第11話 エラーの修復

 ――思いは燻らせるだけでは意味を成さない。

 ――そう、解き放ってこそ。

 

 


 ディンギル。神の魔力ともいわれるその力は、概念にすら到達すると言われている。神遣いであるカイリにもその力は許されている。それを用いれば、この学校に張られている魔力感知をすり抜けて、より精密なエラーの探索を行う事が可能だろう。

しかし、エラーもディンギルで出来ている。もしエラーがディンギルによる干渉を受けたら、あるいはディンギルの存在を感知したら何らかのアクションを起こす可能性が高い。

カイリがこの世界に移る際に得た知識のひとつだった。メモ帳を閉じ、一人稽古に励んでいるミシュリーを見た。二連敗したためか、さらに気合いの入った表情をしていた。

もし、彼女にディンギルを用いた干渉を行ったらどうなるだろうという考えが頭によぎる。反応して出てくれば、この場で捕まえられるかもしれない。

 では何故、干渉を行わないのか。それはディンギルが普通の人間にとって害になってしまうからだった。精神に大きく依存するディンギルを、扱いに慣れていない人間が得てしまうと暴走してしまうことがある。エラーが人体にディンギルを流すことも、カイリが流すことも同等だった。


「ちょっと、アンリエトに会ってくる」


 エラーを炙り出す方法が見つからないカイリは、今一番疑っているアンリエトに話をしに行くことにした。エラーによって精神がおかしくなっていないか確認するためだ。


「へ? 特訓に付き合ってくれる約束は?」


 毎日のごとくカイリに朝の練習を誘うミシュリーは、頬に伝う汗を裾で拭っていた。


「……ほら」


 カイリは胸ポケットからメモ帳を出し、切り取った。


「ここにメニューが書いてある。これを見てくれ」


 紙切れをカイリから受け取り、さっと目を通した。そこには事細かにメニューが書かれていた。

「私バカだから分かんないわ」

「嘘つけ。それにお前、アンリエトのことを調べてほしいんじゃなかったか?」

「それはそうだけど……」


 昨日行われた騎士戦以降、アンリエトの様子が少しおかしいという。もしそれがエラーによって引き起こされたものなら、早急に手を打たなければならない。


「私も」

「ダメだ」


 カイリはさっと右手をミシュリーの前に出した。


「まだ何も言ってないじゃない!」

「言おうとしてることはバレバレだ。気持ちもわかる。アンリエトが黒か白か見届けたいのも分かる」

「じゃあなんで!?」


 カイリはミシュリーの右手を取って、無理矢理メニューの書かれた紙を握らせた。


「ちょ、いきなり何!?」

「お前を危ない目に合わせたくないからだ」

「え……」


 我ながらくさい台詞だと思いながら、カイリは真面目な顔で言った。ミシュリーは目を見開き、乱雑にカイリの手をはねのけた。キョロキョロと顔を右往左往させ、くるりと回ってカイリから顔を反らした。


「そ、そんなこと言うのは……なんかズルいわ」


 もじもじと揺れるミシュリーの背中。


「わ、分かった。私待ってる。だから、ちゃんとどうなったか教えなさいよね!」

「もちろん」


 許しを得たカイリはミシュリーから提示された条件に同意し、アンリエトの元へと足を進めた。

 と、その時。


「……!」


 カイリの表情が強ばる。目を細め、北の方へと視線を向ける。どくんどくん、と鼓動が大きく波打つ。


「どうしたのよ?」


 ミシュリーの声で我に帰ったカイリは、無言で走り始めた。

 ――遅かったか!

 一心不乱に、カイリは駆ける。

 カイリがディンギルを使えばエラーに感づかれるのと同じで、エラーがディンギルを使えば感づくことができる。

 つまり、エラーが動き始めた。方向は第三闘技場。人外な脚力で跳び、三十メートル近い壁を越える。そしてそのまま、フィールドへと着地した。


「あっ……はははは! カイリ=ロイスウェル、どうだ私の力は!」


 ぞくりと、悪寒を感じた。

 草原と川の舞台に倒れているのは三人の女子生徒。カイリは彼女らに見覚えがあった。昨日、アンリエトらのチームを負かしたチームのメンバーだっt。アンリエトが闘技場にいたのは、彼女らを倒すために粒界の使用が制限されないためだろう。いや、もしかしたらカイリとも戦うことを見込んでなのかもしれない。

