春になったら。

 出席番号2番 綾瀬みう

 出席番号21番 松崎静香


 ◆◆◆


 天童とわかれて、私は教室に向かって歩いて行く。

 運動部が朝練を始めたお陰か、学校は私のよく知る賑やかさを取り戻し始めていた。

 それでもまだ廊下に差し込む日差しは透明なままで、時間の感覚がなんだか曖昧だった。

 玄関の前に通りかかる。ジャージにアウトドアブランドのアウターを羽織った松崎静香が、脱いだ靴を下駄箱に入れているところだった。


「おはようおしず。私はテスト勉強のためにこんなに早く登校しているよ。」

「なにその説明ゼリフ。」

「先手必勝。」

「あー、どうせ聞かれるから的な。めずらしいもんね、確かに。」


 おしずはそれ以上突っ込もうともせず、内履きを床に放る。彼女はとてもサバサバしていて、細かいことをネチネチしたり、小さなことでクヨクヨしない。とても気持ちのいい人。余計なことなんて言わなくてもよかったなと少し後悔する。


「おしずはいつもこの時間?」

「うん。特に理由はないけど早起き慣れてるから。」

「ああ、登山部だもんね。朝早いんだよね?」

「そう。週末はまあ、大体始発だよね。」


 おしずが内履きをはき終わるのを待って、一緒に歩き始める。外は相当寒かったはずなのに、おしずはすぐにアウターを脱いで、なんだか暑そうだった。


「ジャージで登校ってことは…もしかして運動でもしてきたの?」

「運動って運動はしてないよ。ただ今日は歩いてきたのと、八坂神社に登ってお参りしてきた。」

「え……家から!?」

「家から。」


 おしずはそういうところがある。「山に比べたら平地なんてたいしたことない」と言ってよく平気で10キロくらい歩いている。おしずの家は、この街の駅から二駅くらい離れたところにあるはずで、そこから歩いてくるとなると……正確にはわからないけれどかなりある。私にとっては自転車でも気軽にいこうとは思えない距離だ。


「よく……歩くよね……その距離……。」

「ん。まあ慣れだね。」


 そしていつもこんな感じ。たいして大変でもなさそうに。さして面白くもなさそうに。


「トレーニングの一環なのかな、やっぱり。」

「そう言っておけば聞こえはいいけどね。歩くの好きなだけだよ。」

「そっか……。」


 私は帰宅部である。運動は別にできないということはなく、むしろ平均的になんでもできるんだけど、正直体力はそんなに自信がない。だから何かスポーツと言われると敬遠してしまうんだけど、登山だったらちょっとやってみてもいいかなと思う。というか、おしずとなら一度登ってみたい。メイメイづてに聞いた言葉が、とても胸に残っているから。


「目で見えるところまでは……歩いていけるんだもんね。」

「ん、なんだっけそれ。」

「おしずが言ってたって、メイメイに聞いたよ?」

「ああ、うんうん。言った言った。やたら感動された記憶があるよ。」

「私も結構感動したよ。」

「そう? なら今度山行こうよ。実感するから。」

「おしずとなら登ってみたいって、今思ってたところだよ。」

「お、いいね。じゃあ春になったらいこう。」

「やっぱり冬は危ないの?」

「そうだね。初めての子を連れて行くのはさすがに。

 なんかあったら責任取れないしさ。」

「そうだよね。」


 私は春先におしずと一緒に山に登る自分を想像した。……できなかった。というより、春が来るイメージがなんとなく湧かなかった。それくらいに、今は冬の真っ只中なのだ。

 冬の山……。私はお母さんの故郷を思い浮かべていた。雪深い東北の町。よくスキーに連れて行ってもらったのを思い出す。最後に行ったのは中学三年のときだったような気がする。


「おしずはウインタースポーツしないの?」

「やるよー。スキーにスノボにクロカンも。」

「なんでもやるんだね……。」

「山に関わることは貪欲にやっていくスタイルです。」

「恐れ入りました。いいな、いつか一緒行ってみたい。」

「あれ、みうもやるの? ああ…ご両親東北なんだっけ?」

「そうだよー。お父さんが岩手で、お母さんが秋田。」


 お父さんの実家にはあまり行かない。まあもういないからなんだけど。

 お母さんの実家の秋田にはよく帰る。この冬休みも私は行きたかったんだけど、お母さんの仕事が忙しくて延期になってしまった。おばあちゃんが買ってくる甘い豆餅をストーブで焼いて食べたかったのに。


「なんだ、もしかしてみうと結構話合うのかも。今まで損してたな。」

「あはは、なにそれ。」

「いやぁ、いないって山の話できる子。部員もやる気ないしさぁ。」

「そんな感じなの?」

「うん、全然集合とか守んないし。だから春になったら絶対山に行こう。

 道具は貸すから。」

「ありがと! いくいく、絶対行く! 他に誰か誘う?」

「……陽菜とか。」

「え、絶対来なそうじゃない!?」

「あいつは一回連れてったほうがいい。」

「幼馴染なんだっけ。」

「腐れ縁の間違いだね。」


 幼馴染でどうしてこうも変わるものか……というくらいおしずと陽菜は真逆な子たち。不思議だな、と思うけれど私は並んだ二人を見ているのが結構好きなので、そのメンバーは楽しそうだなと思う。感じられなかった春が、少し顔を出した気がした。


「春かぁ……。」


 私は無意識につぶやいていたらしい。隣のおしずが吹き出した。


「なんか今のおばあちゃんぽかった。」

「えぇぇえ~!?」

「縁側で猫なでながら、言ってる感じ。」

「やめてよ…まだ花の女子高生だぜ!」

「たいしてそんなふうにも思ってないくせに。」


 気づけば教室は目の前だった。透明な光が、少しだけ変わり始めて、もうすぐ学校としての一日が始まる予感を私に告げてくれる。

 春はまだ遠い。すぐやってくるなんてとても思えない。北風は私たちを芯まで冷やし、隙さえあれば心まで凍らせるつもりで吹きすさぶ。

 圧倒的な死の匂いが充満したこの空の下、私は息を潜めて待ち続けるのか。

 それとも、吹雪で切れた肌から血を流しながら前に進むのか。

 わからないけれど。なんとなく越えていける気はしている。ほんの些細な、約束ができたから。


「春になったら、私たちも三年か。」


 最後の春。最後の青春。

 たどり着くためには、この冬を越えなくては、いけないのだから。




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