことなど、取り留めのない話をしていた。

 しかし、突然、秀彦が妙なことを言い出した。

「そういえば、昨日の夜カッちゃんから電話があってさ。千葉刑務所の住所を聞かれたんだけど……あれ、何だったんだろう?」

 千葉刑務所の住所?そういえば、昨日カッちゃんが「千葉……、千葉か……」と呟いていたのを思い出した。

 秀彦は、僕ら三人の中で、唯一スマホを持っていた。そして、家には彼専用のパソコンもある。ちょっとした調べ物などは、秀彦に頼めば調べてくれる。

 とはいえ、何故、千葉刑務所の住所なんて聞いたのだろう。まさか、直接長岡直人に会いに行くつもりなのだろうか。……カッちゃんなら言い出しかねない。

 噂をすれば影と言うが、カッちゃんが猛スピードでやってくるのが見えた。

 耳をつんざくようなブレーキ音を立てて、カッちゃんの自転車は僕らの前で停止する。

「ごめん、ごめん。あやうく店番させられそうになってさ。なんとか逃げてきた」

 そう言いながら、カッちゃんは息を弾ませる。

 いつものことなので、カッちゃんには心から悪びれている様子はない。こちらもそれを攻めるつもりはなかった。

 額から流れる汗もそのままに、カッちゃんは話し出す。

「今朝のニュース見たか?河童ヶ池で見つかった白骨死体の身元が分かったみたいだな」

「みたいだね」

 僕と秀彦は声をそろえる。僕らは、自由研究のテーマを殺人事件に決めてからというもの、必ずニュースをチェックするようになっていた。

「古田島って人……」

 僕がそう口を開いたのを遮り、カッちゃんがとんでもないことを言い出した。彼はいつもそうだ。

「だからさ……、今日はみんなで河童ヶ池に行ってみないか?」

「えぇー!」

 僕と秀彦が目を丸くする。カッちゃんも河童ヶ池の話は知っているはずだ。それなのに……。

 二人が言葉を失っていることにはお構いなしに、カッちゃんは続ける。

「よくテレビとかでさ、犯人は現場に戻ってくるとか言うじゃん」

 確かに言うけど……。今回は、その犯人が長岡直人かもしれないって言われているんだから、刑務所からは出て来れないと思うんだけど。いや、仮に別の人間が真犯人だったとして、それならなおさら現場は危険ということになる。

 それに、河童ヶ池に近付いた子どもは……。

「まさか、……二人ともあの話、信じてるの?」

 カッちゃんが茶化すように言う。

 もちろん、信じているに決まっている。生まれてからずっと、それこそ耳にたこができるまで「河童ヶ池には近付くな」と言われて育ってきたのだから。

 僕と秀彦は顔を見合わせる。僕らは目配せをし、「やめよう」と口を開こうとした。だが、その言葉が口から発せられることはなかった。カッちゃんがまくし立てたからだ。

「河童なんて、サンタクロースと一緒だぜ。いるわけないんだよ!それとも二人とも妖怪や妖精とかおばけのたぐいを信じているわけ?」

 僕だって、サンタクロースなんて信じちゃいない。妖怪の類だって同様だ。しかし、月野市の子どもにとって、河童ヶ池の河童は別だ。サンタクロースや妖怪とは違う。もっと身近な存在だ。すぐ側に、河童ヶ池があるのだから。

「信じてないけど……」

 僕より先に秀彦が口を開く。マズい。秀彦が流されかかっている。

「僕も信じてないけど……止めようよ。この街の大人がずっと言い続けているんだから、きっと何か意味があるんだよ」

 僕の反対意見に、カッちゃんは間髪を入れず、反論する。

「だからさ!そんなに河童ヶ池自体に近付かなきゃいいんだって。それなら、危ないことなんてないだろ?」

「……うーん」

「そうかもしれないけど……」

 今だ決めかねている僕らを急かして、カッちゃんはすぐに出発を促す。

 結局、僕と秀彦はカッちゃんの勢いに流されることになってしまった。




 図書館を出発してから、三十分ほどで僕らは河童ヶ池に到着した。

 自転車で風を切っている間はよかったが、止まった途端、体中から汗が噴き出す。

 太陽は朝よりも輝きを増し、僕らに強い光を降りそそいでいる。河童ヶ池の周りは公園になっていて、木々が生い茂っていた。その木々がゆっくりと風に揺れている。

 風は吹いているのだが、僕らが涼しく感じられるほどの風ではなかった。

 自転車置き場へ自転車を停めると、僕らは日陰に避難した。何しろ、真夏の日差しの中、体に鞭を打って自転車を漕いできたのだ。それも三十分も。少しは体を休めないと倒れてしまう。

「……ったく、毎日、毎日暑いよなぁ!」

 カッちゃんがTシャツをパタパタと扇ぎながら、太陽に毒づく。

 僕もそれには同感だったが、疲れて口を開くのも面倒だった。

 その代わりに、僕は目を動かし、周辺の様子をうかがっていた。

 陽の当たる場所には人がいないが、木陰には数人の大人が思い思いに過ごしていた。中には運動をしている者までいる。このクソ暑いのによくやるよ。……やはり、僕たち以外に子どもの姿はない。皆、あの話を信じているのだ。