 カイリは咄嗟に三人のそばにしゃがみ、様態を見た。特に致命傷は負っていない。息もしていることから、ただの気絶だとカイリは判断した。その三人を睥睨し、アンリエト=リリューは高らかに笑っていた。普段からは想像のつかない、下品な笑いにカイリはさらに確信を深める。

 アンリエトは今、心を乗っ取られかけている。

 外見はいたって普通。何も変わらない。が、表情がおかしい。いつでも冷静さを崩さない彼女がとても下品な笑みでカイリを見下ろしていた。


「カイリ=ロイスウェル。昨日の話を覚えているか?」


 低い声でアンリエトは尋ねた。

 昨日、カイリは敗戦した後のアンリエトに出会った。それは本当に偶然の出会いだった。アンリエトは気丈に奮っていたが、苛立ちが表情と口調から滲み出ていた。

『あの戦いで、私の力は仮初めのものだと知ったよ。戦い前に練る策略など、固定観念に塗り固められた諸刃の剣だった。私の想像を越える者に、どう策略を練ればいい? それを知るべく今日、上学年の強いチームに対戦を求めたが……結局、私の渾身の策はものの数分で使えなくなったよ』

 自らの唯一の力であった知能の役立たずさをカイリに気付かされ、確かめさせられた。

 誇り高きリリュー家の一人娘は、完全に打ちのめされてしまった。カイリはかける言葉が見つからなかった。


「お前は強い。自らの才能を憎んだことなどないのだろうな」


 その目に含まれるのは尊敬と羨望と、殺意。

 カイリはその瞳から目を離さずに、腰を上げた。


「あるさ、俺にだって。それに力があるからと言って必ずしもいいわけではない。お前も知っているだろう? レティシアのことを」

「あんなもの、贅沢な悩みではないか!」


 ビリビリと空気が震える。アンリエトの怒りがカイリの中へと流れ込む。流れ込む激しい感情に、カイリの足元がふらついた。それだけではなく、アンリエトの叫びと同時に突風が発生した。

 これはディンギル特有の、想いがエネルギーとなる現象。それは一般的に『動心導理現象』と言われるディンギルの中でも有名で、厄介な性質だった。

 間違いなく、アンリエトはディンギルを使っていた。それはつまり、彼女の中にエラーがいるということだ。


「まあ、どうでもいい。今の私はもう違う」

「いや、一緒だ」


 怯むカイリを見てアンリエトは嘲笑った。が、カイリは冷ややかに彼女の言葉を否定して、背に担いでいた大剣を取り出した。


「仮初めの力なんかで満足して、先にあるのは後悔の渦中で泣くみずぼらしい姿だけだ」

「仮初め? 私の『本当の力』だ!」


 再びエネルギーを含んだ怒気が放たれる。草が怯えるように震え、川には逃げるように波紋が生まれる。吹き飛ばされないように足でしっかりと地面を踏み、髪をたなびかせながらカイリは体の力を抜いた。


「調度いい。先日の借りを返させてもらう……装甲展開イグザース・ユナーミル!」


 アンリエトは粒界装甲を発動。形は今まで変わらないものの、圧倒的な存在感を放っていた。

 カイリはコートを脱ぎ捨てた。


自己変換レベラシオ・アクティーブ滑彗グリセフ)


 カイリは魔力を自己変換させ、前回の戦いでも使った十八番の補助術を発動。風の力を宿した魔力を足元に溜め、いつでも行動を起こせるようにする。

 だが瞬き一つ許さぬ間に、カイリの懐にアンリエトが潜り込んだ。

 決してカイリは油断をしていない。アンリエトの速さが人間離れしていただけだった。


「くっ」


 体を捻り、アンリエトの両腕についている盾による攻撃をかわす。そのまま風の力を借りて、自分の体を空に浮かす。カイリの焦った表情を見て、アンリエトは恍惚な表情を浮かべた。

