漆黒の獣。
出席番号2番 綾瀬みう
出席番号4番 庵野凛子
◆◆◆
「つべこべ言わずに暗記するだけなのに、何がそんなに難しいの?」
漆黒の獣のごとき黒髪をかすかに震わせて、私を横目で見る庵野凛子。中世の貴族みたいな高貴さ、と言ったらいいのか。深窓の令嬢という言葉がぴったりなクラスメイト。
そんな私の隣の席のお姫様に、容姿だけでなく頭のつくりの違いまで指摘されて、愛想笑いを浮かべる。
「やっぱりそういうもんなのかな……?」
「暗記科目を暗記しないなんて、100m走でほふく前進するようなものよ。」
遠回しに、いや、わりと直接的に……間違いなく非難されている私。でもぐうの音も出ない! きっと凛子の言うとおりで、暗記が苦手な私はその現実から目をそらし続けているだけにすぎないのだろう。
今できることがあるとすれば、30秒前にタイムスリップして、日本史ってどうやって勉強するのかな? なんて愚問を凛子に決してしないよう過去の綾瀬みうに忠告することだ。
小テスト前の最後の10分休みで、教科書を必死に覚えこむ私と、分厚い文学書を読んでいる凛子。この余裕、この優雅さ! 庶民と貴族はこんなに違うのか! もはや人間のレベルが違う気がしてきた。
「私の勉強法、教えてあげましょうか。」
もうとっくに愛想を尽かされたと思っていたら、凛子は私に話しかけてくれた。隣を見ると、本から顔を上げてこそいなかったけど。
「……聞きたい!」
凛子はゆっくり、隣に座る私を見る。見る、というか、見据える。真っ黒な髪。真っ黒な瞳。けぶる闇が横たわっているような、そんな奇妙な美しさをたたえた女の子。人形のようでもあるし、悪魔的な気さえするし、でもちょっとばかり容姿端麗の、嘘……超美形なだけの普通の女子高校生。でも、私の隣に座って日常生活を送っているとか、何かの冗談のように思えるほど同じ生き物とは思えない同級生。
「教科書を隅から隅まで丸暗記するの。以上。」
凛子はそう言うと、再び文学書に視線を戻し、片手で頬杖をついた。
「……まいりました……。」
聞こえていてもいなくてもよかったんだけど、そう呟くしかなかった。同じ人間なのにこんなにも差が出るものなんだろうか。ちょっと残酷すぎやしませんか。神様仏様!! でも空からはこんな声が聞える。天は二物を与えないと言ったな? あれは嘘だ!
「綾瀬さん、誰が一番好き?」
打ちひしがれる私に、突如、黒髪女神の声が降ってきて、私は軽く動転する。取り乱したが、冷静になればなんてことはない。このタイミングでコイバナを振られるはずもなく。凛子様が私のような下賤な者とそんな話題に興じるはずもなく。小テストの範囲に登場する鎌倉仏教のお偉い開祖様たちのお話だった。
「えーと、親鸞かなぁ……。あと、一遍?」
綾瀬さんらしいわね、と独り言のように呟く凛子の真意が、測れなかった。やっぱり、南無阿弥陀仏と唱えていればなんとかなるっしょ的な短絡的思考で生きている生物だと思われたのだろうか。もう踊るしかないぜ一遍さん!
「凛子は、どうなの……?」
何をそんなにビビっているのか、という感じで私は尋ねる。だって仏敵だ、とか言って突然長い棒とかで叩いてきそうな、そんな雰囲気を持っている凛子ですから。
私は凛子がゴーストバスターでも驚かない。悪霊退散☆除霊少女凛子様。コアなファンがたくさんつきそう。
「日蓮」
何の迷いもなく、端的に完結に凛子は答えてくれた。そして、聞いたところでその次につなげる話題がないことに気づく私。でも何かを言わなくては、と変に焦っている。情けなすぎて泣けてくる。
「南無妙法蓮華経……?」
凛子が、小さく溜息をつくのがわかる。
「お題目を唱えても浄土にはいけないわよ。そのあたりはテストには出ないけれどね。」
とりあえず、凛子に気分悪いです、と言われたことだけは理解した。なんだろう、今日はとにかく噛み合わない。このまま引導を渡されそうな気さえしてきた。
「なんか……ごめん……。」
なんで謝ったかと言われたら、きちんと答えられないけど、そうしないと気が済まなかったし、まずい気さえしていた。
凛子は再び本から目を離して私を見つめ、静かに見据えて口を開く。
「……謝る必要はないわ。だって綾瀬さん、
どうして私の当たりがきついか、わかっていないんでしょう?