 ……白骨化した死体はどこで見つかったのだろう。特に立ち入り禁止になっているような場所は見当たらないし、警察の姿もない。死体が見つかっても数日も経過するとこんなものなのだろうか。

 月野沼は、波もなく陽の光を受けて、水面がキラキラと輝いていた。そよ風は木々の枝をサラサラと揺らしている。目の前に広がる風景はとても穏やかでとても死体が見つかった現場とは思えない。まして、河童が子どもを引きずり込むなんて、この風景を目の当たりにしては想像もつかないことだった。

 休憩所の側には、立て看板があった。

 僕は疲れた体に喝を入れると、立ち上がった。立て看板の内容に目を移す。看板には月野沼の紹介が記載されていた。

 月野沼の周囲は十五キロメートル弱。水深は十メートル以上のところもあるようだ。昔はうなぎが捕れたため、鰻丼うなどんの発祥の地と云われている。そのため、月野沼の周辺には鰻料理を扱う店が多く存在する。昔から月野沼には、河童が住んでいるという言い伝えがあり、河童の目撃情報が数多く報告されている。

 看板には、河童が子どもたちを沼に引きずり込むとは書いていなかった。あの話はどこから来たのだろう。

 僕が河童について思いをはせていると、カッちゃんが隣にやってきた。ざっと看板に目を走らせると、僕の背中を勢いよく叩く。

「ほら、子どもが月野沼に近付いちゃダメだなんて書いてないじゃん。うちの大人たちが勝手に言ってることなんだよ」

 自信満々に言うと、カッちゃんはズンズンと沼に向かって歩いていく。

 僕も仕方なく、カッちゃんに続く。

「でも、事件から数日で普通になっちゃうんだな。もっと警察がやる黄色い……」

「規制線」

 いつの間にかついてきていた秀彦が助けぶねを出す。

「そう!その規制線がまだ張ってあるのかと思ってたよ」

 確かに、沼にはテレビで見るような警察が立ち入り禁止にする黄色のテープなどは見当たらない。事件の名残りは、どこにもない。本当にここで白骨死体が発見されたのだろうか。

「こんなに何にもないんじゃ、ここに来た意味なかったな」

 カッちゃんは両手を上げて頭の後ろで組むと、足をだらしなく放り出すように、まるでふて腐れたように足を進める。

 自分が河童ヶ池に行こうと言い出したのに、ふて腐れられても……。僕らは止めようって言ったのに。

 僕が恨めしい視線を背中に投げつけていることなど気にも留めずに、歩き続ける。

 河童ヶ池の周りは草が生い茂り、どこまでが地面でどこから沼が始まっているのか分からない。特に柵などは設置されていない。やはり僕らの親が言うように、河童ヶ池には近付かない方がいいのではないだろうか。

「うわっ!」

 僕の数メートル先を歩いていたカッちゃんが、突然声を上げた。

「どうしたの?」

 秀彦と僕が駆け寄ろうとするのを、カッちゃんが制止する。

「もう、ここから沼になっているみたいだ。片足を突っ込んじゃったよ……」

 見ると、カッちゃんの右足が足首のところまで濡れてしまっている。

「最悪だよー!」

 言いながら、慎重に回れ右をすると、カッちゃんが僕らのところまで戻ってくる。

「大丈夫?」

「どこから沼になっているか分からないね。……これが、僕らの親が河童ヶ池に近付くなって言ってた理由かもしれないな」

 僕の冷静な分析に耳を貸さず、カッちゃんはぶつぶつ言いながら右足を振り、少しでも水気を吹き飛ばそうと努力をしていた。

「暑いんだから、すぐに乾いちゃうよ」

「そうだけどさ……。俺、この靴の中に水が入ってグチョグチョしてる感じ、大嫌いなんだよ」

 秀彦に応えながらも、カッちゃんは足を振るのを止めない。

「やっぱ、ダメだ」

 カッちゃんは諦めて右足のスニーカーと靴下を脱いで、裸足で歩き始めた。

 片足が裸足で、片足が靴という不思議な状態の方が気持ち悪いと思うのだが、カッちゃんにはそうではないらしい。

「これからどうする?」

 片方裸足で歩くカッちゃんの後ろに続きながら、秀彦が僕に問い掛ける。それに答えたのは、僕ではなくカッちゃんだった。

「帰るか。ここにいても何も分からないし」

 僕らはそのまま自転車置き場へと向かった。

 カッちゃんの言うとおり、ここに長居しても得るものはなさそうだ。ただ、ここ河童ヶ池に来ると言い出したのは、他でもない。カッちゃんなのだが。

 河童ヶ池から帰る道は、足が重かった。完全な無駄足だったからだ。それに、親との約束を破るというおまけ付き。ただでさえ、疲れから足が重かった。それに、罪悪感がより足を重くしていた。

 図書館を通り過ぎ、家に近付くと、今日はそのまま解散することにした。まだ正午過ぎではあったが、往復一時間、自転車を漕いで疲れていたし、数年前の事件も調べつくした。今回の死体発見についてもニュースで報道されることしか知りようがないからだ。

 もう、僕らができることは新しいニュースを待つことしか残されていなかった。……と思っていた。カッちゃんがとんでもないことを言い出すまでは。

 そう、カッちゃんは別れ際にとんでもないことを言ってのけた。

「そういえばさ、昨日さ、千葉刑務所にいる長岡直人に手紙を出したんだ」

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