 大剣の切っ先をアンリエトの方へ向ける。


天啓授与レベラシオ・パッシフ旋雹アーキ!」


 大剣の先を少しだけ開く。九ミリ口径の砲身が姿を覗かせ、弧の軌道を描く雷弾を無数に放つ。だがアンリエトはそれらに見向きもせずに直線的にカイリへと突っ込む。よっぽど魔力を込めないと防げないはずの雷弾を、いとも簡単に鎧ではじく。

 さすがのカイリもここまで強化されているとは思わなかった。意外な展開によって生まれた隙を、アンリエトは右腕の盾で突く。

 寸前で、カイリは大剣を持っていない右腕でそのひし形の盾を掴む。そこを軸として体を一回転させ、蹴りを入れようとした。

 アンリエトは防ごうとすらせずに、鎧で受け止めた。


「っ!」


 只の蹴りでダメージを与えられるとはもちろん思わなかった。カイリはその体勢のまま、大剣の切っ先を戻して凪ぎ払った。


鋭化フィネス!」

 魔力的個体に強い特性を持つ刃を大剣に纏わせ、装甲を両断しようとしたが盾で受け止められた。本来のアンリエトならば防げない筈だったが、エラーの影響かかなり装甲が硬くなっていた。これもディンギルの動心導理現象によるもの。彼女の絶対的な自信と力への渇望が、盾の強度を数倍にも上げていた。


「アンリエト! 君はそのような仮の力を認めていいのか!?」

「だからこの力は――」

「声が聞こえた筈だ! 囁くように諭す声が!」


 全力で大剣を押しながら、カイリは叫ぶように問い詰める。


「自分の力で乗り越えなくて、何が騎士だ! 悪魔に魂を売ってまで強くなることがお前の求めた結果なのか!」

「お前のような……お前のような力在るものには分かるまい! 求めても求めても手に入れられない者の心を! 壊天落下ディコーブル・デュ・シエル!」


 大剣を防いでいない側の、左手の盾が解離する。そして、現在までそれらを結びつけてたエネルギーが一つの弾丸となってカイリの体へと降り注ぐ。魔力結合のエネルギーは分子と同じく大したものではない。だが、動心導理現象によって心が加わっているとなると別の話。アンリエトの盾は粒界装甲から生み出されたもの。その強固さは心の強さに比例する。

 怒りによって増幅した波動がカイリに直撃。地面が草地であったことと滑彗により生み出した風で致命的にならないほどには威力を殺すことができた。


「ごほっ!」


 それでも叩きつけられたのには変わりなく、数回咳き込むまで呼吸すらままならなかった。


装甲・複数展開ユナーミル・ノンブル・イグザース!」


 アンリエトの周りに十の盾が展開。鎧も先ほどの比較にならないほど大きくなっていた。

 二つの盾を相手にするので精一杯だったカイリに、五倍の数の盾を捌ききれるかどうかは、本人が一番分かっていた。

 だが、焦ったのはほんの一瞬だけ。


「分かるさ。俺だって、力だけが親の期待に応える唯一の手段だった!」


 カイリは怯まない。所詮、人間の所業。神遣いたる自分が怖じける必要がどこにあるというのか。

 例え、装甲十倍の防御力になったとしても、それを貫ける技をカイリは一つ持っている。


「この域に到達してなお、親には認めてもらえなかった。血が滲むような努力をしてなおだ!」

「――だから、どうした!」


 複数の盾を右腕に集め、ひとつの巨大な円錐型の槍を作り出した。アンリエトは怒り狂った表情で急降下して、一直線にカイリの頭を狙う。

 禍々しい狂気を見て、カイリはためらわずに大剣を展開した。砲身が瞬間的に変形して八・八口径の凶器へと生まれ変わる。蓄電部にカイリは先ほど発動した電撃を放ち、電気を溜める。騎士戦にて一撃でレティシアを破った技だ。

 レティシアに放った際は魔力だけで撃った。だが今回は、ディンギルを弾倉に込めている。魔力だけのときよりも、五倍まで威力を跳ねあげることが出来る。


「だから、俺は! 力以外のやり方で親を納得しようと考えた」

「この国では、騎士にとって力こそが全てなのだ!」


 カイリは舌打ちした。カイリの説得は何一つ彼女の心に届いていない。もとより、説得は苦手な分野であるので期待はしていなかったが、それでも試したのには理由があった。

 カイリの大剣が放つ一撃はあまりにも発射前後の隙が大きいからだ。普通の人間には耐えられないほどの反動が発生する。だからと言って体が動かせなくなるわけではないが、今のアンリエトなら一撃をかわして、カイリが動けない間に致命傷を加えることは容易にできるだろう。故に、会話によって動揺を誘い、動きを鈍らそうとした。