理解できていないことについて謝るのはスマートではない。
そして思考停止よ。」
「ごめん凛子、もう泣きそう。」
「あら、いじめてごめんなさいね。
でも私、あなたのことが嫌いだとか憎いだなんて思ったこと一度もないわ。
それだけはわかっていてほしいの、綾瀬さん。」
「うぅぅ……でも手厳しいです凛子様……。」
凛子は、突然ふっと笑う。切りそろえられた前髪が、さらりと揺れて美しかった。あ、これぞ本当に女神。
「綾瀬さん。あなたは本当は頭がとてもいいんだから。
しっかりと自分の頭で考えないとダメよ。
使わないと錆びてしまうし、怠けるとどこまでだって堕落するのが人間です。」
「私はすでに堕落した人間です……。」
「自覚があるのなら尚更ね。お題目を唱えても救われるのは浄土にいってからよ。
現世では救われない。
そんなのって、今を生きる私たちにとっては関係のないことだと思わない?」
「地獄に落ちるのは嫌だけど……。」
「あら、そんなのなんてことないわ。だってこの世界が地獄みたいなものだもの。」
さらっと恐ろしいことをいう凛子。私はそれなりに楽しく生活させていただいておりますので、凛子の言うことはピンとこないまでも、的外れでもないことはなんとなくわかった。
「でもあつあつの釜の中で煮られたりしないよ?」
「ふふ、その表現だと体の疲れがとってもとれそうでいいわね。」
凛子は愉快そうに笑う。さっきまでつんけんと冷たく当たられたのか嘘みたいだった。嫌いだとも憎いとも思ったことはない。その言葉は本当だと思えて、私は胸をなでおろす。
「……話が逸れたけれど。私があなたにいらいらしていたことは事実です。
感じたでしょう?」
「あ、やっぱり……。」
「それには理由があるわ。あなたは本当はできる人。
頭がいいと言ったけれど、何も成績の話ばかりではないわ。
とてもいいものを持っているのだから、
それを腐らせるようなことだけはしないでほしいの。
日本史の小テストごときで右往左往するような人間になってほしくないわ。」
「おおう……。か、買いかぶりすぎじゃないかな……?」
「いいえ。私にはわかるわ。」
真っ黒な瞳が、私を見つめる。射抜く、といったほうが適切かもしれないほど、強く。
そういえば話し込んでしまって、最後のテスト勉強は進んでいない。でも、きっと今、私は凛子と今後に関わる大切な話をしている。こっちのほうが、きっと大切。
「……もっと頑張れってことだよね?」
「ふふ、アバウトね。でも、そういうこと。」
にっこりと笑う凛子を見て思う。常々人を突き放すようなオーラを発しているけれど、この子は実は素直でいい子なのかもしれないと。私も凛子を心底恐いとか、付き合いが悪くて面倒な奴とか思ったことはないんだけど、今まで以上に一歩踏み込めるような気がした瞬間だった。
「私はいつも一人でも生きていけると思っているわ。
それでもね、失いたくないものはあるの。そう、例えばあなたの信用とかね。」
「私の……?」
「そうよ。私に忌憚なく接してくれるの、綾瀬さんくらいだから。
きついことを言ったかもしれないけれど、どうか許してほしいの。
気分を悪くしていない?」
「いえ、全然。むしろなんだかありがとう。」
「どうしてありがたいと思ったのか、きちんと考えて認識することよ。
でも、今のはいいわ。とてもよかった。こちらこそ、ありがとう。」
最後に満足そうに笑うと、凛子は文学書の読書に戻った。そんな凛子の横顔を見ていたら、始業のベルがなってしまった。でも、こうして凛子と話したことに後悔はなかった。
正直なところ、頭が半分回っていないというか、凛子が私に投げかけてくれた言葉の意味を半分も理解できてはいない。ただ、そんなふうに私のことを見ていてくれて、よく思っていてくれる人がいることがただありがたかった。
あなたはできる、そう言われたことが、私に勇気をくれる。そうだ、私にはやりたいことがあるはずだ。この先に、進まなくてはたどり着けない明日があるんだ。
そのためにも、この冬を越えなくてはいけない。
小テストくらいで、つまづいてなんか、いられないのだ。
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