 カイリは躊躇っていた。それは今射っても避けられる可能性が大きいことでもあるが、的確に装甲を破壊しなければアンリエト自身に致命的なダメージを負わせてしまうこともある。神様はエラーを倒せとは言ったが、取り憑いたものを殺してもいい許可はおろしていない。

 それに、あのガサツな少女のげんこつを食らうのはもうごめんだった。

 カイリが躊躇う間にもアンリエトは落下する。一度かわして、技後硬直を狙う? いや、それがある保証がない。この大剣での砲撃を諦める? だが、カイリの中で最大の火力を誇る技以外であの装甲を貫ける?

 間に合わない。カイリは思考をキャンセルし、砲撃の準備に入った。


「私には、力こそが全てだ!」


「そんなこと、あるわけがないわ!」


 闘技場に響く第三の声。アンリエトを想う、お節介焼きの中のお節介焼き。アンリエトの目が微かに揺れた。心の揺らぎは、同時に動心導理現象の揺らぎをも示す。

 刹那、カイリは雷撃を放った。アンリエトの右腕の槍を、轟音と共に吹き飛ばした。アンリエトは声も上げずに吹き飛び、大きな飛沫をあげて川に落ちた。

 カイリが振り返ると、ミシュリー=シャイエが息を切らしながら立っていた。着替えてた途中だったのか、上はカッターで下はジャージという中途半端な格好だった。


「間に合ったか」

「間に合ったか、じゃない! あのメモ何よ! いきなり鳥の形に折れ曲がって驚いたわよ! 待ってって言っても走らなきゃつついてくるし! 何気に痛いし!」


 ミシュリーの頭の上に、白い鳥が止まっていた。しかもそれは、先程カイリが渡したメモ用紙から出来ていた。


「それについては後で言う」


 カイリは川へと歩いていき、尻餅をついている少女の前に立った。


「自分が……この自分が……」


 全ての盾を貫かれ、鎧だけとなったアンリエト。ダメージの為か、その鎧も薄れかけている。彼女はわなわなと震えている両手を見ていた。呻いてはいるが装甲を再び展開する様子も見られないので、カイリは小さく深呼吸した。そして、二歩さがった。

 代わりに、ミシュリーが前に出る。川に足を付け、アンリエトの袖をグッと掴む。


「アンリ、いい加減目を冷ましなさい」

「み、ミシュリー……?」

「アンリは確かに建国騎士よ。皆を率いる高貴な血統よ。強くいなくちゃいけない。けど、けど……」


 ミシュリーはアンリエトの顔を、自分の胸に埋めた。

 カイリは何も言わない。今は割り込むべきではないと思ったから、横で二人を見守っていた。


「私たちと一緒に頑張るって言ったじゃないの」

「アンリたちと頑張ったところで、自分は強くなれない。他人の力に依存するだけでは、何も得ることなどできない」


 その様がこれだ、とアンリエトは言った。対し、ミシュリーは眉をしかめた。


「なんで強くなる必要があるのよ? 確かに騎士には力が要るって言うわ。でもそれって、『暴力』だけとは言ってないじゃない」


 アンリエトの体が震える。ミシュリーは彼女の背中を撫でながら続けた。


「暴力だけで認められるなら、犯罪者も正義の味方よね。でも、そうじゃないわ」

「じゃあ、何があるっていうんだ」

「それは自分で考えなさいよ。私、馬鹿だから分かんないわ。でも、一つだけ言わせてもらうわ」


 ミシュリーはアンリエトを体から引きはがし、顔を正面から見る。


「悩んだら私とレシュに相談しなさい。何年親友やってると思ってんのよ、バカ」


 アンリエトはハッと目を見開き、俯いた。けれども、その顔には先程までの狂気のかけらは残っていない。


「剥ぎ取るなら、今のうちか」


 先程の言葉は、アンリエトの心を十分に揺らしただろう。今エラーがとても不安定な状態にあることはカイリにも分かった。

 大剣をレティシアに向けた。


「その花で、何をする気?」


 ミシュリーが尋ねた。


「今から花を咲かし、アンリエトを救う」

「もう咲いてるじゃないの」

「いや、これはがくだ」


 カイリは大剣に手をかざした。すると、大剣を覆うように鮮やかな赤色の花びらがすうっと現れた。


「なにこの花……」


 その中心からは半透明の触手が二本漂っていた。それらはゆっくりとアンリエトの頭に伸びていった。気味の悪さにアンリエトが退こうとしたが、カイリが制した。


「大丈夫だ。『厄』を取り除くだけだ」


 頭に触れたとたん、彼女の体から直径五十センチメートルほどの黒い固まりが浮かんできた。

 パッと見ると黒い霧の塊。黒色のもやもやとしたものが球形を象っていた。よく見ると、その霧の中に五センチほどの黒い球があった。模様、傷、光沢の一切ない、黒色に塗りつぶされた球。

 これが、エラーの核だ。


「見ていて気持ちが悪いな」

「同じことを思ったわ。なんか、胸が痛い」


 二人が思っていることはもっともだ。エラーは人の負の感情の塊。核を凝視していることで、二人にふん感情の一部が流れ込んでいるのかもしれない。

 二つの触手が黒いものを抱えて花の元へと帰って来た。


「それは?」

「お前に取り憑いていた悪霊だ」

「なんか、怖いな」


 アンリエトが恐怖心を抱くのはごく当然のこと。なぜならエラーは、人の負の感情が集まって出来たものだから。


「さ、久しぶりの馳走だ。存分に味わえ」


 カイリの言葉に呼応するように、赤き花は黒い塊を飲み込むように花を閉じた。


「その剣はいったい……それに今の黒いのはなんだ」

「あれが悪霊ね」


 アンリエトから体を離し、カイリが答える前にミシュリーが言った。カイリは大剣を空に掲げた。今は普通の大剣へと戻っている。


「そうだ。人の心に住み着き、心の隙を使って人の心を触発する」

「それが、自分の中に?」


 まるで意外だという口振りに、カイリは「ほう」と声を上げた。


「……なんだ、違和感を覚えなかったか? いつもの自分より感情のセーブが効かなかったり、力が急に強くなったりとか」

「今思えば確かに、まるで別人のようなことをしていたな。だが、その時はまるで違和感を覚えなかった。いつもとなにも変わらず過ごしているようだったな」


 カイリは戦慄を覚えた。まさかエラーがそこまで対象に深く取り憑くことができるとは思わなかった。人の心に、痕跡なく居ることが可能なのだろうか?

 そもそも、エラーは神の粒子(ディンギル)から出来ている。きっとカイリには理解の及ばぬ理論が、隠されているのだろう。自覚症状すら殺しうる精神侵略が可能な術が。


「そんなことより……ああん、もう上もびしょびしょよ」

「ミシュまで川の中に入ってくる必要はなかったのに。ほんと律儀な奴だな」


 そういえばミシュリーもアンリエトも、川の中に座り込んでいた。今の季節、川は氷のような冷たさで触ることすら憚るほどだ。闘技場内とはいえ、自然の川をそのまま引いているので温度は変わらない。わざとではないといえ、アンリエトを川に落としてしまった。

 アンリエトは自分で立とうとしているが、どうやら足に力が入らないらしい。エラーによって限界以上の力を無理矢理ひきだされた反動だろう。

 カイリは大剣を地面に置いて、二人のもとへと歩く。

 二人の周囲に風の力を得た魔力が渦巻き、川の水をはね除ける。二人のいるところをよけるように、川が流れるようにした。


「これで、これ以上濡れなくて……済む……」


 カイリはさっと身を翻した。ミシュリーとアンリエトは顔を合わせた。そして一つの考えに至り、二人は各々の体を見た。

 アンリエトは騎士戦用の薄着だった。水で体にぴったりと貼り付いていて、体のラインが浮き彫りになっていた。しかも薄い色であることが災いして、所々透けそうになっていた。

 ミシュリーは下にジャージを着ていたが、上はカッターだった。カッターは透けて下着が浮き出ていた。


「カイリ=ロイスウェル。何か……何か、正直に言うことはないかしら?」


 エラーに取り憑かれたアンリエトより恐ろしい怒気を放つミシュリー。声が怒っていないように努めているところが、なお恐ろしい。


「あ、あの、ミシュリーさん?」

「正直に、何か、言う、ことは、ない、かしら?」


 ぞくっと悪寒が走る。まるでナイフを首に当てられ脅迫されているような感覚。彼女の表情が気になるのに、振り返ることが許されない程の気迫。


「えっと……すいませんでした!」

装甲展開イグザース・ユナーミル!」




「……大丈夫か?」


 地にうつ伏せになっているカイリに、傍でしゃがんでアンリエトは声をかけた。カイリは手をひらひら振って生きていることを伝えた。ミシュリーはカイリを殴った後、着替えに寮へと帰っていった。


「ああ。お前こそ、特に何もないか?」

「撃たれた腕が痛むぐらいだな」

「そうか」


 なぜだと首をひねるアンリエトの隣で、カイリはほっとした。先程エラーを剥ぎとった触手はディンギルで構成されていたので、アンリエトに悪影響が及んでいなかったのか心配だったのだ。


「ほんと、あのミシュリーのパンチを受けて傷ひとつないなんて、お前は人間を越えているな」


 アンリエトはくすりと笑った。


「……神遣い」

「ん?」

「俺は普通の人とは違う、極端に言えば神遣いという人種だ。悪霊を倒す件は神に依頼された。俺を認めてもらうために」

「……」


 カイリの突拍子もない話に、アンリエトは驚いた。


「お前の言う通り、俺は強い。自分で言うのもなんだが、神遣いの中でも結構才能のある方だった。だけどな、この強さは八歳の頃から持っていたんだ。正しく言うと、八歳の頃から十数年間何も伸びていない」


 アンリエトは大袈裟な話に驚き、本当かどうか疑いもした。それでも、何も訊かなかった。


「もちろん自分の力に驕っていたことは否定しない。だが、俺は努力してさらに力を得ようと努力した。……だが、ダメだった。そもそも物心つく前から力を得たんだ。どう鍛えればいいのか検討もつかない。他の人に学んだりしたさ。……それでも、だめだ。親、親戚、友達、先生……果ては、『神様』まで。俺に期待してた人たちはそろって嘆息し、離れていった。その時に俺は気付いた」


 カイリはゆっくりと体を起こした。


「『みんな、おれの才能にしか興味が無かったんだ』と」


 カイリは座り込んで、真正面からアンリエトを見つめた。


「それから少し、俺は狂ったよ。今日のアンリエトのようにな。もちろん、悪霊は無しだ。……ほんとは、どこにいてもおかしくないのかもな、心の隙に住む悪霊って。今は考えを改めて、依頼をこなして認めてもらおうと思ったんだ」

「お前のあの時の説得は全部……」


 エラーに憑かれているときの説得は全部演技なのだと、実際にそんな目に会ったこと無いのだとアンリエトは思い込んでいた。


「俺はアンリエトを、力のみに固執する悪魔にさせたくなかった。しかし、俺はアンリエトの渇きを潤せるのは、認めてもらいたい人だけだということを知っている。今まだ苦しんでいることにも俺には分かる」


 カイリは親に、自分を見てもらいたかった。それを自立できていない子どもの我が儘だと言う人もいるだろう。もちろん、その通りだ。だが、子供時代に親から認められなかった子にしてみれば、それは『甘え』というより『乞い』といえよう。


「俺はただ悪霊を捕らえるためにここにいる。だけど、お前は放っておけなかった」

「放って……おけない?」

「お節介なのは承知の上さ。長々とすまなかったな」


 カイリは立ち上がり、目を反らしながら正面から自分のコートをアンリエトにかけた。


「川に落とした件も申し訳ない。風邪をひかない内に着替えてこいよ」

「……ありがと」


 アンリエトは顔を伏せながら、着替えに行った。


「……俺、何話してるんだか」


 誰もいなくなった闘技場で一人、ぽつんとつぶやいた。

 彼にとってのアンリエトは、いや、三人の少女はただの神託を達成するための存在だったのに。

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